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————彼らは覚えているだろうか。
ここに存在するたった一人の、たかが一人の、されど一人の人間の人生を変えたことを。
————勝ち誇っているのだろうか。
自分たちと同じ、この世界に生きている人間を殺さずして殺めてしまったことを。
それはまるで、僕らの存在を己の力の証明か武勇伝だとでもいうように。
しかしそれは錯覚なのだ。今の僕らは、僕らの力の証明であり、その力は僕らの勲章、その過去は僕らの誇り。他の誰でもない。僕は僕だけのもの。誰であろうとこれだけは、たとえ欠片であろうと渡すつもりはなかった。
***
「財布をすられました」
この春、無事に帝桜学園に入学し、晴れて僕はその制服に見を包むことになった。
期待と不安を抱えて、新しい教室へと続く廊下を歩いていたのだけれど、その途中、視界に入った自動販売機で、なんの気もなしに、ただなんとなく、ジュースでも買おうかと立ち止まったところで事件は起きた。というよりも、すでに終わったあとだったようだ。
ズボンのポケットに入れていたはずの財布が、どこを探しても見つからない…………。校門をくぐるまでは確かに、まだズボンの右側にその重みを感じていたというのに。それが今は一切の重みが失く、今はその影も形もなにもない。
一応思い当たる節はある。少し前の出来事を思い返してみれば、まだ校舎に入る前、一人の少女とぶつかった。身体が宙を舞うほど突き飛ばし、尻餅をつかせてしまったのだけど、その少女は声をかける間もなく足早に去っていってしまった。
「間違いないよこれ、絶対すられた! 昼飯抜きだよこれ!」
入学初日の朝、校内を歩く生徒たちは新たな学園生活への期待と希望に胸を膨らませ輝いて見える。しかしそこには、ただ一人頭を抱え、昼休みの空腹を想像し喚く、冴えない男の姿があった。
「あ、あのすみません……」
背後から聞こえた控えめな声。振り向くと一人の少女が上目遣いで申し訳なさそうに僕を見つめていた。手には僅かな小銭。彼女もこの自動販売機に用があるらしい。
「あ、えと、ごめんなさい」
「いえ、ありがとうございます……」
相変わらず控えめな声色の少女。長い前髪と眼鏡で表情を伺うのは難しいが、薄っすらと青みがかった髪の二つ結びのおさげが、彼女に大人しめな印象を与えている。
なぜか緊張した様子で、慌てて小銭を放り込んでいく少女。出てきた紫色のペットボトルを握りしめ、そそくさと一年生の教室の方へと去っていった。
「同級生か。葡萄ジュース好きなのかな」
その様子を見送って、何をするということもなくここに立ち尽くしていても仕方がないと、僕も教室へと向かうことにした。
「えっと、確か……」
僕のクラスはGクラス。Aクラスから始まる一年生のクラスの中では最後のクラスだ。最後というのは、単に一番端に位置するという意味ではない。
最も使いみちのない、最下層の人間の追いやられる場所、最後尾、最後のクラス、優先順位の低いゴミたちの掃き溜めという意味だ。
残念ながら、成績によってクラス分けをされるこの学園のヒエラルキーの中で、Gクラスはその底辺に位置する。一応はいくつかの救済措置は用意されてはいるのだが、まあそのあたりは追々話していくことにしよう。
この学園に来るのは入試のとき以来二度目になる。初めてこの場所にやって来た者がまず始めに驚くのは、学園の敷地の広さだ。
大学キャンパス以上の敷地に、いくつもの大きな校舎や施設が並んでいる。校舎は学年ごとに分かれ、今いるこの校舎が一年校舎。校舎の中の教室は、新一年生の教室と職員室、あとは授業に使用する道具が置かれる準備室くらいのものだろうか。
授業によって適した、いわゆる特別教室というものもこの校舎内に用意されているのかもしれない。そのあたりのことは、まだ入学初日の一年生には知る由もないことだ。
「結構人が多いな」
校舎内は自分の教室を探す新入生たちでごった返していた。とは言っても、流石に校舎の最端に位置するGクラスの教室の前までは、それは続かなかった。人混みが苦手な僕からすれば、この静かな教室に振り分けられたのは運がよかった。
早速前のドアから教室に入ると、すぐに教室内の視線が集まった。
教室内にいるのは一般的な高校の教室にいるようなメンツだ。大人しい生徒、爽やかな生徒、チャラついた生徒、素行の悪い生徒、地味な生徒、真面目な生徒、明るい生徒。
しかし、そんな一見普通で多彩な生徒たちが、一斉に僕に視線を向けたのにはそれぞれの感じた印象からだろう。安堵、嫌悪感、苛立ち、好奇心。そんな感情を刺激するのは僕の容姿の問題なのだと思う。
