陛下、勝てない理由がわかりました ~S級戦士とA級「ステータス画面」がいても、戦争だけが終わりません~
王国軍は、七戦七勝だった。
そして戦争は、八か月たっても終わっていなかった。
勝つのと終わるのは、どうやら別の仕事らしい。
「次のベルナ城も、三日で落とせます」
王都の戦時会議室で、S級戦士ガレスが言い切った。
大剣を背負った大男だ。先月は共和国最大の城門を、一撃で、立派に門ではないものにした。
城門は一撃。戦果報告書の提出は三日後。S級にも、得意不得意はある。
城攻めの三日という見積りにも根拠がある。彼は自信家だが、ほら吹きではない。
「偵察結果も一致しています」
A級偵察官が、宙に指を滑らせた。
青白い画面が、長机の上に開く。
【共和国第三方面軍】
兵力:52,410
補給:64
疲労:82
士気:96
降伏意向:3
会議室がざわめいた。
国王陛下が玉座の肘掛けを指で叩く。
「士気、九十六? 七度負けておいて、なぜ上がる」
「理由は表示できません」
偵察官の指が、画面の手前で止まった。
「なぜだ」
「この能力で読めるのは、兵力や補給など、軍の状態です。人の心を読む力はありません」
「士気の数字は正しいのか」
「そこは正確です」
偵察官は、静かに画面を閉じた。
私は末席で、画面と戦況表を見比べた。
ノア・サガラ、三十六歳。王国官房の中堅官僚。
剣も魔法も、ステータス画面もない。
国王臨席の会議に座れる程度には出世したが、末席は出入口に近い。国の中心より、逃げ道に近い地位である。
「これまでの死傷者は」
陛下が財務卿へ目を向けた。
「王国軍だけで一万二千人余り。戦費は、平時の国庫収入二年八か月分を超えました」
「共和国は」
「推定四万以上。ただし、昨夜も議会が追加動員を可決しております」
地図の青い駒が増えるたび、戦死者名簿の黒い文字も増えた。
負けるたび、兵が増える。
豆を投げるたび鬼が増える、たちの悪い節分みたいな話だ。
ガレスが地図の都市を指す。
「首都まで、残り四城。そこまで行けば、必ず折れます」
その言葉は信用できた。
問題は、六つ前の城を攻める時にも、同じことを聞いた気がすることだった。
陛下が、今度は私を見た。
「ノア」
「はい」
「お前は、運河通行税の紛争で、橋を一本増やして両部署の税収を上げたそうだな」
「橋を増やしたのは土木局です」
「兼用できると気づいたのはお前だ」
「会議で双方の悪口を三時間聞いただけです」
「それを意外な才という」
絶対に違う。
ただ、王命とは、異議申立て先のない依頼書である。
「今回も、何かないか」
地図の青い駒は、共和国の奥まで進んでいる。
その横に、戦死者の追加名簿があった。
「わかりません」
会議室の空気が、わずかに固まった。
参謀長が眉をひそめる。
「戦場を知らぬ文官に、聞くことではなかったのでは」
「おっしゃる通り、私は戦場を知りません。ですから、勝ち方には口を出しません」
私は、追加された戦死者名簿に手を置いた。
「調べるのは、なぜ七度勝っても終わらないかです」
陛下は急かさない。
本人は知らないが、弁護士の使い方が分かっている。良い依頼者だ。
「三日ください」
「何が要る」
「部屋を一つ。開戦からの戦況報告、捕虜調書、占領行政、徴発と支払、国庫支出、共和国へ出した通告の原本を、全部お願いします」
「兵は」
「要りません」
「魔導具は」
「明るいランプと、紙を結ぶ紐があれば」
「ならば、三日でやれ」
「陛下」
ガレスが苦笑した。
「私は三日で城を一つ落としますよ」
「私は三日で、まず資料を落とします」
笑ったのは陛下だけだった。
人望の違いが出た。
◇◇◇
資料は、部屋を一つ満杯にした。
弁護士の仕事は、法廷で格好よく異議を叫ぶことだと思われがちだ。
実際は、段ボール箱に入った書類を前に、「誰がこれを入れた」と聞く時間の方が長い。
この世界に段ボール箱はないが、箱に入った書類が人を困らせる点は同じだった。
探している原本ほど、写しの束の底で静かにしている。書類の慎ましさは、探していない時だけで十分だ。
私は紙を四つに分けた。
確認できた事実は青い紐。
