緋色の陰謀
「エリアロール・ディスメリア。君との婚約を破棄する」
ある昼下がりの午後、春の柔らかな日差しが窓辺から差し込む生徒会室。エリアロールは目の前で告げたその人の言葉を信じられずにいた。
エリアロールを冷たい目で見下ろし、婚約破棄を告げたのは学園の生徒会長であり、この国の王太子であるライアット・フェリンクスだ。
サラサラと風に靡く金髪は光に照らされ綺麗な天使の輪を作り、長い睫毛に縁取られたサファイアの瞳は宝石のように艶めく。類稀なる美しい容姿を持つ王太子はエリアロールの婚約者であった。
「…何故です?理由をお聞かせ願えませんか、ライアット様」
必死で絞り出した声は震えていた。王太子の婚約者として王妃になる教育を受けて、いかなる事態でも動揺を表情に出さない訓練をしてきたつもりだったが、この場合は無理だった。
エリアロールは、優しくて紳士的な王太子のことが好きだからこそ、今までの厳しい王妃教育をこなせていたのだから。
「…身に覚えがあるんじゃないか?エリアロール。聖女に対して陰湿な嫌がらせを繰り返していたと、多数の生徒が証言している。その様な人物は私の婚約者には相応しくない」
「…っ、私は決して、そのようなことを」
「この期に及んで言い訳か。落ちぶれたものだな」
サファイアの瞳は鋭く細められる。
エリアロールは聖女を虐めてなどいない。寧ろ、仲の良い友達だったはずなのだ。
聖女マリー・サイモンド。学園に突如としてやってきた転校生。マリーは転校して早々に光の魔法を発現させ、聖女マリーとして国民から崇められている。
本来魔法とは火、水、風、緑の4つで構成されている。人はそのうちのどれか一つに適性があり、その魔法を自在に操れる。
光の魔法の使い手は、その中でも特殊で10年に一度、1人現れるか現れないかくらいに珍しい。ありとあらゆる病気や怪我の治癒が出来る光の魔法は医療で絶大な力を発揮するため、発現が確認されると同時に重宝される。
また、その逆も然り。
これまた10年に一度現れるとされる、闇の魔法の使い手。
人の精神に干渉し、操ることが出来る危険な魔法だ。闇の魔法の使い手は、国を混乱に貶める可能性が高いので、発現が確認されればすぐ処刑が確定する。今はまだ発現が報告されていないが、光の魔法の使い手である聖女マリーがいる以上、どこかで息を潜めているとされている。
光の魔法と闇の魔法それぞれの使い手は、これまでほぼ同時期に誕生しているからだ。
「ライアット様…!」
「…っ、マリー?」
ガラリと生徒会室の扉が開けられ、入ってきたのは聖女マリー張本人であった。
ふわふわと緩やかなカーブを描く桃色の髪に、輝くような金色の瞳は人を惹きつける魅力を持っている。金色の瞳は光の魔法を使える者の象徴だ。
ライアットは突如マリーが入ってきたことに、戸惑った様に視線を泳がせたが、その頰は少し赤く染まっており、マリーに気持ちがあることは一目瞭然だった。
「ライアット様…今日も一緒に帰りましょう!ライアット様と少しでも一緒に居たいのです」
上目遣いで甘えるように見上げるマリーは、エリアロールにはない魅力を持っていた。可愛く、庇護欲をそそられ、守ってあげたくなるような存在。
未来の王妃として厳しい教育をこなしてきたエリアロールは甘えるということを知らなかった。エリアロールは聖女マリーに劣らない美貌の持ち主だったが、あまり笑わず常に気高くあろうとするその姿は、他の生徒にとって近寄り難い雰囲気を醸し出していた。
聖女マリーは王太子に駆け寄り、その腕に自分の腕を絡める。王太子は聖女マリーに向けて嬉しそうに頬を緩めた。今まで見たこともなかった王太子の惚けるような顔に、ズキリと胸が痛む。
「マリー…!ああ、いいよ。今この女との婚約を破棄したところだ。これからはいつでも会える」
「まぁ、嬉しいわ!」
そう言って聖女マリーは王太子に向けて嬉しそうに微笑んだ後、茫然とするエリアロールに薄く笑ってみせた。
嵌められた。そのことを悟った。
嘗ては大切な友達であったはずのマリーが自分を裏切り、ライアットの隣に並んでいるというこの状態はエリアロールを絶望に貶めるには十分だった。
ぼんやりと視界が歪む。瞳の淵に薄く水が張り、今にもこぼれ落ちそうだった。
「…失礼します」