目が隠れるほどの長い前髪、その間から覗く黒縁メガネ。小さく縮こまったような猫背。にもかかわらず背は低くない、というのがかえって注目を浴びる理由だろう。
見るからに根暗な人間は冷たい視線に打たれるのが、昨今の若者の間では当たり前のことらしい。僕みたいな人種には生きにくい世の中だ。
教室内ではあいつには関わってはいけないという雰囲気が、主に爽やかグループを中心に漂い始めている。
でもこれは僕にとっては好都合。僕自身、自分のこの立ち位置は気に入っているのだ。
人が誰も寄ってこない。それはつまり、すべての時間が自分のものであるということ。自由なのだ。
人は必ず、他者のために自分にとって不利益で無駄な時間の消耗、言い換えれば自由の放棄をしているのだ。それはきっと、人間関係を良好に安定して継続させるための方法であるのだろう。自分の時間を他者のために割くことによって、その時間をその者との親密度へと変換しているのだ。
それは時に割に合わない場合もあり、さらに自分の欲求を押し殺す行為であり、最悪は怒り、恨み、悲しみ、不快、憂鬱、憐れみを産むこともある。
そうとわかりつつも人は、これによって得られる人間関係によって、さらに莫大な利益を得られると信じて時間を費やすのだろう。
けれど僕は違う。これによって得られるものが僕には何一つないからだ。例えそれがどんな利益を運んでこようとも、それが、富、名声、力、この世の全てであろうと放棄すべきものなのだ。
今の自分に必要なもの以外のものは必要がない。自分の欲に純粋に応えうるものだけを求める。ゆえにこの世の全てなど、僕にとっては有難迷惑にしかならないのだ。たとえ店の棚に並んでいたとしても、誰も廃棄物など買わない。
そんな廃棄物に群がるクラスメイトの視線を受けながら、黒板に貼られた紙に視線を移した。
座席表。
「窓側の一番後ろか」
最高の席だ。後ろのロッカーは近く、教師とも離れていることで精神にも優しい。窓からの心地よい風、外の景色は心を穏やかにしてくれる。そしてなにより、後ろに人がいない=人の視線を浴びない=目立たない、という方程式が完成する。
目立たないことが、学園生活を平和に送るための最強の手段であることは知っている。
こういうものは出席番号順に並べられ、それは名前順であることが多い。四葉という名字と両親に最も感謝を捧げる瞬間かもしれない。
カバンを机の横に掛け、静かに着席する。
教室にはすでに十人弱が着席していて、同じクラスに運良く友人がいた者たちは教室の後ろやそのうちの一人の席を中心に話し込んでいる。席に着いていない生徒もいれれば、このクラスの大体の生徒は既に集まっているようだ。
僕に集まっていた視線は既に四方八方に散っている。知人のいない僕は椅子に座るやいなやすぐに机に突っ伏し、そのまま横目で教室の中の様子を探ってみた。
一番後ろの席はクラスの状況も把握しやすい。どんな人間が同じクラスにいるのか、誰が誰と仲が良いのか手に取るようにわかる。
机に座ってじっと読書する生徒。ギャーギャーと馬鹿騒ぎする生徒。派手な身なりのヤンキー。数人の男女グループを作るイケイケグループ。関わると面倒そうな人間やグループは今のうちに把握して、脳内ブラックリストに記載しておく。
「お、おい……あれ……」
「うお!! ……まじかよ!!」
人間観察をしていたところに、教室後方で話していた数名の男子生徒の揺らぐ声が聞こえた。その些細などよめきはやがて教室全体へと広まり、ざわめきへと変わる。
何事かと顔を上げ教室を見渡すと、クラス中の人間が教室前方、黒板の前で座敷表を見つめる女生徒に注目していた。
その生徒は自分の席を把握したのか、黒板から目を離し自分の席へと向かうため後方に振り向いた。そしてようやく、クラスの騒ぎの理由を理解した。
とてつもない美少女だったのだ。長い蒼髪をなびかせ、エメラルドの碧眼を光らせる。教室の男子はもちろん、女子さえも目を奪われていた。出るべきところだけが見事に出ているスタイルの良さ。時代を手に取る有名アイドルや女優のそれ。きっとテレビの中の存在が目の前にいるのだとしたらこういう感じなのだろうと思わされるほどだ。
しかし、彼女が持つのはそれだけではない。具体的な言葉が見当たらないが、あえて言うならばオーラだろう。感覚的でスピリチュアルな曖昧な言葉だけど、彼女の纏う雰囲気のようなものは、テレビの中の誰でさえも彼女には劣るのではないかと、そう思わされるほどだった
