聖女はまだ燃えているか
夏の夜のお供にどうぞ。
魔王が滅びた日、聖女セイラは死んだ。
聖戦の最終局面で、セイラは人ひとりが扱えるはずのない量の神聖力を解き放った。白い光は戦場を覆い、魔王とその軍勢を跡形もなく消し去った。
その代償として、彼女の魂は砕けた。
しかし、残された肉体には傷ひとつなかった。瞼を閉じ、胸の上で手を組んだ姿は眠っているようだったが、呼吸も鼓動もなかった。
神官たちは幾度も調べ、やがて結論を出した。
魂が存在しない、と。
蘇生術を施すべき対象そのものが、すでにこの世に残っていない。それでも聖女の身体は腐らなかった。数日経っても、数月経っても変わらない。そこで王国は、聖女の亡骸を巨大な透明の結晶に封じ、王都の大神殿へ安置した。
勇者アルノーも、賢者ディルクも、共に戦ったすべての者たちが、それを当然のこととして受け入れた。
彼女は国のために死んだ。最後まで人々を守り、すべてを使い果たして死んだのだ。眠らせてやるべきだった。
ただ一人、そう考えない者がいた。第一王子レオナールである。
彼は生前のセイラを愛していた。少なくとも、本人はそう信じていた。戦場から帰還した彼女へ宝石を贈り、花を贈り、舞踏会へ誘い、戦争が終われば王妃にすると何度も告げていた。
セイラはそのたびに断った。
戦争が終わったら故郷へ帰る。小さな村で、静かに暮らしたい。それだけを望んでいた。
だがレオナールにとって、それは一時的な気の迷いに過ぎなかった。平民出身の女が王子との結婚を拒む理由などない。聖女という立場に戸惑っているだけだ。自分が導けば、いつか理解する。
そして死んでしまった今となっては、拒絶の言葉すらもう存在しなかった。
聖女の死から一年後。王宮地下で、禁術が行われた。古代の死霊術と召喚術を組み合わせた、王国でも数百年前に封じられた術だった。
失われたセイラの魂を呼び戻すことはできないと、術師たちは何度も説明した。できることがあるとすれば、空になった肉体と親和性の高い別の魂を探し、そこへ定着させることだけだった。
つまり蘇生ではない。別人を、聖女の身体へ押し込むだけである。それでもレオナールは命じた。
肉体がセイラならばいい。中に入った魂が何者であろうと、教育すればいい。王子に従わせ、聖女として振る舞わせればいい。それだけのことだった。
その夜。
王国から遠く離れた世界で、一人の女が死んだ。
ユウカという名の、ごく普通の女だった。三十二歳。夫と、五歳になる娘がいた。
翌日の保育園の準備をして、娘の小さな靴下を畳み、寝かしつけ前に水を飲もうと台所へ向かった。
そこまでは覚えている。胸を貫くような痛みが走り、床が近づいた。娘の泣く声がした。
それが最後だった。
次に目を開けた時、知らない男たちが彼女を見下ろしていた。身体が違う、手が細い、髪が長い、鏡に映った顔は見たことのない女だった。言葉だけは不思議と理解できた。
聖女が蘇った。奇跡だ。王子殿下のお力だ。と自分を取り囲む者たちは祝福した。
何を言われているのか理解するまで、ずいぶん時間がかかった。そして理解した瞬間、ユウカは娘の名前を叫んだ。
何度も。
何度も。
何度も。
返事があるはずもない名前を叫んだ。
最初の数日、レオナールは寛大だった。突然の蘇生で混乱しているのだろう。記憶が欠けているのだろう。悪い夢を見ているのだろう。そう考え、豪華な衣服や宝石を与えたが、ユウカはそれらを投げ捨てた。
帰せと言った。
娘のところへ帰せ。
夫のところへ帰せ。
自分をここに呼んだのは誰だ。
なぜ自分を選んだ。
何度尋ねても、返ってくる答えは同じだった。あなたは聖女になったのだ。選ばれたのだ。幸福なことなのだ、と。
やがてユウカは、自分が元の世界では死んでいることを知った。召喚には、生きている魂よりも肉体から離れた直後の魂が適している。そのため術式は、条件に合う魂を見つけた時点で肉体との繋がりを断つ。
つまり偶然死んだのではない。こちらへ呼ぶために殺されたのだ。
それを知った日の夜、王宮の西棟が半壊した。
誰かが攻撃したわけではなかった。ユウカが泣きながら壁を叩いただけだった。
聖女セイラの身体には、かつて魔王軍を滅ぼした力が残されていた。魂が変わっても、その器は変わらない。神聖力と呼ばれていたものはユウカの感情に反応し、白ではなく、時折赤い光を帯びるようになった。