誰かの評価や推測は黄色い紐。
原資料のない伝聞は赤い紐。
戦争目的と命令の変更は黒い紐。
「敵は狂信的」は黄。
「第七戦区の投降者数が、三か月で八分の一」は青。
「捕まれば殺されると共和国で言われている」は、本人と宣伝紙を確かめるまで赤。
最初の半日で、黄色い束がいちばん高くなった。
人間は、事実より評価の方をたくさん書く。色にすると、その癖がよく分かる。
束の高さで戦争が決まるなら、推測はとっくに大陸を統一していた。
偵察官が夜食を持ってきた。
盆を置く場所を探し、紙で埋まった机を見回す。
「夜食は、何色の紐で分類すれば?」
「食べた事実は青、味の評価は黄色です」
「赤でなくて安心しました」
彼はパンとスープを、青い紐の束の横へ置いた。
「士気の理由は、本当に見えないんですか」
「兵力、位置、補給、疲労、装備、士気、降伏意向。表示できるのはそこまでです」
「数字の理由は」
「見えません」
「不便ですね」
「チートを持っていない方に言われると、なかなか腹が立ちます」
初めて、偵察官が笑った。
「転生した時に、能力の説明は」
「その話はやめましょう」
私はパンをちぎった。
そういえば、私にも転生時の説明は一度だけあった。
転生前の、白い窓口だ。
「おめでとうございます。今期は珍しく営業成績がよくてですね」
ずれたとんがり帽子に、星柄のマント。目の下には、前世の私より深いクマがあった。
「申し遅れました。転生窓口で凡人枠を担当しております、ツクヨです」
ツクヨと名乗った男は、「MAGIC」と書いてある杖を片手に、書類をめくった。
「比較的安定した王国の、中流家庭枠が一つ空いております」
「神様にも、営業成績があるんですか」
「配属数と定着率で評価されます。世知辛い話はこの辺でやめましょう」
私は、この流れを知っていた。前世で異世界転生ライトノベルの著作権紛争を扱い、「白い空間で神から能力を授かるのは、ありふれた設定である」と書面に書いたことがある。
まさか、身をもって立証する日が来るとは。
日本であれほど流行っていたのは、帰還者が原作者に混じっていたからかもしれない。
「チートは」
「ございません」
「特別な身分は」
「中流家庭です」
「本当に安定していますね」
ツクヨは、ますます申し訳なさそうな顔をした。
「実務経験の持ち越しは可能です。弁護士として、どのようなご専門を?」
「離婚、相続、交通事故、借金、破産、労働、境界紛争。当番弁護も、ときどき」
「つまり、およそ世界を救いそうにない分野ですね」
「失礼な。依頼人を救ってきました。離婚も相続も、当人にはそれぞれ世界の終わりみたいな問題です」
「救われたと思っているかは、本人の主観によりますが」
ツクヨは初めて顔を上げた。
「小さい争いを、小さいうちに終わらせる人がいるから、国は安定するんです」
そう言って、彼は私の書類に「凡人枠」の判を押した。
彼の営業成績は、いまの王国を見る限り、少し過大評価だったかもしれない。
それでも、安定を取り戻す方法は、どこかにあるはずだった。
二日目の昼、黒い紐の束に、共和国への通告文が並んだ。
開戦時。国境砦の撤去と、旧境界への復帰。
二回目の勝利後。係争地全域の割譲と賠償金。
四回目の勝利後。共和国軍の武装解除と主要都市の占領。
七回目の勝利後。共和国議会の解散、政府の総辞職、無条件降伏。
勝つたび、戦争目的が大きくなる。
依頼人が有利になるたび、請求書の桁を増やしているようなものだ。まとまるものも、まとまらない。
軍には、敵を倒す担当がいた。
財務には、戦費を数える担当がいた。
外務には、要求文を書く担当がいた。
だが、相手がどの条件なら争いを終えられるかは、どの部署の担当欄にもなかった。
また、ある数字が目についた。
王国軍の補給量は、一度も基準を下回っていない。
いっぽう、占領地の徴発受領証は、六割が未払い。
物資は前線へ届いている。
その物資を出した家に、金が届いていない。
封筒の表には、赤い「至急」が五つ押されていた。
至急の印を何個重ねても、銀貨にはならない。
