#2
翔の為人を表現するなら、きっと「口下手」という言葉が似つかわしいのだと思う。
みんなでワイワイすることは嫌いではなかったが、集団の中にいるとどうしても話が上手く繋がらずに居所を見失い、結果として孤独に陥ってしまいがち。翔はそういうタイプの人間なのだ。身も蓋もない言い方をするならば『コミュ障』か。
高校の頃も友人はいたけれど、普段は教室の隅で一人静かに読書をしていることが多かった。会話は昼食時か、休み時間に遊びに誘われた時だけ。自分が話下手なのを悟っていた翔にとって、他人との会話は自分の弱点が剥き出しになる恐怖の瞬間でしかなかった。思い付きで話しているとうっかり失言を放ってしまいそうで、自分の口が制御の効かない暴れ馬のように思えた。
本当はいつだって、思っていることや考えていることはこの胸の中に濁流のように渦を巻いている。
(でも、どうせ伝わらないから)
その諦観が堰となって、濁流の溢れ出すのを無理やり押さえ込んでいた。
大手町や表参道、新宿、渋谷、池袋。上京して以来、東京の色々な街を訪れてみた。翔の故郷の町には決まって、どんな会話も聞こえてこない静寂の漂うスポットがあったものだ。それが東京にもないものかと、高いビルの連なる景色を見上げながら探し歩いた。けれどどこへ行っても、そこには大学の構内とさして変わらぬ喧騒が、大学よりも遥かに巨大な広がりをもってうねっているばかりだった。黙って読書をしていればやり過ごせるような空気感は、大学にも、大学の外にも、見当たらなかった。
東京の──大都市の人間というのは、なぜこんなにも賑やかさを求めるのだろう。
母親の口癖が思い出されるようで、翔はいつも逃げるように電車に乗って、港区の自宅へと戻っていったものだった。
◆
結局、その日は廉太郎のアカウントを見つけてフォローし、後はアイコンや自己紹介欄の設定を完了させただけで終わった。
翌日いきなり、そのことを廉太郎に尋ねられた。廉太郎とは学部が違うが、受講する一般教養科目が一部で合致しているので、その授業で会うのである。
「桜田、俺のことフォローしたろ」
隣に座ってくるなり、スマートフォンをちらつかせながら単刀直入に訊かれ、翔は悪いことをしたような気分になりながら頷いた。
「一応……。あれから芝田の言う通りアカウント作ったんだけど、どうせだからって思って」
“どうせ”という心境でなかったのは確かだが、訂正するための言葉も浮かばなかった。
なんだよぉ、と廉太郎は声のトーンを跳ね上げた。翔が素直にアドバイスを聞いたのが嬉しかったらしい。
「で? 桜田んとこの学部のフォロワー、増えたのか?」
「さすがにまだ。だけど一応、慶興の経済ですって自己紹介のツイートはしてみた」
「なら、後は時間の問題だな」
「もしされなかったら、俺からフォローしていってもいいと思う?」
たまらずに翔は聞いた。
実はそれが懸念の一つでもあったのだ。もしもこのまま誰にも見向きされなかったら、友人を増やすというアカウント作成の目的を遂げることができなくなってしまう。それでは意味がないのである。
果たして廉太郎はあっさりと首肯した。
「当たり前だろ。新入生の新学期なんだぞ、不安な気持ちはお互い様なんだよ。むしろ桜田がそいつらを発見するようなつもりで、どんどんフォローしていっちゃえばいいんだよ」
その廉太郎自身、新入生の新学期で不安なのではないのか。尋ねると廉太郎は胸を張った。
「俺、一浪してんだよね。だからぶっちゃけ、気持ちにはけっこう余裕あるよ。最悪ひとつ上の学年にも知り合いいるし」
その余裕は是非とも分けてほしい。『フォロワー 1』の表示に目を落としながら、翔は聞こえないようにため息も床へ落とした。
慶興大学の経済学部は、文系学部類の中でも法学部に次いで地位のある学部だ。しかしその風土は法学部や、はたまた文学部とはずいぶんと違う。学部を構成する学生たちの中心を占めているのは、ガリガリ勉強を進める秀才タイプでも、暇さえあれば六本木や麻布の方へ繰り出そうとする遊び人タイプでもなく、どちらかというとお洒落で『大学生らしい』大学生を目指そうとする一群だ。大学の授業にもそれなりに出席し、勉強にもほどほどに取り組み、アルバイトやサークルにも精を出し、あとは目一杯、遊んではしゃいで恋をして……。そんな、良いとこ取りをしたような日々に、誰もが憧れを抱いている。
一緒に授業を受けていても、その空気感は肌を介してひしひしと感じられる。
「ねぇねぇ、これ終わったら浜松町の人気カフェ行かない?」
「あー、いいね行こう行こう! 私もあそこのケーキ気になってたんだぁ!」
などと、スマートフォンを覗き込みながらはしゃぐ女子の一団がある。
