第7話「見えないものこそ本質である(サン=テグジュペリ)」
呼び出しがあったのは、六月の第二週に入った月曜日だった。
端末に通知が届いたのは、培育棟の機器点検を終えて廊下を歩いているときだった。画面を開くと、久世からのメッセージだった。「本日の午後、施設長室へ来てください」とだけ書かれていた。
施設長室に呼ばれるのは初めてだった。
久世が施設長室を使うのは、外部からの来客があるときか、正式な面談のときだと聞いていた。栄司はメッセージを二度読んでから、端末をポケットに戻した。廊下の先に、培育棟のガラス壁が見えた。その向こうに、ユナの部屋がある。
心当たりは、一つしかなかった。
施設長室は管理棟の三階にある。栄司が扉をノックしたのは、午後二時ちょうどだった。
「どうぞ」
久世の声がした。入ると、久世は窓を背にして椅子に座っていた。窓の外には施設の庭が見えて、手入れの行き届いた木が、今日は風に揺れていた。部屋は広く、壁沿いに書棚が並んでいた。施設長の表札が机の端にあったが、その机を今は久世が使っていた。
「座ってください」
栄司は指定された椅子に腰を下ろした。テーブルを挟んで向かい合う形になった。久世はすぐには話し始めなかった。ファイルを一度開いて、また閉じた。その間が、言葉を選んでいる時間だということは、もう栄司にも少しわかってきていた。
「先日の話の延長になります」と久世は言った。「少し踏み込んだ話をしますが、よいですか」
「はい」
「ユナの観察補助に入っていただく中で、相良くんが何かを感じ取っているらしい、ということは、橘さんの報告からも、私との会話からも、見えてきています」
栄司は黙って聞いていた。
「一つ、確認させてください」と久世は続けた。「ユナと同じ空間にいるとき、何か特別なことを感じますか。たとえば、彼女の感情状態が言葉なしに伝わってくる、というようなことが」
栄司は久世の目を見た。穏やかな目だった。試しているわけではない、という空気があった。ただ、知りたがっている目だった。
「……あります」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「どういう形で、ですか」
「うまく説明できません。ただ、ユナが何かを感じているとき、それが自分の中にも入ってくる感触があります。言葉ではなく、直接、という感じで」
「それはユナだけですか」
栄司は少し考えた。
「今のところ、ユナのときが最も強いです。他の設計児でも、ごく薄く感じることはあります。ただ、ユナのときははっきりしています」
久世はメモを取らなかった。ただ、聞いていた。
「いつ頃からですか」
「初めてユナの観察補助に入ったときから、だと思います。最初は気のせいだと思っていました。でも、回数を重ねるうちに、そうではないと思い始めました」
「橘さんには話しましたか」
「話していません。信じてもらえるかわからなかったので」
「私には話せましたね」
栄司は少し黙った。
「久世さんが、聞こうとしていたからだと思います」
久世は小さく頷いた。
「正直に話してくれてありがとうございます」と久世は言った。「これは責めているわけではありません。ただ、私が知っておく必要がある情報だと判断しました」
「どうしてですか」
「相良くんが感じていることが、もし感情同期に近いものであれば、それは施設として把握すべき適性です。有用な適性として、業務に組み込む可能性を検討したいと思っています」
業務に組み込む。
その言葉が、栄司の胸の中で少し変な形に落ちた。
「具体的には、どういうことですか」
「ユナの観察補助を、これまでより高い頻度で行っていただきたいと思っています。記録の内容も、数値だけでなく、相良くんが感じ取ったことを言語化したものを加えてもらえると助かります。感情制御型の設計児の内部状態を外部の人間が感知できるとすれば、それは評価指標として非常に価値があります」
栄司は久世を見た。
「ユナのためになりますか」
久世は一拍置いた。
「ユナの状態をより正確に把握できれば、彼女にとっても適切な対応が可能になります。そういう意味では、なります」
答えは正しかった。正しかったのに、何かが引っかかった。
「わかりました」と栄司は言った。「やってみます」
翌日から、栄司がユナのもとへ行く回数が増えた。
午前に一度、午後に一度。それが週の初めの標準になった。橘は特に何も言わなかった。久世からの指示が既に伝わっているのか、それとも知っていて黙っているのか、栄司には判断できなかった。
ユナは変わらず落ち着いていた。
机に向かって課題をこなし、問われれば答え、問われなければ静かにしている。その様子は、外から見る限り以前と変わらなかった。ただ、栄司が同じ空間に入ると、何かが動いた。
最初の日の午前、栄司が観察室の椅子に座ると、ユナは課題から目を上げた。
「また来たんですね」
「うん。しばらく頻繁に来ることになった」
「なんで」
「上からそう言われた」
ユナは少し考えるような顔をした。
「私のことを、もっと調べるんですか」
「観察が仕事だから、そういう言い方もできる」
「でも、前と違う感じがします」
栄司は少し驚いた。
「何が違う感じがする」
「前は、来るとき少し緊張してた。今は、緊張してない」
