冷えた手を、離せなかった
男が私の前に膝をついたのは、夕暮れの路地裏だった。
石畳の隙間から雑草が伸び、干した洗濯物が風に揺れる、帝都の外れの細い路地。昼間は行商人や物乞いで賑わうこの場所も、浄化所の鐘が鳴り始める夕刻になると、人の気配がすうっと消える。みんな知っているのだ。夜の巡回が始まる前に、家の中に隠れなければならないことを。
その男だけが、まるで時間を忘れたように、私の足元に膝をついていた。
「頼む」
くぐもった声だった。フードを目深に被っているせいで顔は見えないが、声は若い。私と同じか、少し上くらいだろうか。
「妻の記憶を——返してくれ」
私は素早く路地の両端を見渡した。白衣の影はない。密告者らしき人物も見当たらない。それでも心臓は跳ね上がっていた。
この帝国では、消えた記憶を求めることは反逆罪と同義だ。
感情浄化の術式——初代皇帝が全国民に施した呪い。強い感情を伴う記憶は時間とともに霧になって消える。悲しみも、憎しみも、そして愛も。帝国はそれを「平和のための恩恵」と呼ぶ。消えた記憶を取り戻そうとする行為は、その恩恵を拒絶する罪だと言う。
「人違いよ」
私は努めて平坦な声で言った。視線は男に向けず、路地の出口に固定したまま。
「私はただの古物商。記憶なんて扱わない」
「嘘だ」
男が顔を上げた。フードの奥の目が、赤かった。泣いていたのか——それとも、もう泣き方さえ忘れてしまったのか。術式に感情の記憶を少しずつ削られると、人は泣けなくなる。目だけが赤くなって、涙の出し方を思い出せなくなる。
私はその目を、何度も見てきた。
「あなただけだと聞きました」男の声が震えた。「この街で——消えた記憶に触れられるのは、あなただけだと」
沈黙が落ちた。
遠くで浄化所の鐘が鳴った。一度、二度。夜の巡回開始まで、あと半刻。
「……………」
断れ。
関わるな。
この男の事情は、私には関係ない。
記憶に触れるたびに、他人の感情が濁流のように流れ込んでくる。喜びも絶望も怒りも、全部。制御できなくなることがある。だから私はずっと、一人でいることを選んできた。感情を持つことが罪とされるこの帝国で、消えるはずの感情を全部抱えたまま生きている私は——関わった人間を、いつか傷つける。
それがわかっているから。
「妻は三ヶ月前に浄化所に連れて行かれました」
男の声が、続いた。
「戻ってきたとき、妻は笑っていた。穏やかに、きれいに笑っていた。でも——」
男は両手を見つめた。節くれだった、働き者の手だった。
「私の顔を見ても、何も感じないんです。十二年間、一緒にいたのに。私が誰かも、わかっているはずなのに。ただ——何も、ない」
”強制浄化”。
帝国が「危険思想の持ち主」と判断した人間に行う、記憶の強制消去。感情に関わる記憶を根こそぎ削り取る。術式が効かない私には想像するしかないが——きっと、本人には何も残らない。愛した記憶も、愛された記憶も。
「妻が笑うたびに」男は絞り出すように言った。「私のことを他人を見る目で見るたびに——私は、どうすれば」
断れ。
関わるな。
私の中の、冷静な部分がそう言い続けていた。
なのに気づいたとき、私は男の震える手を——両手で、包んでいた。
冷たかった。石畳の冷気を吸い込んだみたいに、芯まで冷えていた。
「……場所を変えましょう」
我ながら、馬鹿だと思った。
「話を、聞かせて」
男が顔を上げた。赤い目が、わずかに揺れた。
浄化所の鐘が、また鳴った。今度は三度。
私たちは立ち上がり、夜の帳が降りる前の路地を、並んで歩き始めた。
これが始まりだった。
記憶を売ることで生きてきた私が——初めて、記憶を守ることを選んだ夜。
そしてずっと後になって知ることになる。
あの男が路地裏で待っていたのは、偶然ではなかったということを。