震える声で一言だけ絞り出し、エリアロールは生徒会室を後にした。
☆☆☆☆☆
どれくらい歩いただろう。
ふらふらと彷徨っているうちに、気づけば学園の中庭にいた。色とりどりの花々が咲き乱れるこの場所はエリアロールにとってお気に入りの休憩場所であった。嘗てはここで王太子と散歩したり、マリーとお喋りしたものだ。
だが、ここに来ても心が和らぐことはなかった。甘く優しい香りが、王太子とマリーと仲の良かった頃を彷彿とさせ、逆にエリアロールを苦しめる。
上手くやっていたと思ったのに。
初めこそ、王太子とも、マリーとも良好な関係を築けていた筈だ。マリーと王太子といつも共に行動し、幸せな時間を過ごしていた。
それは、どこから狂ってしまったのだろう。
王太子の「愛してる」という言葉も、聖女マリーの「貴女は大切なお友達よ」という言葉も全てが虚構だったというのか。最初から、2人で私を騙していたのだろうか。
エリアロールは膝を抱えてしゃがみ込んだ。王太子妃であった頃だったら許されなかった行為だろうが、今はもう王太子妃ではないのだ。
そう思ったら余計に惨めになる。我慢していた涙がポロリと溢れ、新緑の芝生に吸い込まれていった。
辛くて苦しくて、次から次へと涙が瞳から溢れてくる。
どれくらい泣いていただろうか。
「……エル?」
聞き覚えのある優しい声。急いで涙を拭って顔を上げれば、そこにはエリアロールの幼馴染であるロイ・ストレングスがいた。
光り輝く銀髪が春の風でサラサラと靡く。深紫の瞳は戸惑った様に揺れていて、そこには心配の色が見て取れた。
ライアットとロイは、2人とも令嬢から高い人気を誇る美貌の持ち主だ。ライアットはキリリとした顔立ちで厳格な雰囲気が漂っているのに対し、いつもにこにこと微笑むロイは甘く優しい雰囲気を纏っていて、その美しさは対照的だと言える。
「ロイ、どうしたの?こんなところに」
「……僕の前でそんな気丈に振る舞わなくていいよ。何かあったんでしょ?目、真っ赤だよ」
ロイは隣に座り、エリアロールの顔を覗き込んだ。形の良い眉は下がっていて、エリアロールの涙を見て自身も心を痛めている様だった。
そんな優しい幼馴染を見て、エリアロールは涙ながらに零していた。
「私……ライアット様に、婚約破棄されたの」
そうロイに告げれば、後から後から涙が溢れてくる。口にしたことで、婚約破棄されたという現実味を帯びないものが段々と事実になっていくような感覚がして、胸が苦しくなった。
ロイは深紫色の瞳を驚いた様に丸め、エリアロールに聞き返す。
「え……本当に?」
「私がマリーを虐めたことになっていて…マリーを虐める人は、王族の婚約者に相応しくないと、そうライアット様が仰られて」
「そう、だったんだ…」
ロイは俯く。何と声をかけたら良いのか迷っているのだろう。
学園の生徒からは、常に完璧な王太子妃であろうとするエリアロールの姿は憧れの的で、それと同時に畏怖の対象でもあった。エリアロールが涙を流す姿など想像もつかないだろう。
だが、小さな頃からエリアロールを知る幼馴染のロイは、それは上面だけであり、本当は王太子に恋をして、王太子の為に健気に努力する乙女だということを知っていた。
小さな頃は少しお転婆だったことも、相手のことを考えられる優しい少女だということも。
「私…マリーを虐めるなんてしてないのに…大切な友達だと、そう思っていたのに……」
「分かってる。僕はエルのこと、ちゃんと知ってる。そんなことする人じゃないって」
ロイはエリアロールを抱きしめ、背中を優しく摩ってくれる。その温かさが身に染みる。
痛くて痛くて堪らない傷口を止血してくれているかのように、ロイの言葉は優しく慈愛に満ちていた。
「何があっても、僕はエルの味方だよ」
耳元で囁かれたその台詞は、婚約者と友達を同時に失い、孤独感に苛まれていたエリアロールにとって、1番欲しかった言葉であった。
☆☆☆☆☆
エリアロールの生活は、王太子に婚約破棄されてからガラリと変わった。
今まではエリアロールが国内有数の名家であるディスメリア公爵家の出身ということや、王太子の婚約者ということ、気高く美しい容姿も相まって、学園ではかなりの人気者だった。
だが、王太子がエリアロールとの婚約を破棄したという噂は瞬く間に広がり、学園の生徒は腫れ物に接するような態度を取るようになった。