中立神殿は、両国の国境が引かれる前から街道沿いにある神殿網で、王にも共和国議会にも属さない。古い条約により、戦時の遺体返還と行方不明者照会を仲介できる。
開戦後も、中立神殿の早馬だけは両国の間を走っていた。戦死者名簿と遺体返還の照会は、その道で往復している。
連絡手段がないのではない。捕虜の安否と収容所の視察を、その道に載せる書式がなかった。
三日目の朝。
私は束ねた資料を持って、陛下のもとへ向かわなかった。
前線へ行く許可を求めた。
◇◇◇
「三日で終わらなかったか」
陛下が聞いた。
「資料は読み終えました。まだ、人を読んでいません」
陛下は少し考え、次の攻撃を私の帰還まで待つよう命じた。
「官僚を一人で行かせるわけにはいかない」
そう言って、陛下がつけた護衛は、ガレスだった。
護衛という言葉の定義が、国王と私でだいぶ違った。
普通の護衛は、襲撃を防ぐ。ガレスの場合、襲撃する側が予定そのものを見直す。
「私が前線を離れる価値が、その資料にあるのですか」
「あると思っています」
「思っている」
前世の職業は、公には伏せている。異世界の資格証を出せるわけでもなく、説明すれば話が長い。だが、同じ転生者のガレスとは、遠征の道中で互いの前世を話したことがあった。
「弁護士は、保証を求められたら、文章を長くする生き物です」
ガレスは、大剣の柄へ手を置いた。
「かなり腹の立つ物言いですね」
「前世でも言われました」
馬車は、前線へ続く道を走った。
王国側の道には、糧食と矢の荷車が途切れない。
補給は、たしかに成功していた。
国境を越えた途端、帰りの荷車とすれ違う。
空ではない。
壊れた荷車、泥のついた農具、担架を載せた荷車。
勝利には、帰り荷があった。
前線の野戦治療所で、私は兵士三人から話を聞いた。
「敵は強いですか」
そう聞くと、三人とも「強い」と答えた。
調書と同じだ。質問が雑なら、答えも雑になる。
「敵兵が武器を置くのは、どんな時ですか」
今度は、三人の答えが分かれた。
将校が倒れた時。
退路がある時。
捕虜を受け入れる声が、こちらから届いた時。
「では、置かなくなったのは、いつからですか」
三か月ほど前。
二つ前の都市を占領した頃。
逃走した捕虜が、収容所の話を共和国へ持ち帰った後。
「最近は、何と叫んでいますか」
「『生きて捕まるな』」
三人のうち、包帯を巻いた若い兵が答えた。
「前は『共和国万歳』でした。あれなら、威勢のいい話です。今は違う」
兵は手を見た。
「降伏しても生きて帰れないと、あちらは思っています」
ガレスの顔から、苦笑が消えた。
占領地の市場では、一人の女主人が、徴発受領証の束を見せた。
「麦、ヤギ、荷車の車輪。払うと書いてある」
「換金所は」
「王国軍が進むたび、遠くなった」
女主人は紙の端を、指で弾いた。
「この紙をヤギに食べさせれば、少しは元が取れるかしら」
「ヤギは」
「あなたたちが連れて行ったわ」
返す言葉がなかった。
息子は共和国軍へ志願したという。
補給画面には、麦が届いたことだけが表示される。
ヤギを失った家から、翌月敵兵が一人増えたことは、どこにも出ない。
捕虜収容所は、占領した古い織物工場を転用していた。
窓の半分が割れ、夏の雨が吹き込んでいる。
戸口で渡された捕虜調書には、同じ言葉が並んでいた。
王制への敵意。
共和制への狂信。
改悛なし。
調書だけ読むと、収容されているのは、人間ではなく同じ文章の写しだった。
収容所長は、紙の束より疲れた顔をしていた。
「食料費は開設時のまま。捕虜は五倍。薬は軍優先です」
「本国へ増額を求めましたか」
「七回。回答は『戦況を見て善処』です」
善処。
これも前世から生き延びている、何も約束しない言葉だった。
所長は窓の紙張りと、水で薄めたスープを見た。
「良くないのは、分かっています」
「悪意ではない、と?」
「悪意でなければ、腹が膨れるのですか」
所長の声に、疲労と怒りが混じった。
「悪意がないことと、ひどい結果になっていることは、両立します」
私は、所長の七通の増額申請を借りた。
窓の奥で、足を引きずった男が、簡素な椅子に座っていた。
元教師、エミル。予備役の小隊長。
左脚の傷が悪化し、今は杖がなければ歩けない。
