1話
冷酷無比と恐れられる公爵ルドウィグに嫁いだ令嬢エヴァリア。だが愛のない結婚の果てに、彼女は夫の目の前で自害した。──はずだった。目を覚ますと、時間は結婚式の前日に戻っていたのだ。二度目の人生で彼女は決意する。「もう同じ運命は繰り返さない」と。社交界に渦巻く陰謀、エルンスト家を蝕む呪い、そして自身に秘められた力。避けられぬ運命の中で、彼女が見出すのは憎しみか、それとも愛か──。
第1話
‘社交界の華’
貴族の令嬢なら誰もが憧れる言葉。
輝く銀髪に儚い紫の瞳を持っていた私は、母から譲り受けたその美貌で社交界の頂点に立っていた。
流行の最先端をいき、私が着たドレスや装飾品はすぐに売り切れになった。
社交界では輝いていた私は、家では誰も想像もできないような扱いを受けていた。
母が死んで、ある日突然できた腹違いの兄妹や継母に死ぬほど虐められた。
無視や暴力は当たり前で、屋根裏部屋に閉じ込められてご飯も食べられない日のほうが多かった。
私が生まれたのはあんたたちの父親が妻がいるのに他の女に手を出したせいだ。
なのに、あいつらは私が全ての元凶のように扱う。
何日も薄暗い部屋に閉じ込められていると、自分でもおかしな考えに囚われることも多かった。
私が生まれたことが問題なのだろうか。
この家にいる間は誰にも助けを求めることもできず、物乞いになることもできない。ただ時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。
貧しくても母と街で暮らしていた時の方がよっぽど幸せだった。
日を重ねるごとに体はあざだらけになり、体重は減っていく。
それでも私を連れてきた父親を名乗るセレノア侯爵は一切気にかけなかった。
‘あのまま放っておいてくれたら良かったのに’
そんな恨みを訴えても誰の耳にも届くことはなかった。
幸か不幸か、私は母ににて諦めが早かった。
獣のような扱いをしてくる奴らに愛情を求めようなんて思ったことは一度もなかった。
私は成長するにつれ、体のラインがはっきりするようになった。
質素なデザインのドレスでも、私が着ればどこか豪奢に見えたのだ。
そんな私に目をつけた侯爵は社交界に送り込んだ。
案の定、整った顔立ちとメリハリのある身体のおかげで私はすぐに社交界の噂の的となった。
何通もの求婚の手紙と数多くの宝石が私に届いた。
その頃から侯爵は私を政治の道具として扱うようになり、虐められることも少なくなった。
運が良ければ、家門から皇后を輩出できるかもしれないとでも思ったのだろう。
そんなある日、私は侯爵に呼び出された。
「エルンスト公爵とお前の結婚が決まった。」
その言葉に耳を疑った。
革命派のセレノア侯爵家と対立する保守派のエルンスト公爵家。
いくら自分を道具としか考えていなくても、敵対するエルンスト公爵はないだろうと思っていた。
「皇帝からの命令だ。2週間後に出発しなさい。」
あぁ、何を期待していたのだろうか。
殴られても倒れても気にしない父親が、どうして呪われた公爵家に嫁ぐことは拒否してくれると思ったのか。
呆れて何もかもが嫌になった。
皇帝の気まぐれで決まった結婚は、私を地獄の果てへと連れ行った。
北部の呪われた公爵。それが私の夫、ルドウィグ・エルンストだった。
彼は一度たりとも私を妻として見たことがない。
久しぶりに屋敷に戻ってきても、私にかけられる言葉は冷たく、心を切り裂くものばかりだった。
その瞳に宿るのは憎悪だけ。私の存在は、彼にとってただの呪いに過ぎなかったのだろう。
けれどそんな彼の目の前にはいつだって柔らかく笑う娘がいた。
フィオナ。アルヴェノ侯爵家の一人娘。幼いころから共に育った彼女だけが、彼の頬に笑みを浮かばせることができた。
私は知っていた。彼が彼女に向ける温もりも、視線のやさしさも。
私の居場所は、最初からどこにもなかった。
周囲の貴族たちも、私を二人の間に無理やり割り込んだ邪魔者だと囁き続けた。
だから私は必死に抗った。惨めで浅はかなやり方で、フィオナに嫌がらせを繰り返した。彼の憎しみをさらに深めるだけだとわかっていながら。
今はもうそれを言い訳する気すら起きない。
だから、終わらせてやる。
「……あなたの望み通り、私は死んであげるわ」
口に出すと、不思議なほどに心は静かだった。
ルドウィグの剣先が私の喉元に触れる。冷たい鋼が肌をかすめ、震えるほどの恐怖が全身を走る。
それでも、私はその刃を手でぐっと掴んだ。血が流れ、赤が鋼を染めても離さなかった。
「あなたは……私からすべてを奪ったの」
涙で視界が揺れる。
声を絞り出すたび、胸の奥に積み重なった孤独と悲しみが溢れ出て止まらない。
