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2話

第2話

しんと静まり返った浴槽に、白い湯気がゆらめいていた。


石造りの床は夜の冷気をまだ抱いており、裸足で立つとひやりとした感触が伝わってくる。壁に掛けられた燭台の火がかすかに揺れ、光と影を波のように広げていた。



私は広々とした浴槽に身体を沈め、濡れた髪が肩にかかるまま、そっと自分の腕を水面にすくい上げた。


湯のしずくをまとった白い腕にかつて刻まれていたはずのものが跡形もなく消えている。


夫の気を引くために何度も切りつけた手首の傷跡。


そして、もっとも自分を醜く感じさせていた、手の甲の固くなった膨らみ。食べたものを喉の奥から無理やり押し出すため、幾度も指を入れてできた吐きダコ。


それらはまるで、初めから存在しなかったかのように、つるりとした肌へと戻っていた。


私は信じられなくて、指でなぞって確かめた。


「……本当に、戻ってきたのね」


無意識のうちに吐息のような声がぽつりと溢れ、湯気の中に溶けていった。


容姿がすべての価値を決めると信じ込んでいたあの時の私は、食べることが怖かった。


食卓に並ぶ料理を見ても、心臓が凍るように強張り、やっと口にしても、結局は吐き出してしまう。そのたびに、手の甲は赤く腫れ、皮膚は硬くなり、傷は癒えなかった。


その傷を見るたびに私は劣等感に襲われ、抜け出すことのできない沼の中に引き込まれていた。


私は思わず目を閉じ、湯面に顔を少し沈めた。


心臓は落ち着いているのに、胸の奥が熱く、じわりと泣きたいような衝動に駆られる。


明日が来れば、ついさっき私が死ぬのを蔑んだ目で見ていた男の元へ再び向かわなければならない。


‘…自殺した罰なのかしら……’


この帝国で最もタブー視されている自殺をしたのがいけなかったのだろうか。


いくら考えても答えは出なかったけど、これからあの地獄のようなエルンスト公爵邸に向かうというのに、なぜか恐怖心はなかった。


これから起きることを知っているんだからそれを避ければいいの。


ルドウィグを愛さず、フィオナと彼の恋愛を認めよう。


出会って初日に関係がこじれたコーデリアともいい距離を保ちながら程々に仲良くしよう。


あれほどまでに妬ましかったフィオナのことも、はじめから受け入れてしまえば心が軽い。


あんなクズみたいな夫のことを絶対に愛さない。


この結婚が幸せなものではないと知っているのなら、その中で気ままに暮らせばいい。


‘…いっそ私も愛人のひとり作ってみようかしら……?’


どうせ彼は私が何をしても興味がないのだから。


「でも……どうせなら、この結婚が決まる前まで戻してくれたらよかったのに」


全てを受け入れても、やっぱりこの思いだけは消えない。


人生をやり直すにはもう手遅れな時期。この結婚を避けるには遅過ぎる。


だから私はこれが神が私に与えた罰なのだと思った。


皇命で決まったこの婚姻は、逃げれば反逆と同じ。家門の存続がかかっている以上、私の意思で覆せるものではない。


だが、それはルドウィグにとっても同じこと。彼もまた、逃げ出すことのできない鎖に繋がれていた。


「……こんなクソみたいな家門、捨ててもいいんだけどね」


自分を不幸にした元凶であるセレノア侯爵家なんて滅びてしまえばいいのに。


そんなことを何度も思ったが、結局私はどうすることもできない。


逃げてもどうせすぐに連れ戻され、今よりも酷い仕打ちをされるのが目に見えているからだ。


「どうせ、この運命からは逃げられない…そういうことでしょ」


私は自分に言い聞かせるように、吐息をもらした。


「だったら次はうまくやってやる」


そう言って、私はゆっくりと浴槽から立ち上がった。


濡れた素肌をタオルで覆うと、冷えた空気がひやりと肌を撫でた。


その感覚は、過去と未来が交差するような、奇妙に清らかなものだった。





翌朝。


私は正門の前に立ち、家族一人ひとりに最後の挨拶をしていた。


石畳の上には朝露がまだ残り、頬を刺すような冷たさが身に染みた。


門の向こうにはエルンスト公爵家からの迎えの馬車が到着しており、黒い塗装の車体に、冷たい陽光が鈍く光っていた。


いかにも大切な娘を送り出す直前の名残惜しい時間を過ごしているように見えるだろう。


だが、実際には優しい笑顔でつらつらと並べられる言葉はどれも罵倒でしかなかった。


「失敗すれば、ただじゃおかないぞ。」


 父の低い声が背筋を這い上がり、冷ややかな刃となって耳に突き刺さる。彼の瞳には娘への情など欠片もなく、ただ家の名誉と打算だけが潜んでいた。


かつては父の期待に応えたくて震える心を押し殺していたこともあったが、今はその声を聞くだけで吐き気を覚える。


母は憂鬱げにため息をつき、わざとらしく肩を落としてみせる。


「あなたのおかげで、私の可愛いジャネットをあの呪われた公爵家に送らずに済んだんだから…今回だけは感謝しなくちゃね。」


皮肉を含んだその言葉は、まるで彼女の存在そのものを厭うかのようだった。


一瞬でも彼女からの愛を望んだことが本当に悔やまれた。


その横で兄のアンタルが薄笑いを浮かべていた。


「何もできない能無しなんだから、せいぜい追い出されないように頑張れよ。」


そう言って私の顎をグッと掴み、力任せに顔を上げさせる。


その爪が肌に食い込み、鈍い痛みが広がる。


‘何もできない能無しってのはどっちよ。あんたが起こした罪の尻拭いをしていたのは私よ!’