「王都から来た官僚だ」
所長が紹介すると、エミルは笑った。
歓迎の笑いではない。
「今度は、何を改悛しろと?」
私は、彼の捕虜調書を開いた。
「『王制国家には屈しない。共和国万歳』。あなたは、これだけ言ったことになっています」
「そう言った」
「その前に何を聞かれました」
エミルの目が、わずかに動いた。
「『王にひざまずく喜びを、今なら学べる』と」
「質問ではありませんね」
「では何だ」
「喧嘩の開廷通知です」
エミルの口元が、ほんの少しゆるんだ。
初めて、調書の文言ではない、彼自身の表情が見えた。
「私は、あなたが王制を好きかどうかに、それほど興味がありません」
「官僚の言葉としては、かなり危険だな」
「キャリアに影響するので、調書には残さないでください」
「官僚らしくなった」
「でも、王制そのものは嫌いではありません。機嫌を考える相手が一人で済みますから」
「いまので、さらに危険になったぞ」
「陛下は話の通じる方です。以前の仕事では、自分を国王だと思っている依頼人が何人もいました」
「何の仕事だ」
「それこそ、調書には残せません」
収容所長まで、小さく息を漏らした。
笑いが一つあると、次の言葉の通り道ができる。
街弁の仕事で、よく学んだことだ。
「あなたが知っている共和国軍は、王国の降伏勧告をどう受け取っていますか」
「勧告?」
エミルは声を上げた。
「議会を解散し、役人を追放し、武器と土地と金を全部差し出せという。あれは勧告ではない」
「私も、似た感想です」
「お前たちは、武器を置けと言いながら、武器を置いた者を飢えさせている」
エミルは、水で薄めたスープを指した。
「家族に、生きていると知らせる紙さえない。故郷では、捕虜は死者と同じだ」
彼の弟は、別の収容所から逃げていた。
弟が持ち帰った飢えと病気の話で、故郷の志願兵は増えた。
「お前たちは強い。それは認める」
エミルはガレスを見た。
「戦えば死ぬかもしれない。降伏すれば、国と家族を失った上で、ゆっくり飢える。どちらを選ぶ」
「戦う」
答えたのは、ガレスだった。
その声には、もう怒りがなかった。
「なら、何が保証されれば、あなたは部下に停戦を勧められますか」
エミルの目がまた細くなった。
「今度は、降伏させる方法を、捕虜に教えろと?」
「いいえ。信じられる約束の作り方を、教えてください」
「王を信じろと?」
「信じなくて結構です」
エミルが黙る。
「人を信じられない日のために、契約書はあるんです」
前世で、何度も言った言葉だった。
エミルは長く考えた。
それから、ひとつずつ挙げた。
共和国の議会と選挙を残す。
降伏した兵を殺さず、飢えさせない。
捕虜の氏名、所属、健康を記録する。
本人が望むなら、家族へ安否を知らせる。
重傷者は、両国で交換する。
占領地の徴発には、紙でなく金を払う。
収容所は、中立神殿の視察を受け入れる。
「共和国側の収容所もです」
エミルが言った。
「我々も、お前たちの捕虜を適正に扱っているとは限らない」
「相互条件にします」
彼は、そこで初めてスープを一口飲んだ。
「それでも、議会の強硬派は罵る」
「王国側にも、私を罵る人はいます」
「安心した」
エミルは、初めてちゃんと笑った。
帰りの馬車で、ガレスが言った。
「これで、勝てない理由は分かったのですか」
「いいえ」
「まだ?」
「分かったのは、敵が降伏できない理由です」
私は黒い紐の束を持ち上げた。
「勝てない理由は、勝つたびに『まだ取れる』と、戦争の終わりを遠ざけたことです」
「捕虜に、王国の戦争の終わらせ方を聞いたのですか」
「王国側の担当欄が、空白でしたから」
「それは、自慢になりませんね」
「報告書にも、そう書きます」
◇◇◇
王都へ戻った日の夕方、戦時会議が開かれた。
地図の青い駒は、最初の会議と同じ場所にある。
初めて、王国軍は新しい城を落とす前に、一人の官僚の報告を待った。
国王陛下が、玉座から私を見下ろした。
「ノア。分かったか」
「はい」
私は長机の上に、三つのものを置いた。
一枚目。未使用の捕虜安否札。
二枚目。代金の払われていない徴発受領証。
三枚目。「無条件降伏」と書かれた最後通牒。