更に噂は尾鰭が付き、聖女マリーを日常的に虐めていた、極め付けには殺人を計画していたなんて根も葉もない噂が広まって、エリアロールの居場所は段々と無くなっていった。
今ではエリアロールが廊下を歩けば皆蜘蛛の子を散らすように逃げていく。話してくれる人は居なくなり、皆侮蔑と嫌悪の目を向けてくるようになった。
最早学園のどこにも居場所が無い。
そんな中で、変わらず良くしてくれたのは、ロイだけだった。
「ロイ…私と一緒に居たら、貴方まで噂されてしまうわ。
だから、だから…」
「僕は大丈夫だよ。君の側にいれるだけで嬉しいんだ。他の人の目なんて気にしないよ」
一緒にいることを忠告しても、ロイは離れようとしなかった。学園で優しい笑顔を向けてくれるのはロイだけ。
王太子に婚約破棄されてから一気に様々なものを失ったエリアロールにとって、変わらず接してくれるロイという幼馴染はかけがえのない存在となっていき、エリアロールは自分の恋心が、王太子から幼馴染に傾き掛けているのを感じていた。
だがそれと同時に誤解さえ解ければ、王太子とまだ元の関係に戻れるのではないか、そう考える自分もいて。
王太子への淡い恋心はまだ、エリアロールの中に留まっており、それを壊さない様に大切に抱えている自分がいることも知っていた。
――あの日、までは。
☆☆☆☆☆
王太子に婚約破棄され、数ヶ月が経ったある日の事。
学園ではいつもロイと過ごしていたが、今日はロイが珍しく学園を休んでいる。1人という事に少し寂しさを感じつつ、エリアロールは次の講義に向かうべく廊下を歩いていた。
「あ、聖女様よ!」
「相変わらずお美しいわね」
「本当に王太子様とお似合いよね〜」
コソコソと囁き合う女子生徒の声が聞こえてくる。
王太子と婚約破棄されてから、王太子はすぐに聖女マリーと婚約を結んだ。エリアロールという悪女の嫌がらせにも負けずに愛を育んで結ばれた2人として、学園の中では大変な人気者である。
そんな噂を聞くたびに、胸が張り裂ける様な思いだった。
「…エル?」
その時、聖女マリーと目が合った。
エリアロールは今まで王太子と聖女をなるべく見ないように避けてきた。婚約破棄されたという傷はまだエリアロールの中に確かに残っていて。2人を見たら、醜い感情が溢れ出しそうで。
そのままエリアロールは身を翻し、その場を後にしようとした。だが、マリーは慌てたように追いかけてくる。
「待って、エル!」
「……何か用かしら?マリー」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。その場を威圧する元王太子妃としての貫禄のある声にマリーは一瞬ピクリと肩を振るわせるが、そんなことも関係ないというようにエリアロールの手を掴む。
マリーはエリアロールの手を掴んだままズンズンと進んでいく。着いた先は中庭だった。
マリーはエリアロールを見据えた。真剣な表情や、真っ直ぐな金色の瞳はエリアロールを戸惑わせる。
王太子と婚約破棄されてからは勝ち誇った笑みや、見下げた瞳を向けられていたからだ。
それは、エリアロールに、マリーと友達だったあの頃を錯覚させた。
「ねぇエル。何故私を避けるの?」
マリーはそう口にした。その一言に、エリアロールは雷に打たれたように動けなくなる。
マリーの瞳は、エリアロールが自分を避ける理由が本当にわからないと訴えかけていたからだ。
「何故って…それは当然じゃない」
「何を言っているの、エル。分からないわ。私たち、友達じゃない」
慌てたようにマリーは言う。そんな態度をとるマリーをエリアロールは信じられなかった。
友達。久しく聞いていなかった単語だ。
私を裏切って王太子と婚約を結んだのは、マリーなのに。
何を今更、私とエルは友達だ、そう言うことが出来るのだろう?先に友達を辞めたのはそちらではないのか。
エリアロールは、胸の奥に封じ込めていた感情が溢れ出しそうになるのを必死で抑える。
「友達…?その台詞、貴方がよく言えるわね」
「本当にどうしちゃったの。あ、そういえば王太子とは上手くやっているの?結婚式には呼んでね」
屈託なく笑うその姿は、確かに友達だった頃のマリーで。
その台詞は、エリアロールの心を壊すには充分だった。
結婚式には呼んで?
