神、宇宙、世の理
少なくとも私が観測する限りにおいて、宇宙の形とはΩ、ループの形をとっていると考える。
すべては回転する。周り巡り循環する。世界でもっとも普遍的な構造形態は循環だ。
例えば性癖におけるマゾヒズム(以下M)も回転の法則に則っている。Mの書き順からして、行って戻って行ってまたもどる。回転しているのだ。
叩かれて喜ぶのが、Mであるが、叩いて喜ぶMというのも存在する。狂おしいほど愛する他人、恋人、家族、親や子供、彼らを傷つけるのもMである。
愛は人に自分を投影する。自傷行為に悦楽を覚えるのと、同じ、愛する人を傷つけることは、自分を傷つけることと同じ。親の子に対する愛は絶対である。種を残そうという本能である。虐待する親は、自分の生存本能から、例えば経済的な責め苦から、子を傷つけることがあるだろうが、マゾヒスムによって傷つける場合において彼らにも愛がある、と言えるだろう。
すべての親に子への愛は、大なり小なりある。
ただ、人間は利己的である。マゾヒストは利己的な人が多い。いじめるのもいじめられるのも自分の都合だからだろう。
マゾは痛みに喜ぶのではない。痛みの先にあるもの、それは肉欲であったり、命の確認であったり、愛であったりする。それを求めるのだ。
マゾは人の性質であり、倒錯した性癖のことだけを指すのではないのだが、一般的にはそうした変態性で知られている。
人間は本質的にはマゾなのかもしれない。あるいは、マゾ、Mを求めるのだろう。
一方で、S、サディズムはどうか。
循環を、円と捉えよう。8というマークこれは円が2つである、無限に回帰する、メビウスの輪、これを一部取り出した形がSである。
Mが円で、Sは円の一部である。すなわち、SとはMの一部である。
マゾにおいて、愛する人を傷つけること、その部分だけを抜き出したことが、真の意味でのサドではないか。
広く知られているサドとは他人を叩いて喜ぶ人、性的快感を得られる人のことだ。
これも先ほどと同様、その先に何を得るかである。肉欲か、愛か、単に暴力的な欲求を満たすのか。
マゾとは異なり、サドは能動的である。自分が相手に何かをしてやる、相手の反応から、利己を満たすのだ。これは、暴力にもなれば、献身にもなる。暴力は一方的だ。だから文字が欠けている。円が欠けたようなSになる。
本質的には、サドもマゾも、人間の利己的な欲求が形になったものだ。
人間は、個人の本質はSではないか。何かが欠けているのが人間なのだ。
献身的な妻Sと、病気で弱った夫S、凸と凹、合わさることで円となる。8となる。
無限の回転運動、夫婦が、親が、子が、互いに欠けた部分を補い、円になる。
孤独な人間は円がとじている。Sをむりやり、円にして○になる。これも円だ。しかし、8には、無限には及ばない。
なるほど、円であれば真理の一端に触れることも可能であろう。しかし、それは永遠ではない。いびつな円は滅ぶ。書物を用いて、なんらかの形で、8を作る人間もいるだろう。それは天才か異常者、しかし、個人の力のみではパワーが足りない。続かない。円を閉じてしまってはダメなのだ。人は孤独では生きられない。
孤独な隠者が天才的であるというイメージはあれど、彼らは真の意味で孤独ではない。先人の残した書物、大自然のせせらぎ、なにも人だけが欠片を埋めるパーツではないのだ。
人間の社会は8のなりかけの集合体なのだ。8になろうと、もがき、ぶつかり、くずれる。
それが戦争や、さまざまな軋轢となって現れる。人間の行き着く果ては未知である。
8のつながり、真珠のネックレスのように、生命は繋がる。個人はSだ、2人で8、それが増えていき、無限のエネルギーを生み出す
二人を8としたがこれは、瞬間を切り取った場合、連続する時間を加味すると、正確にはループの形に近いとも思う。
すべてには始まりと終わりがあり、その法則は宇宙にも適用される。宇宙は、僕らはループの過渡期にいる。過去と未来は未知なのだ。
終わりと始まりという概念自体間違っているかもしれないが、その未知の先にあるものが、賢者が追い求めてやまない宇宙の真理があるのかもしれない。
ただ、循環は世界の理だ
どう収束するかであり、どのような軌跡を描くか、それが美しいから否かは、主観的、実存的な人間原理に基づく。何よりこの世界の理自体、私個人の人間原理に基づいている。
