5-タナカァの逆鱗
「ダラダラするな、中邑!!」
(やばいっ、とうとうタナカァの逆鱗に触れた!)
ゴールデンウィーク後、三限目の体育の授業中だった。
授業態度がすこぶる悪い……そもそもヤル気ゼロ、本日の準備運動中もほぼ棒立ち状態にあった朔也に体育教師が憤怒の形相で迫る。
「この間は授業に来なかったな、やる気あるのか!?」
「……」
「下を向くな! ちゃんと話している相手の顔を見ろ! そもそも、その髪の色はなんだ!? 前髪だって、そんなだらしなく伸ばしていたら視力が落ちるぞ!」
(うわぁ、久々にガチモードで怒ってるよ……どうしよう……)
「っ、だっ、誰か輪ゴム持ってない?」
「コータくん、輪ゴムじゃあ、タナカァは倒せないと思う」
「倒すとかじゃないからっ、誰か持ってない!?」
「お、びっくり。なんとジャージのポケットに入ってたり」
「ちょうだい!」
クラスメートから輪ゴムをもらった幸太は。
「田中先生っ、すみません! ほらほら、朔也くん、せめて体育のときはケガしたら危ないし、視界クリアにしようか!?」
怒れる体育教師の前で朔也の前髪を縛り上げた。
これでもかと全開になった色白のおでこ。
これまで同級生にとって詳細不明だった目鼻立ちも明らかに……。
「中邑ってあんな顔してたん?」
「いつも猫背で俯いてるし、前髪でよく見えないし、わかんなかった」
「ばちくそ一重イケメンじゃん」
「女子が知ったら騒ぐぞ」
「朔也くんっ、準備運動もちゃんとしようっ、ねっ?」
「……、……」
「ッ……頑張るって言ってます!」
幸太の頑張りが功をなして、怒りが幾分収まった体育教師は定位置となるステージ前へ去っていった。
(久々の激おこタナカァ、怖かった……!)
幸太は一先ず胸を撫で下ろした。前髪を縛られ、デコ出し状態で無表情を保っている朔也を見上げる。
「帰りたい、なんてタナカァに言ったら絶対駄目だよ?」
身長174センチの朔也は極端に猫背になって幸太を見下ろしてきた。
「……ばーか……」
(自分なりに結構なかなか頑張ったのに、ばかって言われた……!)
でも、その後、朔也は準備運動およびバトミントンにちゃんと真面目に取り組んだ。
そして、おでこ全開のまま教室へ戻った。
「え、誰あれ……」
「いやいや、パツキン頭からして中邑くんでしょ」
「あんな顔してたの? なんかショック……いい意味で」
ざわつく女子一同に現金なものだと呆れる男子一同。
浮つく周囲に一貫して我関せずな、おでこ全開のままでいる朔也。
そんな教室の様子を何故だかドヤ顔で幸太は眺めていた。
(まぁ、おれは知ってたけどね、朔也くんのイケメンっぷりにはみんなより先に気づいてたけどね!)
「……ひじ、見にきたいんなら、来てもいい……」
一瞬、誰の肘を見せるつもりなのかと幸太は不思議に思った。
「……ひじは、ひじきのこと」
「えっ、ほんと? 見にいっていいの!?」
六月上旬、梅雨の最中に有難く晴れた日の放課後だった。
バスを降りた後、ぼそぼそと朔也に切り出されて幸太は素直に喜ぶ。
「行く!」
(最近、一緒に帰るようになって、やっと朔也くんちに招かれた!)