どれも、ガレスなら片手で破れる紙だ。だが、いま王国で最も重い三枚だった。
「陛下、勝てない理由がわかりました」
陛下の眉が動いた。
「我々は、七戦七勝だ」
「陛下。戦いの勝ち負けは、誰が決めると思われますか」
「勝った方だ」
「いいえ。少なくとも、ここまで片方が勝ち続けた戦争では、負けている方です」
陛下の目が細くなった。
私は、地図の青い駒と赤い駒の間へ、まだインクのついていない羽根ペンを置いた。
「一度の会戦の勝敗は、我々が決められます。ですが、戦争を終える鍵は共和国が握っています。こちらが勝利を宣言しても、相手が武器を置かなければ、次の会戦が始まるからです」
「我々は、武器を置いた後に失うものを、戦い続けて失うものより大きくしてしまいました。だから共和国は、負けながら戦い続けているのです」
「降伏するまで、勝ち続ければよい」
「できます」
財務卿が顔を上げた。
私は、首都攻略までに見込まれる死傷者、占領統治に必要な兵、四か月後の国庫残高、共和国の追加動員を並べた。
「その場合、確かに首都は取れます」
次の紙を置く。
「最後に、共和国に残るのは死者の山と荒れた土地。王国に残るのは空の国庫と、陛下を恨む遺族です」
誰も口を開かなかった。
「共和国の遺族は、次の戦争を用意します。王国の遺族は、この戦争を終わらせなかった者を問います」
陛下の指が、肘掛けから離れた。
「では、どうする」
「武器を置いても生きられると、行動で示します」
私は安否札を指した。
「捕虜の氏名、所属、健康を登録します。本人が望む場合だけ、家族へ安否を知らせる」
受領証を指す。
「占領地の徴発には、代金を払う。この紙が本当に銀貨へ変わると示す」
最後通牒を裏返す。
「共和国の議会と選挙は残す。市民への集団処罰を行わない。無条件降伏という文言を撤回する」
「捕虜待遇の改善は、武器を置かせるための芝居ではありません。停戦が失敗しても続けます。だから、中立神殿の視察を受け入れます」
黒い紐の束から、一枚だけ抜いた。
「最も遠い二都市から撤兵し、三十日、攻勢を停止。浮く輸送、攻城、占領費を、自国の負傷兵と遺族、捕虜待遇、徴発支払へ回します」
ガレスが、すぐに手を上げた。
「捕虜に食料と薬を使うなら、自国の負傷兵へ」
「どちらにも使います」
予算表を、彼の前へ滑らせた。
「攻勢停止で浮く額の四割を自国兵の治療、二割を遺族給付、二割を捕虜待遇、二割を徴発支払へ」
「敵の元気を取り戻させて、再び戦わせるのか」
「それ以外の捕虜は、停戦まで引き続き収容します。先行送還は、重傷者と重病者の相互交換に限る」
ガレスは、予算表に目を落とした。
「王国兵も、帰ってくるのですか」
「相互条件です」
それきり、彼は反対しなかった。
参謀長が問う。
「攻勢を止めれば、弱くなったと見られる」
「防御線と補給は維持します。ガレスと偵察能力も、失われません」
「攻勢を止めることと、弱くなることは別です。こちらの方が強いんです。だから、攻めずに守りながら、相手の出方を確かめられます」
偵察官がうなずいた。
「約束を、敵が信じるとは思えん」
今度は外務卿。
「信じてもらう必要はありません」
私は、予定表を出した。
「三日以内に捕虜登録を開始。五日以内に安否札の第一便を、既存の中立神殿経路へ載せます」
予定表の後半を指した。
「七日目に収容所視察。十日目に重傷者交換。占領地の支払窓口は、明日開きます」
「信用を求めず、確認させるのか」
「はい」
そこで、国王陛下が言った。
「成功すると保証できるか」
「できません」
いまのは、チート持ちでも少し言いにくい返事だと思う。
「以前の仕事で、和解を百件以上扱いました。『必ずまとまる』と言う人は、たいてい後の言い訳も上手でした」
陛下の口元が、わずかに動いた。
「最悪は」
「共和国が三十日を再編に使い、攻撃してくることです」
「ならば、危険ではないか」
「だから防御線は維持します。偵察画面で大規模な兵力移動を監視し、越境攻撃があれば停止措置を解除します」
私は、地図の防御線を指でなぞった。
「攻勢を止めるのであって、備えを解くのではありません」
