2.如月
オフィスビルが立ち並ぶビル街。誰もが見過ごしてしまいそうな、うっすらと陰る小道がある。そこを通り抜けると、一転して静かな通りに突き当たる。
その内の一区画、狭い土地に立つ廃れたビル。テナント募集の看板が掛けられたその入り口を潜ると、直ぐに二階へと続く階段が伸びている。昼間でも暗く、電球もとっくに切れたそこを登っていくと、左手には曇りガラスが嵌め込まれた扉。目の前には更に三階へ続く階段が見えているが、その手前には立ち入り禁止の立て札が邪魔をしていた。
「いるかー?」
俺は軽くノックをして、左手の扉のノブを回した。
室内は、十帖ほどの狭いスペース。奥にはスチールデスクが一つと、手前に応接用のソファとテーブルが置かれている。
そのソファに体を預けて眠っていた男は、俺が扉を開くと同時にパチリと、瞼を開いた。
「何だ、お前か」
「何って、悪かったな。…あぁ、これ、やる」
テーブルに紙袋を放ると、広瀬は「サンキュー」と小さく呟いて、早速袋の中身を漁った。ここに来る前に立ち寄ったファストフード店で購入したもの。コイツはいつも昼飯を抜くから、時々こうやって持ってきてやるのだ。
「今日は、ヒマか」
「ん。夕方にケイジが来る」
「またアイツ?」
「どーせまた女だろ」
広瀬は鋭い目を細くして、めんどくせぇなと呟いた。
ここに依頼に来るのは、大半がそんな下らないことである。
依頼…といっても、ここは「何でも屋」では無い。
確かに金を払えば、広瀬は大半のことは何でもやる。
例えばあの女を自分のものにしたいとか、彼と別れさせて欲しいとか。たまにガチで面倒な、明らかに違法なヤツも来るが、そこの良識はあるのだろう、広瀬は決してそんな依頼は受けない。
こんな風に事務所っぽい場所を構えているのは、コイツには居場所が無いからだった。
詳しいことは知らないが、広瀬の両親は既に亡くなっていて、ヤツは女のところを転々としていた。俺は高校時代の同級生なのだが、広瀬はその頃には既に親が居なかった。一体どうやって生活してきたのか果たして謎だが、久しぶりに再会したときコイツに家は無くて、俺は成り行きで、自分の父親が持っていたこの空きビルに広瀬を住まわせることにしたのだ。
お陰で今では、コイツがやっていることに半分首を突っ込んでしまっている。
「なぁ、如月」
「ん?」
「新橋、覚えてる?」
「シンバシ?」
「新橋希美」
フルネームで名前を聞いて、あぁ、と思い当たった。それは確か高校の同級生の名前で、同じクラスになったことは無かったが、それでも聞き覚えはあった。
「知ってる。広瀬、同じクラスじゃなかった?」
「そう。そいつ」
そうして広瀬は、言葉を切った。
新橋が何だというのだろう。
「そいつ、不倫してんだよ」
「へぇ、そうなの?」
そうは言ったものの、俺はあまり、新橋のことを詳しく知らなかった。名前を聞いたことがあったのは、俺たちの学年でそこそこ可愛く、人気があったからだ。
「人は見かけによらないな」
「あー、そうだな。新橋って、確か、清純派だったよな…」
そうだ、段々思い出してきた。おしとやかで、頭も良く、迂闊には手が出せないタイプだった。
「男に騙されてんじゃねえの?」
「そうかもな」
「ていうか、何?お前、新橋と親しかったっけ?」
広瀬が珍しく誰かの話題を口にしたものだから、俺は少し不思議に思った。コイツが他人に興味を持つことなんて中々無いことだから。
「気になるんだよなぁ」
「マジ!?」
「頭、いーはずなのに馬鹿なことするやつってさぁ」
あ、そーゆうこと…。
一瞬勘違いした自分が馬鹿らしい。コイツがそんな感情、抱く訳無いのだ。
「まー、頭の良し悪しじゃないからなぁ」
「だな。どーすっかなぁ」
「…あ、そろそろ仕事戻るわ」
広瀬が何か良からぬことを考えている気がして、俺はソファから腰を上げた。
こういうときは、聞かなかったフリに限るのだ。
広瀬は軽く手を上げて、再びソファに体を倒す。もう一眠りするらしい。
「また来る」
そう告げて部屋を出た。
階段を降りて外に出ると、先程までとはうって変わって、明るい日差しが体を貫く。あんな所にずっと居たら、昼も夜も区別がつかなくなりそうだ。
通りには誰もいない。すぐ先を進んでいけば、沢山の人と遭遇するのに。
「あちい」
真っ黒なスーツの熱を感じながら、俺はまた、元来た道を歩き出した。