「あ、でもいきなりお邪魔して大丈夫?」
「いい、別に……」
「コンビニでお菓子とか買っていこーか?」
「別にいらない、ウチにある……」
こどもみたいにウキウキしている幸太は。
「真希生も行くでしょ?」
反対側の隣を歩いていた真希生に声をかける。大和は部活で不在だった。
高二になるまで幸太と二人で下校することが多かった真希生は「二人もお邪魔したら迷惑じゃないかな」と遠慮する素振りを見せた。
「えー、そんなことないよな、朔也くん?」
「……別に、むりして来なくていい」
「また! なんでそうすぐケンカ腰になるかなー」
「……なってない」
羽織っているパーカーの裾を引っ張れば「……引っ張んな」と朔也に軽くデコピンされた。
「幸太が行くなら僕も行こうかな」
朔也の方へ偏り気味だった幸太の肩を真希生は抱き寄せる。
「いい?」
幸太を挟んで反対側にいる朔也に、幸太越しににこやかに尋ねた。
「……、……」
「あ、いいって! やったー、ひじきに会えるー。この辺散歩してるかなって気にしてるんだけど、全然見かけないんだよー」
「……ひじは室内飼い、ひじだけで外には出さない」
「ふぅん。外が恋しくなったりしないのかな。その猫、ちょっと可哀想だね」
「……」
「どうもお邪魔しました!」
中邑家を出れば外はすっかり西日に浸されていた。
「ひじき、かわいかったなー、やっぱり家に猫がいるっていいなー、憧れる」
肩に引っ掛けたスクールバッグの取っ手をぎゅっと掴み、幸太はひじきと過ごした至福のひと時の余韻に浸る。隣を歩く真希生はそんな幼馴染みの様子に微苦笑した。
「そんなに猫が好き?」
「うん、好き」
幸太が即答すると、不意に、真希生はぴたりと立ち止まった。
「ん? 真希生? どした? 何か忘れ物した?」
公園の入り口前で足を止めた真希生のすぐ真正面へ、幸太は近づく。西日を全身に浴びた幼馴染み。滑らかな桜色の肌は茜に染まっていた。
(夕方の真希生って美形オーラに磨きがかかるというか)
水底のビー玉のように淡く煌めく双眸が、奥二重の目をじっと見つめてきた。
「真希生?」
ただただキョトンとしている幸太の髪を、繊細なシルエットを生む指でそっと撫で、真希生は緩やかに微笑む。
「猫の毛がついてたよ」
「あ、ほんとに? 取ってくれてありがと」
キャメル色のカーディガンを着た真希生にやたらと髪を撫でられ続け、幸太のキョトンは益々深まっていった。
「ひじきの毛、そんなにおれの頭にくっついてる? どっちも黒いのによくわかんね?」
「猫よりも幸太の頭、撫でたくなる」
(まーた意味不明なこと言ってる)
「幸太、真希生」
部活帰りの大和に声をかけられて幸太は目を丸くした。
「あれ、いつもより早くない?」
「練習中、怪我人が出て、顧問が病院へ連れていった」
「えええっ、それ大丈夫なん!?」
「去年もあったし、大丈夫だ。二人は公園で砂山でもつくってたのか?」
「懐かしいね。三人でよく作った。トンネルもたくさん掘ったね」
「あー……必ずおれのときに崩れちゃうんだよなー」
「砂のトンネルで幸太と手を繋いだとき、どきどきした」
「確かに。あの瞬間はテンション上がったな。その後、幸太に大概崩されたけど」
スポーツブランドのショルダーバッグを肩から提げた、長袖シャツを腕捲りした大和に真希生は教えてやる。
「今まで中邑くんの家にお邪魔してたんだよ」
「……ふぅん」
「幸太が猫を見たいって、言って聞かなくて」
「そんな、ひとを子どもみたいに」
「実際、そうだったよね?」
「まー、ひじきはかわい……、……真希生、何してるのか聞いてもい?」
幸太は大いに戸惑う。
屈んだ真希生が首筋に顔を近づけてきたかと思えば、スンスン、鼻を鳴らしている気配が……。
「なんでおれの匂い嗅いでんの?」
「猫の匂いが残っていないかどうか、確認中」
「ね、猫の匂い?」
「アレルギー起こしたら、おばさんが可哀想だから」
「だから、そこまで深刻じゃあ……っ……くすぐったい……!」
(真希生の奴、やっぱり変だ)
「クラスが別々になったからって、いくらなんでもやりすぎだぞっ」
これ以上嗅がれないよう両手で首を庇えば、急に真顔になった真希生にじっと見下ろされて幸太は動じてしまう。
「おれと別々になって、さ、寂しいからって……」
(あれ、なんか自分で言っててハズイ、これって自意識過剰の極み……?)
「そうだよ」
多くの女子から「優しい美形」として憧れの的になっている真希生はにこやかに続ける。
「幸太とクラスが別々になって、寂しくて、ついついこんなことしちゃうんだ」
(からかわれているのか本気なのか、うーん、わからない!)
「んなぁ」
甘えたな黒猫を片腕に抱いた朔也は、自分の部屋の窓辺から、幼馴染み二人に挟まれた幸太を見下ろしていた。