1.未依頼
自分にはそんな感情、関係無いと思っていた。
「な?いい話だろ」
目の前の彼は口の端を釣り上げて、私の様子を伺っている。
どこか、人を見下したような目つき。
突然呼び出され、何かと思えばこんな話。頷けば、彼の思う壺に嵌るのは目に見えていた。そんなのは癪だ。大体、私にはそんな怪しい話に乗るつもりなど毛頭無いのだから。
「俺なら出来るよ」
実際、その通りだと思う。広瀬くんは、下らないヘマなんか絶対にしない。『絶対』なんてこの世に存在しないのかもしれないけれど、彼の口調はそれを信じさせる威力がある。
だけど、それとこれとは関係が無い。
出来ようが、出来まいが。そんなこと、考えたりしちゃいけない。
そういうレベルの話なのだ。
そう、分かっているのに…なぜか、頭を過ぎった。
もし。もし本当に上手くいったら?
考えかけて、目を瞑った。
私、バカみたい。
「何が目的なの」
「人聞きが悪いな。俺は希美のこと友達だと思ってるからさぁこういう話持ってきただけ。お前のために」
切れ長の瞳が私を映し出す…睨んでいる私の顔が、私を睨み返す。抵抗しているのに、それは随分弱々しい。今にも陥落しそうな、不安定な感じ。
彼の目に、私はこんな風に映っているのか。
「そんなの、いいから」
「まあ、いいや。とりあえず、今日はそれだけ。何かあれば、連絡して」
それだけ言い残すと、広瀬くんは颯爽とカフェを出て行ってしまった。テーブルには半分も飲んでいない珈琲と、千円札。
何のつもりだろう。
私には彼の考えていることなんか、少しも分からない。
分かりたくもない。
広瀬くんとの会話から、一週間が過ぎた。
もうその出来事を忘れかけていた頃だった。
「新橋、俺、別居することになったよ」
会社の上司でもあり、私の不倫相手でもある芳崎さんから、そう告げられたのだ。
「え…奥さんは?」
「なんか、頭冷やしたいって。訳分かんねーよな。あんなに駄々こねてたくせに」
その瞬間、広瀬くんの言葉が頭に浮かんだ。
『希美の不倫相手、離婚させてやるよ』
…広瀬くんが何のために、そんな提案をしてきたのかは分からない。
彼はただの同級生。昔からちょっと変わった人だった。騒がしい訳では無いのに、いつもクラスの中心メンバーとつるんでいた。
私は何となく、そんな広瀬くんが苦手で、単純に怖かった。
一昨年、同窓会で再会した。
彼が何をしているかなんて知らない。
かつてと同じ、どこか近寄り難い独特の雰囲気を纏っていて、少しだけ、饒舌になっていたのが印象的だった。
そして今。
同窓会での再会以来、地元に残っている同級生同士、飲みに行くことが増えた。だから自然と、広瀬くんと顔を合わすことも増えてはいた。
でも何故、私に?
そもそも何故、彼は私が不倫していることを知っているんだろう?
『希美、びっくりした?』
「…広瀬くん」
電話口での声、笑みを含んでいる。
思わず頭を抱えたくなった。本当に、彼が。
「なに、したの」
『別に。相手の女に、ちょっと仕掛けただけ」
「…どうして」
どうしてそんなことをするのだ。そう問いかけたとしても、私が納得いく答えなど返ってくるはずが無いと知っている。それでも聞かずには、いられなくて。
『だって希美が困ってたから。まあ、これはただの、余興ってとこだよ。マジでやるなら、本当に離婚までさせられるし』
「…お金?」
『は?』
「私…、聞いたことあるよ。広瀬くんって、お金出せば何でもやるんでしょ?だから、そのために…」
『違うよ』
私の言葉を遮って。
広瀬くんは、そう告げた。
「じゃあ、何で」
『別に、理由つーか。俺はお前が欲しいものを、あげられるから。しかも、簡単に』
「簡単に…」
『そうだよ。だから、俺に頼めば問題なんてねーのになって』
馬鹿みたい。
訳、分かんない。私が欲しいものを、どうして広瀬くんが知っているの?
『お前は何もする必要ねーから。まあ、見てろよ』
「待って、何…」
何するつもりなの、と言いたかったのに、その直前で電話は切れた。
ツー、ツー、
虚しい音が続いている。
こんなの、ダメだよ。
そう思いながら、心のどこかで、私には関係無いって声が聞こえる。
彼がもし、何かをして、そして芳崎さんが離婚することになったとしても。
私には関係無いんだ。