さまようもの
ふらふら、ふらふらと勇丸は歩き続けていた。
自分の前には水で出来た人形のようなものが勇丸と同じようにふらふらと歩き続けている。
それが何であるのか勇丸は知らないし、きっとこれからも知ることが出来ないのだろうと知っていた。
目はいつの間にか動かせなくなり、足の痛みも喉の渇きも気づけばなくなっていた。
記憶さえも失われていくのだろうと勇丸は淡々と考えていた。
あるいはそれでも良いのかもしれない。
いや、きっと良いのだろう。
記憶が正しければ勇丸はまだ九つになったばかりであった。
彼はどこにでも居る村の子供であり、父の仕事を手伝いに畑へ着いていくにはまだ小さすぎで、かと言って母の目がなければいけないほど幼くもない。
そこで勇丸は自分より年下の村の子供をあやすのを仕事にしていた。
とはいえ、勇丸より年上の子が二人ばかり居たので勇丸自身の役目はその二人の手伝いと言った方が良かったかもしれない。
いずれにせよ、勇丸は村で過ごしていたが、ある時に近くの村が戦により焼き払われたという話が伝わってきた。
村の大人連中は当然のことながら狼狽えはじめ、未だ収穫の出来ていない作物やこれからの暮らしを想い憂いていた。
かといって、勇丸のような子供に出来ることは精々大人たちの不安の種をこれ以上増やさないことくらいしかなく、実際に勇丸はあえて何も言わず今まで通り子供の相手をしていた。
そんな中で少しずつ戦の足音が近づいてきて、村の中もピリピリとしてきた頃のことだ。
夕刻になり勇丸が家へ帰ろうとした時、村の外へ出て行こうとする幼い人影を見つけた。
他の子供達は勿論、年長者もそれに気づいておらず、すぐに行けるのは勇丸だけだった。
別にこの時「連れてくる」と一言告げるのは難しいことではなく、勇丸もそうするべきか一瞬迷ったのだが、結局のところ何も言わずにその子の下へ向かった。
どうせ、すぐに戻ることが出来ると思ったからだ。
勇丸が追ったその子供は呼びかける声に僅かな反応も見せずにふらふら、ふらふらと歩くばかりで、刻一刻と落ちてくる夜の影に浸されて肌色も不気味なほどに白かった。
「はよぅ、戻るぞ」
そう声をかけたがその子供は一切反応を見せない。
「おぃ」
苛立った勇丸は声を張り上げて走り出したが、奇妙なほどに自分の足の進みが遅い。
ただ、それでも走っている感覚自体はあるのだ。
一体、これは何事か?
気づけば勇丸はその子供を追うことばかりに必死となっており周りはまるで見えていなかった。
いくら夜が近いとは言え、子供の肌があそこまで青白くなるだろうか。
いくら声が聞こえないとは言え、子供がこうも夜を恐れずに村の外へ出られるだろうか。
そんな疑問が降ってふつふつと沸いた頃には勇丸の心はすっかりと夜の寒さで凍えており、今すぐにでも踵を返して村へ戻りたくて仕方ない気持ちでいっぱいだった。
しかし、ここまで来てそれをしては村の皆に叱られる。
そんな意地っ張りな気持ちに支配され、勇丸は必死にその子供を追いかけ続けた。
どれだけの時間追い続けていたか。
不意にその子供が足を止めたので勇丸の手はようやくその子供の体に触れた。
「馬鹿が。どこまで走らせるんだ」
そう言った時。
触れた手が濡れた。
びくりとして勇丸が改めて子供を見ると、それは人の形をした水の塊だった。
「ひっ」
思わず後退りをする。
そして、一目散に逃げようとした時になり勇丸は気づいた。
自分が立っている場所が村の真ん中だと。
何故、すぐ気づかなかったのか。
簡単だ。
村の家々が全て焼き払われていたからだ。
辺りには家畜の死体が転がっており、村が戦に巻き込まれたのだと考えずとも分かった。
勇丸は悲鳴を上げながら家へ向かって駆けだす、その最中、人の死体を幾つも見かけた。
考えたくもない想像はいくら振り払っても消えることがなく、だからこそ父や母、そして家を見ることで恐ろしいものを消し去りたかったのだ。
しかし。
しかし、勇丸の家もまた他の家々と同じく燃え果てていた。
「なんで、なんで」
そう泣きながら呟く中、またあの子供の形をした水の塊がふらふら、ふらふらと歩いているのを見かけた。
それは当然のように勇丸の前を通り過ぎ、そのまま勇丸を置いてどこかへ彷徨い歩いて行く。
「待ってくれ」
そう言って泣きながら勇丸はその影を追った。
一人になりたくなかったからだ。
得体は知れずともこれについていけば少なくとも一人ではなくなる。
必死に自分に言い聞かせながら勇丸はそれに着いていった。
そして。
そして、時間は今に繋がる。
勇丸は薄れゆく記憶の中で思う。
自分は何も間違ったことはしていなかっただろう、と。
目の前を歩くものが何なのか、勇丸には未だ分からず、そもそも自分がどれだけの時間、これの背を追っているのかも分からない。
ただ、不思議とこうしてふらふらと彷徨い歩けることが嬉しかった。
何も感じず、考えず、こうして没頭できるのが幸せだと思った。
あの日、この奇妙なさまようものを見つけたのは幸運であったのだろうか?
そうであったかもしれない。
何故なら、勇丸は今もこうして生きているのだから。
あの日、この奇妙なさまようものを見つけたのは不運であったのだろうか?
あるいはそうであったのかもしれない。
何故なら、勇丸は今もこうして生きているのだから。
いずれにせよ。
前を行くさまようものを追って勇丸は今日も彷徨い続ける他なかった。
いずれ、自分が自分でなくなるのであろうと確信めいた予感を持ちながら。