第19話 飛ぶ前に、落ちて
朝食を終え男子寮に戻った俺は、制服に着替える。
難関なのはネクタイ結び。中学の時は詰襟だったので、進学を機に結び方を覚えたのだが、何回挑戦しても長さが長すぎたり短すぎたり結び目が変だったり、難しい。
ちなみに昨日も三十分間にわたってホテルの姿見の前で四苦八苦している。
鏡で確認すると、今日もなんとも微妙な出来。ため息をつきながらネクタイを解く。
「おやおや、お困りかな?」
「え」
先生がぬっと現れて、手際良く結んでくれた。程よい長さに綺麗な三角形の結び目は、今の俺には夜までかかったってできやしない出来栄えだ。
「わ、さすがですね。ありがとうございます!」
ああ、大人ってカッコいい。助け舟を出してくれたことに感謝の言葉を述べると、紺野先生は相変わらずの優しげな笑顔。
「いえいえ、どういたしまして。ところで香坂くん、そろそろ出ないとまずいんじゃないかい?」
「え? わっ!! 本当だ!!」
時計を見るとすでに八時十分ちょっと過ぎを指していた。
あわてて上着を着る。ちなみに始業は八時二十分、寮から学校の昇降口までは全力で走れば二分もかからないが、校内に入れば廊下を走るのはまずいので……
……って先生はなんでこんな余裕なんだ!? 先生って普通は生徒より早く行くものなんじゃ!?
「え! 先生は!?」
「ああ、僕は今日一日、四年生の課外活動の監督係だから。いつもよりちょっとだけゆっくりなんだよね」
なるほど! そう言うことか! 納得して鞄をひっ掴んだ。話を振っておきながら申し訳ないと思いつつ、先生の返答を聞ききららずに俺は男子寮を飛び出した。
ドアが閉まる刹那、いってらっしゃーいという声が聞こえてきたが、はーい! と返すのが精一杯だった。
朝食の時よりも高くなった太陽は眩しさを増している。抜けるような晴空の下、俺は転がるように外階段を下りる。
すでに学校へ向かっている学生が既にほとんどいない。校舎までの数百メートルを全速力で駆け抜けた。
◆
さて、ここは国立東都魔術高等専門学校、一年四組の教室。
なんとか初日から遅刻はすることは免れ、今は一、二時間目のオリエンテーションを終えた後の休み時間だ。
朝から一年生全員が教室棟の隅にある大講義室に集められ、本日配布された紙袋いっぱいの謎のアイテムもとい学用品の説明やら、今後の学校生活に関する説明やらを、二時間ぶっ通しで受けまくった。
そのためこの休み時間は特別に少し長めになっている。
「香坂くん、昨日は本当にありがとう。元気そうでよかった」
「ど、どういたしまして。心配かけてごめんな」
校舎の反対の端にあるトイレに行き、戻ってきて席に着いたところで、隣席の本城さんに話しかけられた。
先生に聞かされていたとはいえ、改めて本人から言われると胸がソワソワした。照れくさくなったのをごまかすように頭を掻く。
「へえ、あの先生と一緒に住むことになったんだね」
「うん。そういうこと」
男子寮の話を聞いた本城さんは驚いたのか、栗色の目をさらに丸くする。そうだよな、そんな顔にもなるよな。俺も驚きだったからな、先生と二人暮らしなんて。
「先生と二人暮らしって緊張しない? だって、ずっと気が抜けないよね」
「ううん。気を遣ってもらえてるからだと思うけど、案外大丈夫かも。ウサギ小屋の片隅でウサギと同居かなって思ってたから、それに比べたら」
本城さんはぷっと噴き出した。
「ウサギ小屋って。香坂くん面白いね」
「そうかな? とりあえず人間のすみかでよかったなと」
「そうだ。これから毎日うちの寮に来るなら、時間合わせてご飯一緒に食べようよ」
まるでウサギのように耳が立った気がした。
寮で本城さんを見かけた時から、ぼんやりと考えていたことがが彼女の口から出てきたからだ。
向こうから誘ってもらえたことは、飛び上がって宙を舞いそうなくらいに嬉しい。もっと仲良くなれるチャンス、もちろん乗るに決まっている。
「あ、お、俺でよければ……」
女の子と一緒にご飯を食べるなんて、学校で決められたのでなければいつぶりか。胸が高鳴ってしまい、どうしても声が上ずる。
しかし、本城さんはなぜか考え込むような様子を見せ始める。
「まって。さっきの話だといつも先生といっしょということ?」