「相手から回答がなければ」
「三十日後に、改めて判断します」
「最善は」
「誰かの家の玄関を、訃報ではなく、帰ってきた家族が叩きます」
会議室が静まった。
陛下は地図を見た。
七つの勝利の印。四つ残った城。一万二千人を超える死傷者。
「攻勢を、三十日止める」
王が命じた。
「最も遠い二都市から撤兵。防御線は維持しろ。捕虜登録、負傷者交換、徴発支払を始める」
王の目が、私に戻る。
「条文は、お前が書け」
参謀長が、私を見た。
「戦場を知らぬ文官、と言ったことは撤回する」
「議事録に残しておきます」
「そこまでは頼んでいない」
「口頭だけの撤回は、あとで争いになりますので」
書類の穴を指摘した者が、その書類の担当者になる。
前世から変わらない、とても強い法則だった。
「承知しました」
◇◇◇
翌日、占領地の登録所に、新しい看板が掛かった。
捕虜安否・徴発支払・行方不明者照会窓口。
「長くないですか」
ガレスが言った。
「全部やると、看板は長くなります」
彼は前線攻略から、重傷捕虜交換の護衛へ回されていた。
城門を落とす力で、今は箱の封印を守っている。
「この安否札は、なぜ三部一組なんです」
「一部は家族へ。一部は中立神殿へ。一部は記録保管です」
「一枚ではだめですか」
「一枚目は失くなり、二枚目は見ていないと言われ、三枚目が国を救います」
ガレスは、三枚の紙を並べた。
「城門の方が簡単ですね」
「城門は、三部になって逃げませんからね」
捕虜は、本人が望んだ場合だけ、安否札を書いた。
「王国によくしてもらっている」などと書く必要はない。
生きている。
負傷した足は治療中。
家族の名前。
それだけでいい。
エミルは、原本を一枚書いた。
宛先を書く手が、一度だけ止まった。
「これは、本当に届くのか」
「届ける人と、届いたかを確認する人を分けました」
「お前は、人を信じないな」
「信じたいから、確かめるんです」
書記官が二部を写し、三部を読み合わせた。エミルが三部すべてに署名し、作成者と確認者がそれぞれ印を押す。
エミルは、確認を終えた安否札一組を差し出した。
七日目。
中立神殿が、王国側の収容所を視察した。
九日目。
共和国も、王国捕虜の氏名と健康記録を開示した。そちらの収容所にも食料不足があることを認め、相互視察を受け入れた。
十日目。
国境の古い石橋で、重傷者交換が行われた。
エミルは杖をつき、共和国側へ戻る列にいた。
ガレスが、交換の護衛として立っている。
橋の反対側から、王国兵の列が近づいてきた。
車椅子に座った若い兵が、ガレスを見つけた。
「隊長」
ガレスの肩が、ぴくりと動いた。
亡くした副官と同じ隊の兵士だった。
「お前、生きていたのか」
「そのようです」
若い兵が、やせた顔で笑った。
ガレスは、大剣の柄から手を離した。
両手で、車椅子の取っ手を握った。
「帰るぞ」
それだけ言った。
エミルとすれ違う。
二人は目を合わせたが、声をかけなかった。
敬礼も、握手もしない。
二人とも、自分の国の方向へ歩いた。
交換が終わると、共和国の使節が白い縁の旗を掲げた。
降伏旗ではない。停戦使節の旗だった。
「王国の提案について、確認したいことがある」
使節は、三枚の紙を差し出した。
共和国議会は存続するか。
占領地の徴発支払は、どの範囲まで行うか。
捕虜名簿の相互確認は、誰が立ち会うか。
共和国の降伏意向ではない。
停戦条件への質問だった。
けれど、弁護士にとって、質問が来るのは悪い反応ではない。
質問は関心の証だ。ときには、同意へ向かう最初の道しるべになる。
読まずに破るつもりの文書に、人は質問をしない。
「三部一組か」
ガレスが言った。
「後ろに五部の回答案を積んでいます」
「城門を落としていた頃の方が、荷物が軽かった」
「あちらも、今は武器を置いています」
ガレスは、それ以上文句を言わなかった。
受け取った質問書の端を、折れないように揃えた。
◇◇◇
三十日目。
同じ石橋に、両国の使節が座った。
王国は、共和国の政体に介入しない。
共和国は、係争地に建てた新砦の運用を停止する。
双方は占領地から段階的に撤兵する。