「ここで過ごした三年間が……どれほど辛く、どれほど孤独だったか……あなたにはわからないでしょうね」
私は笑いたかった。せめて最後くらい、みじめに縋ることなく。
けれど、彼の目には相変わらず憎しみしか映っていなかった。
その瞳に、私は最後の望みすら踏みにじられたのだ。
「これだけは……忘れないで。あなたが……私を殺したのよ」
震える声でそう告げたとき、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
私は自ら剣を押し込む。鋭い痛みが喉を貫き、熱い血が溢れ出す。
──あぁ。
どうして私は、あなたなんかを愛してしまったのだろう。
そんな悔恨を最後に、私は崩れ落ちていった。
これでようやくこの忌々しい人生から解放された。
────はずだった。
しかし次の瞬間。
……痛くない。
首を裂いたあの激痛が、血に溢れるあの感触が、嘘のように消えた。
重かった身体が急に軽くなり息を呑む。恐る恐る目を開けると、そこには懐かしい光景が広がっていた。
古い木製の机。窓辺に置かれた安っぽい花瓶。壁にかけられた色褪せた布。
セレノア家にある小さな私の部屋だった。
心臓が喉から飛び出すほどに脈打つ。頭の奥でちが轟き、呼吸が乱れる。
「……死んだはずなのに……」
かすれた声が震えた。
私は確かに剣を喉に押し込んだ。皮膚が裂け、血が流れる生々しい感触は今も残っている。
震えるてで首を触ると、そこには傷一つなかった。
さらに目を疑った。
惨めな結婚生活の中で痩せ細り、骨ばっていた腕は、今はふっくらと柔らかく張りを取り戻している。
鏡に映るのはまるで時が巻き戻ったかのように、ルドウィグ・エルンストとの結婚に、まだ小さな希望を抱いていた頃の、あの若き日の私の姿だった。
「……どうして……?」
胸が潰れそうなほど苦しい…
涙が頬を伝い、私に冷たく現実を突きつけてきた。
そのとき。
──コン、コン。
扉を叩く音に、全身が跳ね上がり、心臓が破れそうなほど早く脈打つ。
ギイッと音を立てて扉が開き、月明かりが人影を照らす。
「……イーダ…?」
そこに立っていたのは、見慣れた私の侍女、イーダだった。
その顔を見た瞬間、私の胸の奥がヒヤリと凍りついた。
イーダは幼い頃から影のように寄り添い、酷い扱いを受ける私を支えてくれた存在だった。
笑えば一緒に笑い、泣けば傍で慰めてくれるた唯一心を許せる友だった。
だが彼女はセレノアのスパイだと疑われ、ルドウィグの命によって、結婚当初に理不尽に命を奪われたはずだった。
あの日、血に染まって冷たく横たわる彼女を、自分は確かに見たのだ。
なのに今ここに立つイーダは、温かい血の気に満ち、確かに生きていた。
目の前で呼吸し、言葉を紡ぎ、笑みさえ浮かべて。
「お嬢様、明日はいよいよエルンスト領へ出発する日ですね。旅立ちの準備をいたしましょう」
耳に響いたその声は、懐かしく、そして残酷なまでに現実的だった。
出発……?
鼓動が一気に早まった。耳鳴りがして、頭が真っ白になる。初めは死の間際に見る走馬灯かと考えた。しかし、足元の絨毯の感触も、窓から吹き込む夜風の匂いも、すべてがあまりにも生々しい。
これは夢ではない。幻でもない。
私は震える手を胸に当てた。指先に触れる鼓動が、恐ろしくはっきりと刻まれている。
そして私は、ゆっくりと、だが確信を持って悟った。
──時間が戻ったのだ…。
震える指先で机の端を撫でた。
古びた木目のざらつき、窓から吹き込む夜風の匂い、すべてが確かに「今」存在している。夢ならばこんな細やかな感覚はないはずだ。
視線を上げると、イーダが変わらぬ優しい瞳でこちらを見つめていた。その表情に胸が熱くなり、私は堪えきれずに涙をこぼした。死の床で二度と会えないと思っていた彼女が、こんなにも温かく生きている。
「……イーダ……」
呼びかける声は掠れ、嗚咽に混じった。
「やっぱり不安なのですね。きっと大丈夫ですよ。」
イーダはそう言いながら、優しく微笑み、私を慰めてくれた。彼女の目にはこの結婚を心配しているように見えたのだろう。
私には彼女のその仕草ひとつさえ、愛おしく胸を締めつけた。
だが同時に、未来の記憶が鮮烈に脳裏をよぎる。
兄カイレンの処刑の場面、冷たい瞳で剣を振るうルドウィグ、家族から浴びせられた嘲笑と侮蔑の数々……。
それらは悪夢のように押し寄せ、心臓を掴み潰す。
──同じ道を繰り返してはならない。
もう一度絶望を味わうくらいなら、運命そのものを変えなければならない。
私は胸元を押さえ、深く息を吸った。
涙をぬぐい、まだ震える声で心の奥底に誓い、2度目の人生を受け入れた。
‘……この結婚から逃れられないのなら…せめて少しだけでも幸せになろう……’
お手柔らかにお願いします