いつの間にかまじまじと彼女を見ていた。それに気づき、内心焦りつつさり気なく視線を外す。
「ま、どんなにきれいでも、僕には関係ないな」
そんなことを一人つぶやく中ざわめきは続く。男女問わず、皆の視線は彼女に集まり、ひそひそと話す声が教室から廊下にまで響き渡る。
彼女を見た女子たちの賞賛と憧れ、尊敬をつぶやく声、思春期真っ盛りの男子高校生の会話。期待するだけ無駄だということは皆わかっていても、彼女の現実離れしたその全てに、現実的な思考を奪われている。
「ん?」
ふと僕は席に向かう彼女を見て不思議に思った。指定された自分の席へ向かうはずの彼女が、何故か僕のもとへと近づいてくる。教室中の視線を集めた美少女が、こっちに。クラス中の視線も自然の摂理の如く当たり前のように伴って。
誤魔化すように再び机に伏せ、伸びた前髪の間から近づく彼女を覗き見る。目の前まで歩いてくると、彼女は蒼の目の前の誰もいない席に腰を掛けた。どうやらそこが彼女の席らしい。
せっかく一番うしろの席になれて視線を回避できたというのに、わざわざそれを引っ張ってくるとは。この教室の生徒は彼女のことを女神のように思っているようだが、蒼にとっては病原菌を撒き散らすただの迷惑の人でしかない。
席に座ると彼女は、カバンから一冊の本を取り出し静かに読書を始めた。先程まで教室前方に集中砲火されていたあの熱い視線が、今は蒼のすぐ目の前の生徒に向けられている。自分が見られているわけではないとわかってはいるのだが、途端に居心地が悪く感じた。
それから、時間目前に教室に入ってくる生徒は皆、その少女に視線を奪われ熱い視線を送り続けた。担任の教師がようやくやって来た頃には、その視線によるプレッシャーで蒼の精神は満身創痍だった。
よりによって前例がないほど天才的に人の視線を集める人間が目の前の席になるとは運が悪い。四葉という名字と自分の両親に怨嗟を捧げた瞬間だった。
チャイムと同時に教壇に立った教師は、皆を席につかせると同時に黒板に文字を書き始めた。
「ええ、このクラスの担任をすることになった『松風恭吾』だ。担当科目は理科。まだ入学したばかりで皆わからないことも多いだろうから、何かあればなんでも俺以外の職員に聞いてくれ。一年間よろしく」
自分の自己紹介を終えると松風は、教室前方の廊下側の席から順に自己紹介をするように言って眠り始めた。第一印象は怠惰なおやじだった。
座席は出席番号順。もちろん一番最後は蒼。
教室には四十人ほどの生徒がおり、ひとりずつ自己紹介をしているわけなので、それなりの時間はかかった。しかしそうやって油断しているといつの間にか自分の列まで順番は回ってきており、あっという間に目の前の美少女の順番が回っていた。
他の生徒の自己紹介には全く関心を示さなかった生徒たちも、彼女の番が回ってくると途端に目の色を変え、彼女に熱い視線を送り始めるのだった。
視線の送り先の美少女は静かに席を立つと、ゆっくりとその美しい口を開いた。
「えっと、『夜空瑞穂』っていいます。知ってる人もいなくて不安だらけだけど、みんなと仲良く学園生活を送っていけたらいいなって思います。よろしくお願いします」
緊張した様子で自己紹介を終えた瑞穂。彼女が席に座ると、再び教室はざわつき始めた。彼女の情報を確実に自分の頭にインプットするために、つぶやいて、共有して、メモを取るものまで。堂々とした性格かと思っていたが案外気弱そうで、その美しく澄んだ声色も相まってうっとりとするものも多い。神秘の森の奥深くにある泉の畔で、精霊が奏でるハープの音色のような声だ、と思っているものもいるかもしれない。しかし蒼にはそんなことを思ってる暇はない。すぐに順番は回ってきた。
ざわつきは未だ止まないが、すでに瑞穂のときの熱い視線はなくなっている。皆自分のことで必死なのだ。自己紹介がやりやすくなったとホッとしながら立ち上がる。
「四葉蒼です。よろしくお願いします」
無難でなんの飾り気もない自己紹介。誰も興味を示さない。というか多分、自己紹介したことすら気づいていないだろう。これでいいと一人頷き席に着く。
ふと目の前の美少女と目が合う。真っ直ぐな目で見つめられるがすぐに目をそらされる。まあ目の前の席だし、ざわつく必要のない瑞穂は真面目に自己紹介を聞いていても不思議ではないだろう。
自己紹介が無事に終わると、眠っていた松風がタイミングよく目を覚ます。
「お、ちょうどいい時間だな。それじゃあ全員廊下に並べ。体育館まで案内するぞ」
言われるがままに、気だるさも交えてクラスメイトたちが教室を出ていく。
廊下は静かで、クラスメイトの話し声が響いた。