今王太子と婚約しているのは貴女でしょう?
私を貶めて、大切なものを奪ったのに。
エリアロールには、王太子と婚約破棄された事に苦しむ自分の無様な姿を見て愉しんでいる様にしか見えなかった。
「結婚式なんか、出来るわけないじゃない…!貴女が、貴女が…私からライアット様を奪ったのに!」
「え……何を言っているの、エル」
「……私をその愛称で呼ばないで、マリー。言いたいことはそれだけ?それじゃ失礼するわ」
苦しくて、悔しくて。そう強がるのが精一杯で。
エリアロールは溢れそうになる涙を堪え、その場を後にしようと身を翻した時。
ドサリと、何かが倒れる音がした。
とっさに振り返れば、マリーが中庭の花々に埋もれるように倒れていた。
「……マリー!」
エリアロールは急いで駆け寄る。
いくら自分を裏切り、苦しめた相手だとしても、嘗ては友達だった人だ。そんな人が倒れているのを見て放って置ける性格はしていない。
「マリー!マリー!」
気が動転しながらも、必死で呼びかける。マリーの瞳は固く閉じられており、顔色は死人のように真っ白だった。
必死に名前を呼び続けていると、カサリと芝生を踏みしめる音がした。
「………マリー?」
そんな時、久しく聞いていなかった声が聞こえる。
嘗ての婚約者、王太子ライアットがそこに居た。
サファイアの瞳はこれでもかと言うほどに見開かれている。優しい風がライアットの頬を嘲るかの様に撫でた。
倒れているマリー。その側にしゃがみ込むエリアロール。
王太子の瞳にそれがどう写り込むか。
「エリアロール。マリーに何をした?」
王太子の声はゾッとする程低く、無加減に相手を威圧するものだった。その瞳は殺気に満ちていて、好きだった人から向けられる憎悪に耐えきれず、エリアロールは恐怖で言葉を失う。
「…あ、わた、私は……」
「二度とマリーと俺に近づくな。でないと」
殺してしまうかも、しれないから。
先程マリーからの言葉で深く傷つけられた上に、追い討ちをかける様に告げられた王太子からの完全な拒絶。
エリアロールの、聖女への友達としての思いと、王太子へ向けていた淡い恋心がバラバラに砕け散った。
それはもう二度と戻らない。
エリアロールは逃げる様にして中庭を去ったのだった。
☆☆☆☆☆
エリアロールが聖女マリーを殺そうとした。
その噂はたちまち学園中を駆け巡る様に広がっていった。
マリーは特に外傷も後遺症もなく目を覚ましたが、中庭でエリアロールと会っていた事は覚えていても、何を話したかは覚えていないらしい。そう女子生徒が噂しているのを聞いた。
マリーが目を覚ましてからエリアロールはマリーと一度だけ学園内で会った。
マリーがエリアロールを見る目は中庭であった時の友達としてのものではなく、自分の掌で踊る哀れな人形を見るような目で。
全て仕組まれていたのだと、それを思い知った。
壊れた友情と愛情に縋っていたのは、自分だけだったのだと。
もう学園にはいられない。今日も学園に行かず、エリアロールは部屋に閉じこもる。王太子から婚約破棄され、さらには王太子の婚約者を殺そうとしたと噂の令嬢など、もう二度と貴族社会に戻れないだろう。
「お嬢様。お客様です」
専属のメイドがそう声をかけてくる。エリアロールはベットの上で弱々しく微笑み、分かったわと返事をした。
痩せ細り、弱りきったエリアロールの姿を見てメイドは心を痛ませる。
「エル……」
来たのは幼馴染のロイだった。
深紫色の瞳がじっとこちらを見据えていて、エリアロールは目を合わせることが出来ない。
ロイにまで拒絶されたら。
そう思うと、自分が奈落の底に落ちていくような感覚に襲われ、身震いした。知らないうちに、自分はこの優しい幼馴染に随分と依存してるらしかった。
「ロイ…帰った方がいいわ。もう、私と会わない方がいいと思うの。私と居たら、ロイまで噂をされてしまうかもしれないから」
これは半分は本心であり、半分は嘘だった。自分と会わない方がロイのためだとは分かっている。でも、離れてほしくもなかった。自分の我儘だとは分かっている。だが、完全に拒絶する事は今のエリアロールには無理だった。
