雪の上の歩き方
金沢では、水気を多く含んだ雪が降ると言われる。
積もった直後は足が簡単に埋まってしまう程度には柔らかい、しかし少しザラザラしている雪なのだが、
少し踏まれ続けると軽く固まって、白は半透明になり、踏めば削れて崩れるくらいの強度になる。
さらに踏まれ続けると、アイスリンクのようにカチカチな、滑りやすい氷が地面を覆う。
これは金沢に限った話ではないと思うが、他の土地のものを見たことがないからわからない。
とにかく、僕はこの雪の上が歩きにくくて仕方ない。
僕は歩く速度が速い方だと思う。
しかし、雪の上では別だ。
僕はおそらく、雪が積もった道の上では人を抜かしたことがない。
僕が足下をふらつかせているのをお構いなしに、僕の横を、バランスを崩さずに人々が通り過ぎる。
みんなあまりに速く歩くので、あのペースで歩いていたら転ぶのではないか、というか転んでほしい、と願うのだが、そういう人は大抵転ばない。
転ぶのは僕の方だ。
そしてそういう人は大抵、転んだ僕のことを迷惑そうに、近づかないでくれ、と目で訴えながら、少し距離を取って通り過ぎる。
僕は生まれてこのかた、ずっと金沢の雪を踏んでいる。単独では無くとも、同率の一番くらいにはこの雪のことを理解しているはずだ。
しかし、雪の上をうまく歩けたことは一度もない。
僕が道路上の雪といつものように格闘していると、バンッと背中を叩かれる。
同じクラスの女子。今では大分白くなったが、桜が咲いていた頃には、その景色に不釣り合いなくらいに黒い肌をしていた。
どうやら、それまで南の方で生活していたらしい。
それだけでそんなに黒くなるものだろうか、とも思ったが、他の場所を知らない僕は、そういものなのだろうと無理矢理腑に落とした。
そんな雪には慣れていないはずの彼女が、誰よりも速く僕の前を進んでいく。
雪が彼女に道を譲っているのかと思うほどに、彼女は普通に歩いていく。
この違いは何なのだろうか。
当然わかるはずがない。わかっていたらこんなに苦労はしていないだろう。
足首を平気で飲み込む高さの雪の上でも、
踏めば崩れて足が持ってかれる、氷になりかけの雪が張った道路上でも、
日の光を複雑に反射する凸凹の氷の上でも、
彼女はまるでアスファルトの上を歩いているように、背筋を伸ばし、地面を蹴って、軽快に歩いていく。
僕はそんな彼女に、金沢市民歴16年のプライドを捨て、どうしたらうまく歩けるかの教えを乞うことにした。
朝、いつものように彼女に肩を叩かれる。
彼女はすぐにいなくなってしまうので、急いで声をかける。
既に僕の前にいた彼女は振り返り、笑顔で反応する。
僕は尋ねた。どうしたら君のように雪の上をうまく歩けるのかと。
彼女は少し考えるような素振りを見せた後、
自分で考えてみたかと尋ねる。
僕は首を縦に振り、一応、少しだけ、と付け加える。
次に彼女は、誰かの歩き方を観察しようとしたか、と尋ねる。
僕は、君を参考にしようとしたが、速すぎて十分に見ることができない、と答えた。
すると彼女は、じゃあ、と切り出し、自分と一緒に歩くことを提案してきた。
同じペースで歩いてあげる、転びそうになったら助けてあげる、と。
僕は、女子に助けられながら歩くということに恥ずかしさを覚えたが、独り立ちできるまでの辛抱だと言い聞かせ、彼女の提案を受け入れた。
数日、彼女と一緒に登下校を繰り返したが、歩き方のコツはわからないままだ。
彼女は僕に合わせてゆっくりと歩いてくれるが、僕がいつ転んでもいいようにと両手を少し前に出し、僕のことを見つめながら歩く姿は、まるで最近やっと歩き始めた幼児の歩行を心配そうに見守る母親のようである。
僕はこの現状が嫌になり、彼女にもう一度歩き方の教えを乞う。
すると彼女は、
「来年、というか来年度の冬。この冬が終わって春が来て、夏と秋が過ぎて、それから雪が降ったら、その時に教えてあげる。」
と、微笑みながら、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
理由を聞こうとしたが、その意味深な発言と上がった口角、そして僕しか映っていないかのような彼女のきれいな瞳に、どうしてか僕は気圧され、言葉を発することができなかった。
彼女は少し困った表情を見せた後、開き直ったかのように再び微笑み、僕の手を取って歩くように催促する。