勇者アルノーが初めて彼女と会った時、すぐに理解した。これはセイラではない。顔も、声も、身体も同じだった。それでも違う。そして、それは違って当然なのだ。
アルノーたちは王子へ抗議した。死者への冒涜であること。召喚された女もまた被害者であること。術を解除し、元の世界へ戻す方法を探すべきであること。
しかし王子は聞き入れなかった。
戻す方法など存在しない。ユウカの元の身体はすでに死んでいる。ならばこの世界で生きるしかない。そう言った。もっとも、その「生きる」には条件があった。
聖女として祈ること。王国のために力を使うこと。王子の婚約者となること。セイラの名で生きること。ユウカはすべて拒絶した。
彼女が望んでいることは一つ。娘に会いたい。ただそれだけだった。
王宮では次第に、彼女を恐れる声が増えていった。
食事を運ぶ使用人を近づけない。神官の説教を聞かない。レオナールの呼びかけにも応じない。部屋へ無理に入ろうとした兵士が壁ごと吹き飛ばされ、数名が重傷を負った。魔力測定の儀式では器具がすべて砕けた。
夜になると泣き声が聞こえ、時には絶叫になった。娘の名前を呼び続ける声が、長い廊下の果てまで響いた。それを聞いた者の中には、眠れなくなる者もいた。
一方で、哀れだと口にする者も増えた。
王子がやったことを知る者は少なかったが、噂は少しずつ漏れていた。
死んだ聖女の身体へ、別の女の魂を入れ、その女には幼い娘がいた。王子が欲しがったために、一人の母親が殺された。
王国は噂を否定した。
新しい聖女は混乱している。悪しき魂に記憶を乱されている。そう説明した。
そして数ヶ月後。レオナールはついに判断を変えた。
もうこの女は聖女ではない。悪魔に肉体を奪われたのだ。王子が望んでいた聖女は、最後まで現れなかった。従順にもならず、自分を愛することもなく、むしろ日ごとに憎悪を増していく。
ならば間違っていたのは術ではない。入ってきた魂の方だ。召喚の隙を突いて邪悪な魂が入り込んだ。そういうことになった。
王家への反逆、兵士への傷害、神殿への冒涜。そして聖女の肉体と力を奪った女は、もはや人ではない。悪魔に奪われた聖女の身体を浄めるため、炎によってその魂を焼き払う。
火刑。
それが、王家の出した答えだった。
勇者アルノーたちは激しく反対した。軍部からも反対が相次いだ。
彼女をこの世界へ連れてきたのは王家である。従わないから悪魔だという理屈が通るはずがない。そもそもセイラの身体を勝手に利用した時点で、王子こそ聖女を冒涜している。
国王も王妃も、王子の行いが間違っていること自体は理解していた。しかし息子を止めなかった。若さゆえの過ちだ。聖女を愛するあまり判断を誤ったのだ。その言葉で、何度もレオナールを庇った。
勇者たちはそこで王家を見限った。軍の一部も同じだった。処刑を阻止するため、水面下で兵を動かした。同時に、王家を廃する計画が立てられ始めた。
しかし遅かった。王家は予定を早め、夜明けとともにユウカを牢から引き出し、王城前の大広場へ連行した。
両手足には聖女の力を封じるための聖具が取り付けられていた。胸にも、首にも、額にも。そして巨大な柱へ磔にされた。
広場には多くの市民が集められていた。悪魔の処刑を見るためだった。
ユウカは叫び続けていた。助けを求めているのではなかった。娘の名前を呼んでいた。
会いたい。
帰りたい。
ごめんね。
一人にしてごめんね。
ずっと大好きだよ。
それだけを何度も叫んだ。
やがて松明が投げ込まれ、足元の薪へ火が移り、炎が白いドレスへ届いた。
悲鳴が上がった。
しかしユウカは娘の名前を呼び続ける。喉が焼けても。髪が燃えても。皮膚が裂けても。声にならなくなるまで。
見物していた民衆の空気が変わり始めた。
悪魔が、あんなことを言うだろうか。子供を呼びながら死ぬ悪魔がいるのか。そもそも、あの女をここへ呼んだのは誰なのか。本当に悪魔なのは、どちらなのか。囁きは次第に広場全体へ広がっていった。
壇上にいたレオナールの顔が歪んだ。即座に王家の兵士たちは薪を追加し、油を注いだ。
早く焼け。悪魔の言葉を聞かせるな。その命令に、炎はさらに高くなった。