「…手、震えてるよ」
「……」
「エル、僕はいつも言ってるよ。僕が好きでエルといるだけなんだって。僕だけは、エルの側にいるよ」
例え、世界中の人がエリアロールを疎んだとしてもね。
深紫色の瞳を細め、ロイはエリアロールの手を取った。
ロイの笑顔はいつもそうだ。優しくて、甘くて――そして、目が離せなくなる。
「ロイ…貴方はなんで、私といてくれるの?私といても何の利益にもならないでしょう?」
「…そんなの、僕がエルのことが好きだからに決まってるでしょ」
その一言で、エリアロールは一気に顔に熱が集まるのを感じた。恥ずかしさと嬉しさで、ロイと目を合わせることが出来ない。
「…本当に?」
「エルこそ、気づいてなかったの?」
「てっきり私に優しくしてくれるのは、幼馴染だからだと思ってて…」
「鈍感なところは昔から変わってないなぁ…そんなところも好きなんだけどね」
ロイはエリアロールに甘く囁いた。頰を少し染め、優しく微笑んだロイはハッとするほど美しい。
学園の全ての人から侮蔑の目を向けられていて、苦しかった。孤独だった時、エリアロールを信じ、ずっと一緒にいてくれたのはロイだった。
そんな人を、どうして好きにならずにいれるだろうか。
「……私も、ロイのことが、好き」
「え…?本当に?嘘じゃない?」
エリアロールがゆっくりと首を縦に振れば、ロイは嬉しそうに顔を綻ばせる。その笑みは、幼い頃から全く変わっていない。
「嬉しい、本当に嬉しいよ。僕は世界一の幸せ者だ」
「そんな、大袈裟よ」
「大袈裟じゃないよ、本心だから」
ロイはエリアロールと額を合わせる。
2人は暫し笑い合った。お互いの甘い幸福に身を委ねながら。
☆☆☆☆☆
エリアロールが学園に通わなくなってから、ロイは毎日必ずディスメリア家に寄ってくれるようになった。夕方、ロイと話をする。その時間はとても幸福で暖かかった。エリアロールは毎日ロイが来るのを楽しみにしていたし、ロイはどんな用事があっても欠かさず来てくれた。
エリアロールはそんなロイがどんどん好きになっていくのを感じていた。
そんなある日、エリアロールはロイに打ち明けた。
「実は私、公爵家を出ようと思っているの」
悪い噂が絶えない自分は、このまま公爵家にいても家の評判を落とすだけだろう。貴族社会復帰も望めそうに無い。
このまま余生は国外で静かに暮らしたい。
そう伝えれば、ロイは頷いた。
「じゃあ、僕も一緒に行くよ」
「え…そんな、良いのよ?ロイまでそんなことする必要ないわ」
エリアロールは慌てて言った。
ロイはストレングス伯爵家の嫡男。伯爵家を継ぐのは間違いなくロイだろう。わざわざ自分のために伯爵家の相続を放棄するのは勿体ない。
そんなエリアロールの言葉に、ロイは少し困った様に眉を寄せた。
「実は僕、伯爵家の相続は弟に任せようと思っているんだ。それに僕も、もう学園に居れなさそうだし」
その一言にエリアロールは胸が苦しくなる。ロイは自分と一緒にいることで、学園でも悪い噂が経ってしまったのだろう。優しくしてくれる幼馴染に自分は何か返しているどころか、迷惑しか掛けていないではないか。
申し訳なくなって、エリアロールは悲痛に顔を歪める。
「ごめんなさい、ロイ……」
「本当に大丈夫だよ。エルは優しいね」
ロイはポンポンと、赤子をあやす様にエリアロールの頭を撫でた。それがひどく心地良くて、エリアロールは思わず目を細めた。
甘い空気に身を任せる様にして、気づけばエリアロールは本心を口に出していた。
「……ロイ、私と来てくれる?」
「勿論だよ、エル。エルがどこに行くことになっても、僕はちゃんとついて行くから。独りになんて絶対にしない」
ロイはそう言ってエリアロールを強く掻き抱いた。
部屋には2人だけ。これから生きていくのは2人だけの閉鎖的な世界なのだろう。だけど、不思議とそれでも良いと思えた。ロイさえいれば、それで。
「ありがとう、ロイ。愛してるわ」
「僕も。ずっとずっと、愛してるよ。