「一緒に行こう」
彼女は得意げな笑みを浮かべてそう言って、硬い氷の上を音もなく歩き始める。
ツルツルした硬い氷の上で手を引っ張られれば当然、僕はよろけ、とうとう初めて彼女の前で尻もちをついてしまう。
彼女はしまった、という表情を見せると、すぐに目を細めて肩を震わせながら息を止め、それでも堪えきれずに大声で笑いだす。
こういう場合、ほとんどの人は僕を横目で見ながらクスクスと笑ったり、見て見ぬ振りをしたりするので、
ここまで素直に、豪快に、しっかりと笑われたことは記憶にはない。
つまり、これまでで一番屈辱的な出来事であったはずだが、
何故だか、いつもより柔らかく、温かい気持ちを感じた。
どうしてそんなに転びたくないのか、と彼女は尋ねてきた。
それはもちろん恥ずかしいからだが、彼女のニヤニヤした表情を見ていると、素直に答えたらやっぱりと笑われそうなので、
来年の受験前に滑りたくないからだ、と答えた。
すると彼女はキョトンとして、転ぶのが恥ずかしいからでしょ、と言う。
その通りである。
僕はろくに取り繕うこともできず、図星だ、と結局彼女に笑われてしまった。
どこかのロボットみたいに少しだけでも浮けたなら、雪なんて関係ないんだろうな。
そんなことを思わず呟くと、彼女はまた僕をバカにするような目で見たが、
「うん、できないなら別の方法を探ってみるのもアリかもね。陸がダメなら海か空。海を泳ぐか、空を飛ぶか。」
少し違うと思うが、思わぬところで賛同を得た。言ってることは滅茶苦茶だが、考え方は間違ってはいないと思った。この課題で活かせるとは思わないが。
不得意なことの代わりに不可能なことを提案してドヤ顔な彼女を、今度は僕がバカにしたような目で見つめてやる。
彼女は意に介さず、ドヤ顔のまま歩き出す。取り残されそうになった僕は慌てて、しかしゆっくりと、よろめきながら後を追いかける。
彼女は振り返り、僕の情けない姿を見て鼻で笑う。
少なくとも雪の上では、僕は彼女には敵わないのだろう。
そんなことを考えながら、それでも、彼女の転ぶ姿を見逃すまいと、僕は自分の足下と彼女を交互に、注意深く見つめていた。
段々と気温が上がり、雪が降るペースが落ちていく。日差しも強くなった気がする。
地方ニュースで、建物の近くを歩かないように……とキャスターが注意を促す声が聞こえる。
歩道の雪もシャバシャバのグチャグチャになっている。ズボンの裾が前よりも濡れやすくなった気がする。
こんな状態なら、とうとう彼女が足をすくわれるのを見ることもできないだろう。
そろそろ僕も、補助輪が無くとも転ばないようになるはずだ。
そうなっても、
まだ外したくないと思った。
外してほしくないと思った。
雪が溶け、地面は再び黒くなり、僕と彼女が通学路で会うことは無くなった。
学年が変わり、クラスが変わり、彼女との2つの接点のもう片方も消えた。
季節が巡り、街が僕の苦手な景色になっても、彼女と会うことはなかった。
僕が上手く歩けるようになったからだろうか。彼女の支えが必要無くなったからだろうか。
結局、僕は受験日に転んでしまった。やはりまだ補助は必要だったようだ。
彼女がいないと、まだふらついてしまいそうだ。
でも、彼女の言葉は僕の手元にある。
その1つひとつを大事に思い出しながら、それらの材料で杖か、ヒレか、翼でも作ってみようか。
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真夏の金沢。
君は雪の上を歩く。
ふわふわで、今にも足が埋もれそうな白の上を、君は軽快に歩いていく。
君が歩いている場所はとても晴れているだろうから、日光が反射して暑いだろう。
水を掛けてあげよう。
怒られるかな。
きっと君なら、頭から被りにいって、気持ちいいと喜ぶだろう。
君と一緒に歩いたあの日から、もう10年になる。
未だに雪には苦労させられるけど、もう転ぶことはないよ。
……あったとしても時々だ。
全部、君のおかげだ。
君が歩き方を教えてくれたおかげだ。一緒に歩いてくれたおかげだ。
結局、雪の上の歩き方は教えてくれなかったけど、
それくらいは自分で考えるとするよ。
君よりも速いスピードで、君よりも高いところから、君を見つける。
そして、君に追いついたら、
君の手を取って、得意げな笑みを浮かべて、こう言うんだ。
「一緒に行こう」って。