私はそう言ってやりたい気持ちをグッと抑えた。せっかくこの家から出られるのなら、このくらい大したことじゃなかった。


さらに追い打ちをかけるように、妹ジャネットがツンと顎を上げ、澄ました顔で言った。


「お姉様のお母様みたいに、売春婦らしくその身体を売ってきてよね。」


 クスクスと笑いながら吐き捨てる声が、空気を汚す。前回と全く同じ言葉だった。


‘あんたはあんたのお母様に似て不細工なんだから、せめて賢い頭でも持っていればよかったのにね…’


このバカな兄弟たちに本心を言い出したらキリがない。


無駄なことに時間を使いたくなかったから、私は一番無難な言葉を選んだ。


「……心配は無用ですわ。」


私は穏やかに答え、振り返ることなく馬車の方へ歩み出した。背後に残してきた家族の声が遠ざかるたびに、胸の奥に冷えた安堵が広がっていった。


その時、不意に彼女を呼ぶ声が響いた。


「お姉ちゃん!」


振り向けば、朝の剣術の稽古を終えたばかりの弟のカイレンが駆けてくる。額に汗を浮かべ、少し荒い呼吸をしながら、それでもまっすぐな眼差しで彼女を見つめていた。


アンタルやジャネットと同じくセレノア侯爵の嫡子でありながら、彼だけは不思議なほどエヴァリアに懐いていた。


母親に何を言われても聞く耳を持たず、自分の思うままに動くカイレンは、変わり者と周囲から言われても気にする様子はない。


まだ12歳の幼い子なのに、この家で唯一まともな考えを持った人間だった。


「北部は寒いって聞くから、風邪ひかないように気をつけてね!」


短い言葉だったが、その声には確かな温かみがあった。


1度目の人生でも、彼だけはこうして私に優しい言葉をかけた。


‘この子も大きくなればジャネットやカイレンのようになるのかしら…?……それはちょっと寂しいな……’


込み上げるものを必死に押し殺し、エヴァリアは微笑んだ。


「あまり心配しないで…カイレン。」


その言葉を残し、彼女はゆっくりと馬車に乗り込んだ。


‘……死んでもこの家には戻りたくないわね……’


今まで忘れていたセレノア家での扱いを思い出せば、これから北部で暮らすことぐらいちっぽけに思えた。


何せ、誰も私に暴力を振るう人はいないのだから。






馬車の揺れに合わせて、エヴァリアは背もたれにもたれ、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺める。


揺れる景色はどこまでも続いているのに、私の胸の奥はざわついたままだ。


「お嬢様…」


イーダのかすかに震える声が私の思考に割り込んできた。


「エルンスト公爵家は呪われているって噂がありますが、本当に大丈夫でしょうか…?」


その瞳に浮かぶ心配を見て、思わず口元がにやけた。


「心配しなくてもいいわ。とって食われたりはしないわよ」


自分に言い聞かせるようにそう言って、私はそっと目を閉じた。


前世で植え付けられた孤独の恐怖と苦しみはすぐには癒えないがけど、ひとつだけ確かなことがある。


私がおかしなことをしない限り、公爵は私に危害を加えない。どれだけ私がめちゃくちゃな行動をしても手を上げることはなかった。


‘まぁ、私を相手する時間すら勿体なかったのでしょうけど…’


1度目の人生でも、私もはじめはまともだった。


公爵との関係を良くするために、離れで暮らしていた義父母との関係をよくしようと努力していた。


そのため少なくとも知らない地に嫁いできた令嬢という可哀想な立場くらいにはなっていた。


夫が愛する女性のフィオナにどれだけ理不尽な言いがかりをつけていじめても大して咎められなかったのはそのためだろう。


ただ、公爵の妹コーデリアとはどうしても素直になれなかった。


北部に着いた初日にコーデリアに公爵が私を出迎えなかったことに対して八つ当たりした。


何度も差し出してくれた手が私に向けられた好意だとわかっていたのに、フィオナに敵わない私に同情しているように思えてどうしてもそれを受け入れられなかった。


1度目の人生での不幸はどれだけ言い訳しても、私自身がもたらした結果なのだった。


でも、それだけではないことも事実だ。


だんだんと落ちていった私の評判に追い打ちをかけるようにアンタルが起こした罪を私になすりつけた。


セレノア家のためだとか言いながら私にスパイのような侍女をつけた。そのせいで、全く関係のなかったイーダまで殺されることになった。


隙だらけの計画で、できもしないことをやっては私にその罪をなすりつける。


嫉妬に狂い、すでに精神のおかしくなった女が自分はやっていないと言っても信じてくれない。誰も信じてくれない孤独の中で、私はもっと闇に堕ちていった。


何を思ったのか私はフィオナを殺そうとした。頭ではそんなことしても夫が私を余計に憎むだけだとわかっていた。


なのに、気がつけばもう取り返しのつかないところにいた。


私の行動に気がついたコーデリアは、フィオナを庇って自ら私が淹れた毒入りのお茶を飲んだ。


その時ようやく私は今までのことを反省した。何度も許して受け入れようとしてくれた義父母や義妹に酷いことをした。


何もかもが嫌になった私は、夫の目の前で死ぬことを決意した。


‘私が死んだ後…あなたは幸せになったの……?’


聞くことのできないその答えが、私をまた暗いところへ引きずり込もうとしている。


‘あぁ…どうして私はあなたを憎むことができないのかしら……。私を嫌っていたあなたを…。’


北部にくることはなんてことなかったけど、また彼を愛してしまうかもしれないということが怖かった。


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