個人は欠けたSであり、人の営みの瞬間を切り取ると8、時間軸を加味するとループの形をとったように錯覚出来ることは話した。
この錯覚は奇しくも最終的な宇宙の真理の形に近いのではないか。
この考えは多くの人間の軌跡と自然法則を、それらしく私がまとめたものに過ぎない。正しくとも、間違っているとしても、それもまた私が描く軌跡である。むしろ私の論が間違っていることこそが正しいのかもしれない。
ニワトリが先か、卵が先か、ループのような、ループの先にある未知はたしかに存在する。
箱の中の猫が死んでいるかどうかなんて、開けなければどう確認できようか。
未知を考えの土台とした、ただしくとも、間違いでもない、ぼんやりとした、霞、未知こそが根拠である。
すべての事象は認識した時点で、存在し、終わりと始まりという概念が適用される。
終始の概念と閉じた循環の理論の対立を考えたとき、逆に考えば良いのだと考えた。
すなわち、そもそも認識しなければ良い。
循環を閉じるのではなく、ループの形にとる。
その始点と終点はわからない、ということにする。いや、実際未知である。
未知が未知であると扱うことで、終始と循環の理論は、宇宙の形ループ形であるとすると納得できる。
人間はこの世に生まれた時点で爆発的な幸運であると知るべきだ。産声を上げた瞬間に人生は始まる。ゴミの中で生まれようと、王宮で生まれようと、産まれた瞬間かんから運命が回る幸不幸のバランスをとりながら人生は進む。生きるとは落ちること。
どのような軌跡を描いて生きるかが人生である。自分を紙飛行機だと思えばいい。自分の意思で風を泳ぐ紙飛行機。
風に逆らいながら遠くへ、さらに遠くへ。うまく飛べない時もあるだろう。出だしから地面スレスレの低空飛行かもしれない。時折強風が吹いて地に落ちてしまうかもしれない。
けれど、神風が吹くかもしれない。良い風に乗って、思いもよらないところまで飛べるかもしれない。
風には抗えない
けれど、どう舵をとるかは自分次第だ。
人間の人生は循環である。
無から生まれて無に還る。
無から母の胎の中へ、生まれ出た瞬間のプラスから、マイナスを繰り返し、無に還る。
例えば今日はいいことがあったのでプラス1。
今日は人生最悪の日だ、マイナス10。
といった具合に、舵取りは自分、どのような軌跡を描くか、どのような軌跡が美しいと思うかはキミ次第だ。
生まれが良い人、悪い人がいるのはおかしい?生まれた時点で人生は始まる。幸不幸は不均等だけれども、確かに拮抗する。なぜなら循環しているから、始まったらいつかは必ず終わるからだ。
時間は人間にとって等しく敵であると同時に人類にとって等しく味方である
粒子でさえ人間が観測した時点で存在する。存在するということは始まりがあり、終わりがあるということ、森羅万象において永遠のものなどない。もし、永遠なんてものがあるとすれば、境界線の向こう側、未知の領域にのみ存在する。
愛についても、同様だ。なぜ人は人を愛するのか、本能と言い切って仕舞えばそれだけだが、なぜ人は互いに欠けた部分を埋め合うのか、循環の推進力の源は、ボールを投げたのはだれか。すべて未知の領域にあるだろう。ただ誤解しないで欲しいのはだれかを愛する時に理由はいらないということだ。
未来への恐怖、未知への期待や好奇心は人間の原動力だ。最も重要なのは、万物には始まりと終わりがあるが、宇宙の終始、さらにその先に何がしかがあるとしても、その終始ですらは、未知と言う境界線の向こう側にあるということだ、
神とは何か、宇宙の真理、最初の始まり、あるいは人間、あるいは想像もつかないような高次元の存在である。
すべての始まりから終わりまで観測するものである。
研究者である
芸術家である
個人である
神のような存在が個人であることはありえるか?現人神という言葉がある。とくに日本は八百万の神々、神の大安売りの国といっても良い。
例えば、1人の女性が複数の男性を手玉にとる。コントロールする、独裁者が人民を先導し、国家を意のままに操りコントロールする。大なり小なり一個人が複数を操る事例はある。
ならば、神という個人が、私たちのような生命体、知性体をコントロールできるという考えにも一理あるといえる。
神が個人だとして、ではその先は?神を生み出したものは?
