?_おわりのはじまり
長く入っていた病院を少し前に出て、一人で暮らし出したこの家。
リビングダイニングと部屋が二つ。一人暮らしには少し広い。しかし家で仕事を始めたので、寝室とは別に仕事部屋が作れたのは幸いだった。今後住む人間が一人増えたら、リビングの隅で仕事をすることにしよう。昔はこれより狭い家に三人で暮らしていたなあと、もう戻らない日々に想いを馳せた。
昨夜、暴れすぎたからか、今朝から体調がすぐれない。身支度をしてから二人分の茶を用意して。たったそれだけですっかり疲れ切って、ポットからカップに注ぐのは、客人に任せるしかなかった。
若い頃に無理をしたせいで、死ぬまで薬が手放せない身体になった。すっかり細くなった命を切らさないために、大量の飲み薬だけではなく注射も必要なため、今日もかかりつけの医者……腐れ縁の親友が往診に来ているのだ。さっきから身体のあちこちを触って確かめ、聴診をしている。
「んー、まあ良くも悪くもなってないって感じだ。しんどいのは、単に疲れたからだろうな。今日は仕事休んで長めに寝とけ」
「わかった」
親友が聴診器を片付け、瓶に入った薬剤を机に並べ出した。注射の準備だろう。それを横目に俺は昨夜やっと会えた、めぐるのことを思い出していた。予想はしていたが、記憶を封じられていたか。しかしそのために名前まで変えてしまうとは、念の入れようが半端ない。
確かに、俺のつけた名前ごと封印してしまえば、術はより強固なものとなる。名前というものは魔術において強い意味を持つが、こことは全く系統の違う魔術が使われるあちらでも、それは変わらないのだろう。
実は昨日はめぐるを説得するためにあちらに行っていた。しかし、俺を見て誰か分からないのであれば、説得のしようがない。元の名前を聞いて何かを思い出しかけたようだから、封印を壊そうとしたがうまくいかなかった。やはり、彼女は俺より何枚も上手のようだ。
あちらの魔術師は総じてレベルが高くないが、蕗会だけは別格。いや、もう一人見つけたけども。めぐると一緒にいた子、ちょっと気になるな。
「あっ! 痛え! 下手くそ!」
思わず大声を上げる。いつもの注射より遥かに痛い。よく見るとシリンジも針も太く……それなら打つ前にちゃんと予告しろよ、このヤブ医者が。何も言わず極太の針を刺してきた親友を睨みつけるが、やつはこちらを見もせずに、シリンジの中身を押し込んでいく。俺専用に作られたらしい特殊な薬剤が、身体の中に吸い込まれる。
「馬鹿か! 下手くそはどっちだっての!! 川に突っ込むなんて無茶しやがって。いくら馬鹿の馬鹿魔力でも身体はボロボロなんだから、下手なことしたらまた壊れるぞ……ああ、ところで、息子には会えたのか?」
雑に注射針を抜き、刺入したところに絆創膏を乱暴に貼ってくる。痛い。患者にはもっと優しくしろ。
「馬鹿馬鹿言うなよ。ちょっと失敗しただけだ……会えた会えた。大きくなってたよ」
十年ぶりに会った息子は、若い頃の自分そっくりに育っていた。小さい頃は……蕗会に似ているものだとばかり思っていたが。成長すると顔が変わるとはよく聞くが、本当なんだな。
「へえ、どんな感じになってたんだ?」
まさか女の子と二人きりで、夏の夜の川べりで談笑しているなんて。なんとも尊き青春の一コマだった。実は微笑ましい光景に出るに出られず、茂みに隠れたまましばらく二人を観察していたが……いいなあ。俺があの歳の頃といえばもう魔術師として仕事一筋で……ん?
「……待てよ? ということは、何だ? 一緒にいた子はめぐるの彼女か? もうそんな歳なのか? そりゃ俺の髪も白くなるはずだな……ああっ、なんかこう、心にくるな。息子に彼女……そっか」
思わず唸りながら髪を混ぜた。かつて、ちょこまかと足にまとわりつき、お父さんお父さんと甘えてきた息子。それが背丈が自分ほどに伸び、声も変わって、いっちょ前に彼女まで作っていると来た。
十年間の我が子の成長を改めて思い知らされ、まあまあな衝撃を受ける。その分自分も歳をとったということで……まあ、その半分以上は眠り込んでいたわけだが。ああ、それで余計にか。はあ。
「……は? 何を突然。あのなあ。もうすぐ十六になるなら、彼女くらいいてもおかしくないだろが。それとお前の髪が真っ白なのは元々だろうが。とうとう本当の馬鹿になったのか?」
「そうだったな」
お互いに笑う。魔術師でかつ優秀な医師でもあるこの親友は、俺の馬鹿にずっと付き合って、支えてくれた。今こうして生きていられるのはこいつのおかげに他ならない。ひとしきり笑ったあと親友は険しい顔に変わり、カップの中身を全て飲み干した。
「…………なあ、きっと、恨まれるぞ」
「若い頃の恋なんか、些細なことで終わったりするだろ」
「おいおい。ずっと昔の女を引きずってるお前がよく言うよ……さて、そろそろ次行くわ。じゃあ、また後でな。ごちそうさん」
「おう」
勤務先に戻る親友を見送って、再び家に一人になった。
てっきりそのことは周りに隠して生きているものだとばかり思っていた。まさか、魔術師を目指して魔術の学校に通っているとは。魔力を持つことを明らかにしてしまったのならば、めぐるの存在の意味するところにゆくゆくは気づかれてしまうだろう。
こちらの世界では自然でも、あちらでは不自然極まりない存在。あいつは、世界の仕組みを変えてしまう可能性を持っている。これから平穏に生きていくことなど叶うはずがなく、極端な話、世界中からその命を狙われる可能性すらあるのだ。
本当はあの朝、決断するべきだったのだ。愛する人を絶望の底に叩き落として、永遠に恨まれることになったとしても。
『お願い、めぐるは連れて行かないで。ひとりにしないで』
蕗会を幸せにするためなら、全てを引き換えにしてもいいと、最初は思っていた。本当はずっと三人で、一緒に暮らしたかった。
『…………ぼくは、たまきだ、めぐるじゃない』
叶うはずもなかったのだ。長い眠りから目を覚ました後に訪れた後悔の日々。出会ったこと、愛してしまったこと、踏みとどまれなかったこと。生まれたのが女の子ならよかった、力を持っていなければよかった……無事に生まれなければよかったとさえ考えた。全ては自分が禁忌を犯してしまったからで、蕗会にも、めぐるにも何の罪もないのに。
もはや父親として、できることはたったひとつ。身勝手だと恨まれ、地獄に落とされてもいい。めぐるの幸せのためにはそうするしかない。これからもずっと、たったひとりなのは、あまりにもかわいそうだ。
騒ぎを起こしてしまったし失敗もしてしまったので、しばらくあちらに行くのはやめておくのが無難だろう。しかし、あまり時間もない。どうしたものかと椅子に腰掛け、茶を一口……自分で淹れたものは、やはりいまひとつだ。帰る前に淹れ方を教わっておけばよかったと言うのも、後悔だな。
よし。今度は別の方法でめぐるに接触して、解術と説得を試みてみることにした。
「……必ず、連れて帰るからな」