「今の髪型だとなんかモテなさそうだし、今度どっかで髪でも切って来ようかと思ってるんだけどさ。お前、どう思うよ」
「どうせなら赤とか青に染めちゃえよ。ほら、大学デビューってやつ」
「てめ、他人事だと思って適当なことを……」
などと、机の上にノートを置きながら駄弁る男子の一団がある。
そういう周りの環境がどうにも気になって、翔自身も授業にあまり身が入らずにいる。あの一団に絡みたい、話に交わってみたい。そう思いはしても、そんなことをする勇気は簡単に出るものではなくて。
現実で仲良くなろうとするからいけないのだろうか。先んじてネットで仲良くなってから、それを現実に還元する方が、本来、ずっと楽のはずだ。歓談のさまを文字通り横目に眺めながら、そう思った。
(そうだよ。俺が苦手なのは、生身の人間と生身の会話を交わすことなんだから……)
咄嗟にスマートフォンに手が伸びかけて、慌てて前を向いて壇上の教授を見据えた。仲良くなりたいという気持ちと、ああはなりたくないという気持ちは、今はまだ翔の中ではそれほど矛盾しなかった。
春の夜の東京は、涼しい。港区の海沿いにある翔のアパートは、夜半にもなると心地好い汐の香りにやんわりと包まれる。
ここへ来て数日が経った頃から、翔は夜の散歩を日課にしていた。芝浦アイランドの超高層マンション群や、その名を裏切って白色にライトアップされたレインボーブリッジ、遥か対岸の臨海副都心や品川シーサイドの町並み。少し足を伸ばしただけで翔を取り囲む都心の夜景は、賑わいの中でざわつきすぎた心を落ち着かせるのには最適の環境だった。何より、人の往来が少なく、そこには昼間の東京には見当たらない静寂がどこからかひっそりと顔を出していた。
運河に沿って整備された親水公園のベンチに、翔はそっと腰掛けた。そうして、スマートフォンを取り出した。画面の眩しさに目の奥が痛んで、すぐに輝度を落とした。
相変わらず、フォロワーは1のままだ。
「……やってみるか」
翔は自分をけしかけるように、独り言をこぼした。
検索画面に大学名や学部名を打ち込むと、すぐに同じ学部の学生のアカウントは見つかる。それも大量に、だ。そのことを翔は既に昼間のうちに確かめていた。
あとは、こちらからフォローするだけ。
「…………」
ともすれば躊躇してしまいそうな指を、思い切って『フォローする』のボタンに押し当てた。一度やってしまうと枷が外れたようになって、気が付いた時には翔のアカウントのフォロー数は五十人近くに膨れ上がっていた。
浅い息を吐く。さあ、あとはどれだけこのフォロー数にフォロワー数が追い付くか。
【同学部の人フォローしてみた 仲良くやれたらいいなぁ】
思い付いたままに打った文をツイートすると、翔はスマートフォンを再びポケットに突っ込んだ。とたん、身体をおおっていた緊張がほぐれて、肩の位置がぐっと下がった。目線を上げて眺めた運河の水面が、ぶれるように揺れている。
(いちいちこんなに疲れてたんじゃ、やってらんないな)
そう、思った。
朝一番にスマートフォンを触ろうと思ったのは、これが人生で初めてだったかもしれない。
真っ先にTwitterを開いた。馴染みの青い鳥が画面に大映しになり、次いでタイムラインが起動する。昨夜フォローしたユーザーたちの会話や呟きが、行儀よく縦一列に並んでいる。
しかし今は、そんなものに興味は湧かなかった。フォロワーは増えているのか。何よりも先にそれを確かめたくて、通知欄に指を滑らせた。
──フォロワーは、増えていた。
「三十人も増えてる……」
翔の言葉は思わず口に出ていた。信じられない。以前作ったアカウントのフォロワーは二十人にも満たなかった。このアカウントはたった一晩で、その自己記録をあっさりと上回ってしまったのだ。
このスマートフォンは、このアカウントは、実在する三十人もの人間と画面越しに繋がっている──。
【フォロワー増えてた! やった!】
さっそく喜びをツイートした瞬間、新たな通知が来た。見ると、昨日フォローしたばかりのユーザーから、たった今呟いたばかりのツイートが『いいね!』されているではないか。きちんと読まれている証左に他ならない。
これは、もしかしたら、もしかすると。
あれから数日が経ってようやく、廉太郎があの時Twitterを始めるように助言したことの意味が分かったような気がした。廉太郎も今頃どこかでこのツイートを見ながら、笑っているだろうか。
(このまま「友達」を増やしていけば、現実で孤立することだってなくなるかもしれない……!)
大袈裟ではない。翔は確かにその瞬間、東の空ではなく画面の向こうに希望が輝くのを目にしていたのだ。