係争地は三年間、双方と地元住民の代表による共同管理とする。
二本の川の流路と古い条約文を共同調査し、恒久境界は中立都市の仲裁で決める。
登録済みの捕虜は、名簿を照合した後、段階的に交換する。
捕虜待遇、徴発支払、中立神殿の相互視察も、三十日前の提案を双方の義務として条文化する。個人の責任は調査するが、市民への集団処罰は行わない。
どちらも、完全勝利とは書かなかった。
両国の使節が、同じ羽根ペンで署名した。
共和国の使節がペンを置き、私を見た。
「ノア殿。共和国は、王国を信じたから署名したのではない」
「承知しています」
「信じなくても、約束が破られれば名簿と中立神殿が証明する。だから署名できた」
隣で、ガレスが小声になった。
「いまのは、褒められたのですか」
「私には、ほぼ満点です」
署名の直後、偵察官が久しぶりに共和国軍の画面を開いた。
【士気:91】
【降伏意向:3】
【装備:整備済み】
【位置:全部隊、停戦線の共和国側】
「士気は九十一。降伏意向も三のままだぞ」
国王の使節が画面をのぞき込んだ。
「共和国は降伏していません。停戦したんです。国を守る気まで消える方が困ります」
「停戦を守る意思は、読めるか」
偵察官は、首を横に振った。
「意思は読めません。ただし、全部隊が停戦線の共和国側にいることは分かります。越境すれば、すぐに分かる」
「それで十分です。信じる代わりに、行動を確かめます」
「それなら、私の能力の範囲です」
偵察官は画面を閉じた。
三十日間、広げられたままだった地図を、初めて畳むことができた。
◇◇◇
停戦協定から五日後、段階的な捕虜交換の第一陣が王都へ到着した。
広場では、帰還兵の名前が読み上げられた。十日目の先行交換で戻った重傷者も、この日の式へ招かれていた。
戦勝の鐘は鳴らない。
代わりに、一人ずつの名前が鳴った。
歩ける者。
杖をつく者。
家族の肩を借りる者。
幼い子を抱き上げた途端、ふらついて笑われた者。
広場の端で、国王陛下がその光景を見ていた。
「ノア」
「はい」
「我々は、勝ったのか」
私は、広場で名前を呼ばれる兵士たちを見た。
「戦争は、終わりました」
陛下は、少しだけ笑った。
「褒美を取らせる。何がいい」
「三日ほど、書類のない部屋を」
「無理だ」
即答だった。
「明日付で、停戦履行室の室長に任ずる」
「私の希望と逆です」
「褒美と処遇は、必ずしも一致しない」
王命とは、やはり異議申立て先のない依頼書だった。
広場の中央で、ガレスが、あの若い兵士の車椅子を押している。
「お父さん!」
人垣から、小さな女の子が飛び出した。
若い兵士は返事をしようとして、何度も口を開いた。声の代わりに両腕を広げる。女の子がその胸へ飛び込むと、ガレスは車椅子の取っ手から、そっと手を離した。
城門を壊した時より、ずっと慎重な手つきだった。
偵察官は、帰還者の数を画面に出した。それから、珍しくその画面を閉じた。
今日は数える必要がない。
家族が、一人ずつ名前を呼んでいたからだ。
兵力でも、捕虜番号でもない。父として、息子として、友として。
七つの勝利では帰せなかった兵士たちを、一度の停戦が、家へ帰した。
(了)
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戦争に限らず、紛争は、優勢な側だけでは終えられません。追い詰められた側が拒み続ければ、勝っている側ほど出口を失うことがあります。ときには譲ることで守れるものを増やす、「負けて勝つ」という終わらせ方もある。そんな人の争いの妙を、チート転生ものと組み合わせました。
戦争を扱うライトノベルは数多くありますが、本作では軍略よりも、「人同士の争いは、どうすれば終わるのか」に焦点を置いています。
凡人枠シリーズの、前世街弁の王国官僚編です。チートで敵を倒す話ではなく、強い味方が勝ちすぎた戦争に、相手が武器を置ける条件を作る話でした。
「凡人枠シリーズ」は、チートに選ばれなかった転生者が、前世のまっとうな仕事で、チートが壊した世界を直していく一話完結の作品群です。どの作品からでもお読みいただけます。