キリスト教において、神は無に対して、光あれと述べた。そうして世界は生まれた。では神はどこから生まれたのか?
無から?無とは何か?
無、何もない。なぜか暗闇や暗黒をイメージするが、しかし、それらは光が存在したからこそ始めて生まれた概念である。そういう意味では光が闇を生み出したという考えもある。
無は光が現れたことで、化学反応のように変化し、闇となったという考えもある。
歴史であれ、宇宙工学であれ、すべての始まりは何処にあるか? 森羅万象におけるすべての発端こそが、神の領域であるともいえる。
無は神ではない。無は無であり、それ以上は何もない。無から有を作り出すのは不可能なのはこの世の断りである。
神とは現し身である、ワラ人形である、無辜の怪物である。喜びも悲しみも人の心のすべて、堪え難い、辛い出来事すべて、良いこと、より良い未来への励まし、心の拠り所こそが神である。
なぜ花は綺麗なのか、赤い色。青。黄色、緑と豊かな色合いが存在するのか。
疑問、憐憫、宇宙の果てにある真理、すべての始まりに対する謎、説明のつかないこと、不安や孤独どうしようもないことを肩代わりしてくれるのが神、神はデコイであると考えると、キリストという、ある意味、あの磔にされた死体は神の象徴として最もふさわしいのではないか。
究極の自己犠牲、神父が神に感謝するのはすべてを肩代わりしてくれるから。人の原罪とは、その肩代わりである。神に感謝するのは罪悪感からである。
謎の放置、神というハリボテを作り。果てしない先を見るのを恐れた神の子はデコイである。三位一体は否定する。キリストは人間のためはけ口、サンドバッグである。キリストは人のための神だ。その父、全知全能の神とは先にある宇宙の真理に近い。
ブッダについて、宇宙の真理を知ったとされるものがブッダ。彼は真理を伝えるものとされる。真理を知りたい人間は、現実における円環の理を当てはめ、勝手に納得した。
人が人としての道徳をもって生きるために作られた規範である。なぜ徳をもつか、なぜ我々は生きるか?我々はどこから来てどこに行くのか?死ねばわかる。死ねば無になる。無こそが真理。
神とは、真理とは、すべての始まりであり、すべての終着点、無である。そのはずであるが仏教においては循環している。転生である。ライフサイクルや市場経済、生活習慣にいたるまで、すべての理は循環、閉じた輪にあるとした、
仮に天国や地獄と言った世界があるなら、その先、無の先にあるものではないだろうか、
ある種の回答であるが、終着点から、始点への繋がりが靄りとしている。世界の理はなるほど、循環である。人間は規範的に考える。比較する。世の中だいたい似たようなことに溢れている。そのため、私たちは規範的な考えかたから、宇宙も循環していると思い込んでいるのである。決定的な証拠はない。
すべての始まりは何か、終わりは何か、そこから先は想像の世界。フィクションだ。
ともすれば、循環の理に即して私たちは生きているが、循環も終わりがくる。玉は永遠に回転しない。回した始まりと停止の終わりがくる。僕らも回転途中だとすれば、止まった時に、僕らを回した人、真理に会えるかもしれない。また、人類が緩やかに停止していっているのなら、あるいは宇宙が停止した時、真理が現れるのではないだろうか?
キリスト教に則れば、終末にてすべては閉じる。
仏教は循環だ。宇宙がしぼんでも、再び新たな宇宙ができる。
ニーチェは、同じ人生を繰り返すという循環についてのみ仏教的といえる。
マルクスは経済的な循環という意味で、私たちは過渡期にあると説いた。
宇宙規模でみて、私たちは過渡期なのではないか?
終始という概念と循環をドッキングさせたもの。金太郎飴のように循環した世界が、輪切りのように続いていくイメージ。循環論では閉じた輪であるが、終始という概念を考えると、輪切りの切り始めと切れっ端が存在するということであり、それが何なのか、無の状態なのか、ガス空間なのか、虚数時間なのか、あるいは端など存在せず、延々と循環を繰り返すメビウスの輪なのか、この世の理は循環である。
大きくは生命活動から、人間の活動、物理法則、惑星運動にいたるまで、すべての理は循環の形態にこそある。
頭に浮かんだものの雑記。ご意見ください。