「そういうことになるかな」
学生寮への立ち入りは、職員、要するに紺野先生が同伴することが条件になっているので、朝夕の食事にはもちろん先生もついてくる。
「ごめんね、やっぱり今のはなしで。先生と一緒は、ちょっと緊張しちゃう」
喜びで空に飛び立つ前に、ハシゴを外されてしまった。しかし、ここでめげるわけにはいかない。
先生は気さくでいい人だから、きっと彼女とも仲良くなれるはず。
「いや、先生は気にしないと思うし、話すと結構楽しいよ。ぜひ一緒に」
「ううん。男の人同士で過ごせるのってここでは貴重だよね……気が利かなくてごめんね」
とうとう頭を下げられてしまう。
一瞬でも舞い上がったことを察知され、先生を口実に断られてしまったに違いない。もう少し冷静でいればと、胸の底から噴き出してくる後悔。
今までに経験がなさすぎて、女の子に対して自然に振る舞う方法がよくわからない。
俺は別にがっついているわけじゃない。単にクラスメイトと仲良くなりたいだけ。
でも、それも立派な下心と言われてしまえばそれまでか。はあ、嫌われてしまっただろうか。
「ふふふ、よきことかな」
「よくねえよ」
肩を落とした俺の目の前に綿菓子が生えてくる。トイレにでも行っていたのか、今まで姿が見えなかった。
「寮生の諸君はなんだかとても楽しそうに見受けられる。わたしもタマタマと共に食事をしたり風呂に入ったり同じ布団で寝たりしたいゆえに、今からでも寮生になることを真剣に検討してみようか」
透子は腕を組み、上半身をメトロノームのように規則的に小さく揺らしていた。ふわふわと綿菓子のような髪も一緒に揺れて、大変ご機嫌そうだ。
いや待って待って。そうじゃない。この人おかしなことを言ってるぞ。既に俺に遠慮なく触れてくるようになっていた透子の肩に同じように遠慮なく手を置き、こちらを向かせた。
「いや待て透子。俺は飯はともかく風呂は無理。同じ布団で寝るのも駄目。許されない」
そんな、お付き合いをしているわけでもない、いや、仮に付き合っていても高校生がそんなことしちゃだめだろう。何もかもが清くあるべきなんだ。
半分は自分に言い聞かせている気もする。いよいよ己の下心に向き合う時が来たのかもしれない。
一方、かっと目を見開いた透子は、なぜか小刻みに震えながら距離を詰めてくる。徐々に俺に近づいてくるラムネ瓶の瞳が、ゆらゆらゆらと揺れている。
ショックでも受けているのか? どこにだよ。
「なぜ無理などと、駄目などと、そんなことを。たまきくん。我々は同窓の友人同士だろう。ただ共に入浴をし、共に眠るというだけの話であるのに。その上、たまきちゃんとならよくて、わたしとはだめとは、どういう……もしやわたしは既にたまきくんに嫌われておるとでも?」
いいえ、なぜなら君はおんなのこで、俺はおとこのこだからです。本城さんとならいいとは俺はひとこともいってません。じっさいにもしてません。それに、いっしょにおふろだのおふとんだの、そんなことがゆるされるわけがありません。
そんなこと当たり前すぎて、わざわざ補足してやる気にもならない。言葉を失った俺からふらふらと離れた透子は、本城さんの肩にもたれかかって、泣き出してしまった。
「そんな、我々はまだ友人になったばかりではないか。わたしが何か気に障ることでもしたとでも言うのだろうか……たまきちゃん……」
本城さんの腕の中ですすり泣く、四宮シャーリー透子。この人は、この国で一番レベルの高い魔術学校に、首席で入学してきた天才だったはずなのでは。
俺たちがそれなりに苦しんだ入試のことも、あんなの満点取らない方が難しいんでござるよ〜って笑いながら言ってたよな、おかしいだろ。頭の中はいったいどうなっているのか。ふしぎ。
「透子ちゃん、大丈夫?」
「ううっ」
本城さんが透子の頭をまるで聖母のような顔でふわふわと撫でてる。彼女は訳のわからないことを言う愉快な綿菓子にも、分け隔てなく優しいんだな。俺なんかに対しても優しいし、素敵な人だな。
やっぱり仲良くなりたい、そう考えると彼女から目が離せなくなり、気がつけば鼻の下がだらりと伸びて……。
あ! さっき断られたのは、きっとこれだよ! これ! とっさに手で口元を隠し、気を引き締め直した。