……今も昔も未来も、ずーっと、ね」
窓の外の光が部屋をぼんやりと照らし、ロイの銀色の髪を輝かせる。ロイはエリアロールを抱きしめながら、酷く満ち足りた笑みを浮かべる。
「――ああ、やっとだ。やっと、エルは僕のものになったんだね」
そう零したロイの声は、エリアロールには届いていなかった。
翳ったロイの瞳は、いつもの深紫色ではない。煌々と、燃える様な緋色に染まっていたのだった。
☆☆☆☆☆
学園は大騒ぎだった。
学園全体に掛けられていた、闇の魔法による洗脳魔法が解けたからだ。人の精神に干渉し、操る危険な魔法。
生徒が正気に戻った時には全てが終わっており、エリアロールとロイが姿を消した事に学園は騒然としていた。
闇の魔法の使い手が現れたことにより、今は国中が捜索に当たっている。見つけ次第、直ちに処刑する必要があるからだ。
ダン、と生徒会室の机が力任せに叩かれる。
悔しげに肩を震わせるのは、嘗てエリアロールの婚約者であったライアットだ。
「エリアロール……」
愛した婚約者の名を呼ぶ。彼女はもう戻らないだろう。
全ては、闇の魔法の使い手である、ストレングス伯爵家の嫡男――ロイ・ストレングスの掌の上だったのだ。
自分が聖女を好きになったと錯覚させ、さらには聖女を操り、エリアロールと婚約を破棄させる。学園の生徒は全員エリアロールに敵意を向ける様に洗脳させ、エリアロールを独りにする。
そうやって孤立させて、エリアロールが自分に味方してくれるロイに依存する様に。
学園を去る直前のロイと交わした会話が忘れられない。
紳士的で優しい令息の面影は無い。ロイは蟻地獄に堕ちた蟻を笑う、まるで子供の様に無邪気で残酷な笑みを浮かべていた。
――何故、エリアロールを絶望に落としてまで、自分のものにしようと思うんだ!エリアロールが好きなら、その人の幸せを願うものだろう!
――それじゃ足りない。僕が幸せにしないといけないんだ。彼女が見つめるのは僕だけで良い。彼女の全部を知りたいし、彼女の全てが欲しい。これが、好きっていう気持ちでしょ?
そう言って嗤うロイの瞳は爛々と輝き、甘い幸福に酔いしれていた。深紫色の筈の瞳が、段々と血に濡れたような緋色に染まっていく。
緋色の瞳は闇の魔法の使い手の象徴だ。
ずっと隠していたのだろう。
ロイの顔を見る者全てが、ロイは深紫色の瞳だと、そう錯覚させる様に洗脳していたのだ。
――あ、そうそう。エルは聖女を殺そうとなんてしてないよ。さすが光の魔法の使い手というべきか、ぼくが目を離した時に聖女への洗脳が解けていてね。洗脳を無理やり解いた反動でエルと話している時に倒れたみたいだ。
――それをエルが聖女を殺そうとしたと思ったなんて。
ふふっ、バカな王子様。
「くそっ……!!」
ロイの嘲笑うような笑みが頭から離れない。
ライアットはギリリと歯を噛み締めた。
☆☆☆☆☆
「…ふふ」
「どうしたの?ロイ」
「いや、何となく。凄く愉快な気持ちになっただけ」
「何よそれ…」
エリアロールは呆れた様にため息をついた。
今2人は国外のとある小さな町の片隅で暮らしている。貴族だった頃と比べれば随分と小さな家だが、料理や洗濯をするのは楽しいとエリアロールは感じている。
ここに住んでから、エリアロールは部屋から出た事がない。誰かと会って、交流して仲良くなっても裏切られるかもしれない。そう思ったら、他人と話すことも出来なくなってしまった。
だけど、ロイが居てくれる。
「幸せだね、エル」
「そうね」
ロイの深紫色の瞳がふわりと細められる。蕩けるような笑みに、エリアロールは胸が高鳴るのを感じていた。一瞬瞳が緋色に見えた気がしたが、気のせいだろう。
今はとても幸せだ。隣にロイがいる。それだけで充分だ。それ以上のものは要らない。ロイ以外の人はもう、信用できないから。
「愛してるよ、世界中の誰よりも。……絶対に離さないからね」
ロイはそう言って美しく笑ったのだった。
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