そこで何かが変わった。最初に気づいたのは、魔術師だった。
聖具が赤く光っていた。力を封じているのではなく溜め込んでいる。器の内側で、何かが膨れ続けている。魔王軍を滅ぼした聖女の力。異なる世界から引きずり出された母親の魂。そして、子供を奪われた怒り。それらが混ざり合い、もはや神聖力と呼べるものではなくなっていた。
聖具が一斉に割れ、その瞬間、炎が広場を覆った。
中心は全てを飲み込むような黒、その周囲を血のような赤が渦巻いている。火は風向きを無視し、建物から建物へ這い、壁を登り、石畳の上を走った。
勇者と軍部はただちに群衆を避難させた。それでも逃げ遅れた者は多かった。誰も炎を制御できなかったのだ。水をかければ増え、魔術をぶつければ広がった。神官が祈れば、その神官の足元から火柱が上がった。
そして炎は王城へ向かった。
懸命の消火活動の末、市街地を焼いた火は数日のうちに消えた。多くの家が失われ、多くの死者が出たが、それでも火は消えた。
王城だけを除いて。
石造りの壁も、鉄の門も、地下牢も。何もかもが赤黒い炎に包まれていた。
城内にいた兵や使用人の多くは炎に巻かれて死んだ。一方で、火の手が回る前に逃げ出した者や、辛うじて救出された者もいた。
だが、王家の三人だけは違った。
国王も。
王妃も。
王子も。
彼らが出口へ向かうたび、まるで意思を持つように炎が行く手を塞いだ。扉へ近づけば扉が燃え、窓から逃れようとすれば炎が壁となって立ちはだかる。どれほど城内を逃げ回っても、決して外へ出ることができない。
それなのに、死ぬこともできなかった。身体を焼かれ、皮膚が爛れ、煙を吸って倒れても、しばらくするとまた意識を取り戻す。そして再び熱さと痛みに耐えきれず、城内を逃げ惑う。何日経っても、炎の中から悲鳴が聞こえた。
助けてくれ。
熱い。
許してくれ。
殺してくれ。
誰か。
誰か。
王子の声だけは、とりわけ長く響いた。
軍が救出を試みたこともある。だが王城の門をくぐった兵士は、全身に火がついた状態で這い出してきた。炎は外へ出れば消えた。
それ以降、誰も近づかなくなった。
広場の処刑台も燃え続けていた。聖女の身体は、磔にされたままだった。炎の中に黒い人影が見える。水を浴びせても消えない。柱を倒そうとしても動かない。
アルノーは遠くから、炎の中に磔られたままの女を見つめた。
その身体が、かつて聖女セイラと呼ばれたものであることは分かっている。だが、もはやそれを聖女と呼ぶことはできなかった。
そこにいるのはユウカだ。
理不尽に命を奪われ、娘から引き離され、異なる世界へ連れてこられ、最後には再び命まで奪われた女。その魂が生み出したものが、今も炎の中に残っている。
しかし、それをただユウカと呼んでいいのかさえ、アルノーには分からない。
あまりにも深い悲しみと憎しみが、彼女自身を覆い尽くしていた。かつて魔王軍を滅ぼした聖女の力も、今や神聖力と呼べるものではない。
そこにはもう何一つ、聖なるものは残っていなかった。
王都は放棄された。
王城を中心とする一帯は壁で封鎖された。立ち入りを禁ずる。声を聞いても応えてはならない。人影を見ても近づいてはならない。そう定められた。
王家は実質的に滅び、勇者と軍部、各地の領主たちを中心として新しい国が作られた。王政そのものも廃された。人々は長い年月をかけて、新しい都市を築いた。やがて旧王都の炎は、昔話になっていった。
それから七年後。
アルノーは賢者ディルク、数名の兵士とともに旧王都を訪れた。封鎖区域の状態を確認するためだった。噂では、近頃は遠くから炎が見えなくなったという。実際、外壁を越えた先に火は見えなかった。
街は焼け落ちていた。道は灰に埋もれ、かつて家だったものが黒い骨のように並んでいる。それでも空気には焦げ臭さが残っていた。七年も経っているはずなのに、昨日まで燃えていたような臭いだった。
王城へ近づくにつれ、煙が濃くなる。
誰かの声が聞こえた気がして、アルノーたちは足を止めた。前方に人影があった。女と、子供だった。女は煤に汚れた白い服を着て、長い髪も灰にまみれていた。その横顔をアルノーは知っていた。
セイラ――
いや。
ユウカだった。
彼女は小さな女の子と手を繋いで歩いていた。五歳ほどに見えた。女の子は楽しそうに何かを話している。ユウカも笑っていた。