栄司は自分の状態を確認した。確かに、緊張はなかった。それが何を意味するのか、うまく言えなかった。
「そうかもしれない」
ユナは頷いて、また課題に戻った。
三日目の午後、ユナが課題を終えて手を止めたとき、栄司は何かが変わったのを感じた。
感触というより、空気の質が変わった、という感じだった。ユナの肩が少し落ちて、視線が机の上の一点に止まった。何かを考えているのか、何かを感じているのか、外からはわからなかった。
でも栄司には、届いた。
重さ、だった。言葉にするとそうなる。ユナの中に何か重いものがあって、それが少しだけ外に滲み出てきた、という感触だった。
「ユナ」
「はい」
「今、何か感じてる?」
ユナは少し間を置いた。
「わからないです」
「わからない?」
「感じているのはわかります。でも、それが何かはわからない」
久世が言った言葉が、栄司の頭をよぎった。『感情認識プロセスの一段階。恐怖の存在を認識し、次にその対象を特定していく。』
だが今ユナが感じているのは、恐怖ではなかった。少なくとも、栄司に届いたものは恐怖ではなかった。
「重い感じがする?」
ユナは少し目を細めた。
「……そうかもしれないです。どうしてわかるんですか」
「なんとなく」
ユナはしばらく栄司を見ていた。子どもが何かを見定めるときの、まっすぐな目だった。
「相良さんは、変な人ですね」
「そう?」
「普通の人は、私が何を感じているか聞かないです。数字を見て、記録して、帰ります。相良さんは聞く」
「聞いたほうがいいと思うから」
「なんで」
栄司は少し考えた。
「言葉にできることがあれば、言葉にしたほうがいいと思うから。できなくても、聞かれることで何かが変わることがある」
ユナはしばらく黙っていた。窓の外に目を向けて、また栄司を見た。
「相良さんには、私のことがよく届くんですか」
「そうかもしれない」
「なんで私だけ」
「わからない。でも、ユナのときが一番はっきりしてる」
ユナはしばらく考えていた。
「それって、私が特別だということですか。それとも、相良さんが特別だということですか」
栄司は答えられなかった。
どちらでもあるような気がした。どちらでもないような気もした。
「まだわからない」
「そうですか」
ユナは頷いて、また窓の外に目を向けた。
ガラスの向こうで、光が少し傾いていた。午後の終わりに近い色だった。ユナはその光を、しばらくじっと見ていた。栄司も黙ってそれを見ていた。
言葉のない時間が、しばらく続いた。
その沈黙の中で、栄司は何かを感じていた。重さではなかった。もっと静かなものだった。ユナが今ここにいて、窓の外を見ていて、光の中に何かを探している。その感触が、栄司の胸の中に、ゆっくりと届いていた。
これを記録に書けるか、と栄司は思った。
書けない、と思った。書いてはいけない、とも思った。それが正しい判断かどうかは、わからなかった。ただ、今この瞬間を報告書の素材として見ることが、自分にはできなかった。
その日の帰り道、栄司は端末を開いて、記録の下書きを作ろうとした。
『本日の観察において、対象者は課題終了後に一時的な感情の変化を示した。外部からの言語的介入に対して応答し——』
そこで止まった。
書けなかった。
ユナが「なんで私だけ」と聞いたときの顔が、頭の中に残っていた。答えを求めているのではなく、ただ聞いてみた、という顔だった。それでも、問いはそこにあった。
久世は「感じ取ったことを言語化してほしい」と言った。有用な適性として組み込む、と言った。
栄司は今、ユナの感情を感知できる。それは確かだ。だが、感知したものを施設に渡すことと、感知したものをユナとの間で持ち続けることは、同じではない。
地下鉄の駅に着いた。改札を通りながら、栄司はサン=テグジュペリの言葉を思い出した。子どもの頃に読んだ薄い本の中にあった言葉だ。正確な文脈は覚えていないが、一つだけ残っている。
大切なものは目に見えない。
それを「見えないものこそ本質だ」と言い換えた人がいると、どこかで読んだ気がした。
数字は見える。記録は見える。評価は見える。
ユナが感じていること、あの沈黙の中で光を見ていたこと、栄司に届いたあの静かなもの——それは見えない。
見えないものを、栄司は今、感知できる。
その能力が有用だと言われた。業務に組み込まれた。
それは正しいことなのか、と問うより先に、栄司は別のことを考えていた。
見えないものを感知できるなら、それを報告書に書いて渡すだけでいいのか。
ユナが窓の外を見ていた。光の中に何かを探していた。それは本物だった。設計通りかもしれない。感情認識プロセスの一段階かもしれない。でも、本物だった。
本物のものに、自分はどう向き合うのか。
電車が来た。栄司は乗り込んで、窓際の席に座った。車窓に自分の顔が映っていた。
答えはまだなかった。ただ、問いの形が、少しずつ変わってきていた。
以前は「何もしないことも選択だ」という問いだった。
今日からは「感知できるなら、それをどう使うのか」という問いになった。
それが前進なのか後退なのか、栄司にはわからなかった。でも、問いが変わったことは確かだった。
電車が動き出した。車窓の景色が流れていった。
ユナはまだ施設にいる。来月の第一週まで、あと二週間ほどある。
その間に何かが変わるのか、何も変わらないのか。
栄司はまだ、答えを持っていなかった。