アルノーは動けなかった。
七年前、ユウカの娘は五歳だと聞いた。だが、そもそもユウカの娘はこの世界の人間ではない。存在していたとしても、この世界にいるはずのない子供だった。
あれは、なんだ。
そう思った。
その瞬間、別のものが見えた。道の両脇の人影。最初からそこにいたはずなのに、なぜかそれまで認識できなかった。
全身を焼かれた者たちが歩いていた。皮膚は黒く裂け、肉は赤く爛れ、ところどころ白い骨が覗いている。それでも生きていた。
国王だった。
王妃だった。
王子だった。
かつての王族たち。七年前から、ずっと、彼らは炎のない道を彷徨いながら、謝罪を繰り返していた。
許してくれ。
間違っていた。
もうしない。
殺してくれ。
お願いだ。
助けてくれ。
誰に向かって言っているのかは分からなかった。
小さな女の子が笑った。その声だけが、妙にはっきり聞こえた。アルノーは再びユウカたちの方を見た。彼女は立ち止まり、遠くからこちらを見ていた。
口元は笑っているようにも見えた。だが目は少しも笑っていなかった。怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
そして隣にいた女の子が、ゆっくりとこちらを向いた。顔が見えなかった。黒い穴のようなものだけがある。アルノーの隣で、兵士の一人が短い悲鳴を上げた。
次の瞬間、景色が変わった。
ユウカの白い服は焼け落ちていた。身体は、七年前の処刑台に残されていたものと同じように焼け爛れていた。片方の頬は崩れ、唇はなく、黒い歯が剥き出しになっていた。
手を繋いでいる女の子も焼けていた。
小さな手の骨を、ユウカは大切そうに握っていた。
それでも彼女は笑っていた。あるいは、泣いていた。アルノーには最後まで分からなかった。
彼女の焼けた喉から、声のようなものが出た。
「去れ」
アルノーたちは走った。振り返らなかった。
背後から王族たちの悲鳴が聞こえた。子供の笑い声が聞こえた。そして最後に、一人の女が何度も何度も、愛しい娘の名前を呼ぶ声が聞こえた。
封鎖区域は、その後さらに広げられた。
旧王都へ通じるすべての道が閉ざされ、地図からもその名が消された。
それでも時折、旧王都の近くまで迷い込む旅人がいる。
ある旅人も、その一人だった。
旧王都が呪われた土地であることは知っていた。かつて聖女の処刑をきっかけに王都が焼け、今もなお近づいてはならない場所として封鎖されていることも聞いていた。
だから、立ち入るつもりなどなかった。ただ街道を外れた丘の上から、焼け落ちた王城を眺めただけだった。
そこで、人影を見た。遠く、灰に覆われた道を二人の人間が歩いている。女と、小さな女の子か。母子なのだろう。二人は手を繋ぎ、ゆっくりと歩いていた。女の子が何かを話すたび、母親が顔を向ける。その様子はごく穏やかで、こんな場所には似つかわしくないほど仲睦まじく見えた。
旅人はしばらく二人を眺めていた。恐ろしいとは思わなかった。むしろ、哀れだった。あの炎で死んだ母子の亡霊なのだろう。離れることもできず、今もあの場所を彷徨っているのかもしれない。そう思い、静かにその場を離れた。
余計なことはしない。声もかけない。封鎖された土地には入らない。それが一番だ。丘を下り、街道へ戻った。
しばらく歩いたところで、不意に背後から声がした。
「ねえ」
子供の声だった。
旅人は足を止めた。こんな場所に子供がいるはずがない。そう思った時には、なぜかもう振り向いていた。
すぐ後ろに、少女のようなものが立っていた。旅人は声を上げることもできなかった。
先ほど遠くに見た母子の、その子供なのかどうかは分からない。それほど離れた場所から眺めただけで、顔までは見えていなかった。
それでも旅人は、なぜか同じものだと思った。ならば、母親はどこにいる。そう気づいて辺りを見回したが、母親らしき姿はどこにもない。
それの顔は、真っ黒だった。煤で汚れているのではない。目も、鼻も、口もない。顔があるべき場所だけが、焼け落ちた穴のように黒く沈んでいた。
その何もない顔を旅人へ向けて、それは尋ねた。
「あなたがお父さん?」
それを最後に、旅人は行方不明になった。




