病室の窓辺
窓の外には、淡い春の光が差し込んでいた。
四月の午後。入院病棟の白いカーテンが、風に揺れて小さく音を立てる。乾いた花瓶の中で、昨日見舞い客が置いていったチューリップが、少し首を垂れていた。
老人――佐伯正一は、ベッドに身を横たえて窓の外を眺めていた。七十を過ぎた身体は思うように動かず、腕には点滴の管が通っている。それでも、眼だけはまだ澄んでいて、外の桜並木を追っていた。
「じいじ」
ドアが静かに開き、小学生の男の子が顔をのぞかせた。孫の拓真だ。ランドセルを背負ったまま、はにかむように病室へ入ってくる。その後ろに、娘――美香が控えていた。
「おお、拓真か。今日は早いな」
「学校、四時間で終わったんだよ」
「そうか、春は早く帰れるんだな」
正一の顔に、ふっと笑みが浮かぶ。拓真はベッドの横まで駆け寄ると、ランドセルを下ろして椅子に腰かけた。
「じいじ、外の桜、めっちゃ咲いてるよ。帰り道、花びらがいっぱい飛んできてさ」
「そうか……。わしも見たいもんだな」
正一は窓の外をじっと見つめる。確かに桜は咲いていたが、病室の窓から見えるのは校庭の端の木々だけ。満開の桜並木を歩く感覚は、想像するしかない。
「来週、校庭で花見やるんだ。弁当持ってさ」
「いいなあ。昔はな、美香もよく弁当を作ってくれたっけ」
話を振られた美香は、苦笑いを浮かべた。
「お父さん、あれは母さんが作ったんでしょ。私はつまみ食い専門だったじゃない」
「はは、そうだったか。……もう、母さんの作った弁当は食えんがな」
その言葉に、一瞬だけ病室の空気が沈む。三年前に妻を亡くして以来、正一は急に老け込んだ。家に残された弁当箱や食器はまだ棚にある。美香も触れられずにいた。
「じいじ、俺が作るよ」
「ん?」
「弁当! 料理、家庭科でやったんだ。卵焼きくらい作れるし」
拓真の真剣な表情に、正一は目を細めた。
「……そうか。お前が作ってくれるのか。そいつは楽しみだ」
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翌週。拓真は本当に弁当を作って持ってきた。
卵焼きは少し焦げていて、ウインナーも形が不揃いだ。けれど、その拙さがかえって愛おしかった。
「ほら、食べて」
「ありがとうな。……おお、これは……うまい!」
正一はゆっくりと口に運び、噛みしめる。懐かしい味がした。誰かのために作られた、あたたかな食事の味だ。
「ほんと? 焦げてない?」
「焦げててもいい。お前が作ったもんだ」
その声に、美香の目が潤んだ。
正一はかつて、厳格な父だった。家族に笑みを見せることは少なく、仕事一筋の背中を追いかけるしかなかった。だが今、孫に向ける眼差しは、柔らかく、温かい。
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病室の時間は、静かに積み重なっていった。
春が過ぎ、梅雨が来て、夏の蝉が鳴き始める。季節は移ろい、正一の身体は少しずつ細くなった。
ある日の午後。拓真が病室に駆け込んでくる。
「じいじ! 俺、リレーの選手に選ばれたんだ!」
「おお、それはすごいな」
「運動会で一番最後のアンカー! じいじに見せたかったな」
その言葉に、正一の胸が痛んだ。自分は運動会を見に行けない。グラウンドの声援も、孫の走る姿も、もう直接は見られない。
「……拓真。走るときはな、最後まで顔を上げて走れ。どんなに苦しくても、胸を張ってな」
「うん!」
拓真の瞳は輝いていた。その輝きが、正一には眩しかった。
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やがて秋。病院の庭のイチョウが黄色に染まった頃、正一は医師から「長くはない」と告げられる。
美香は泣いたが、正一は静かに受け入れた。
「じいじ、死ぬの?」
拓真が小さな声で尋ねた。
「……そうだな。けれど、死ぬってのは、いなくなることじゃない」
「え?」
「お前が笑って、走って、誰かを想って……そうやって生きてくれたら、わしはずっとお前の中にいる」
拓真はしばらく黙っていたが、やがて強くうなずいた。
「じゃあ俺、ずっと頑張るよ。じいじが笑って見てられるように」
その言葉に、正一の目から静かに涙がこぼれた。
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冬の初め。正一は最後の力を振り絞り、窓の外を見た。
外には初雪が舞っていた。白い結晶が空から舞い降り、窓に貼りついては溶けていく。
ベッドの傍らに座る拓真の手を、正一は弱々しく握った。
「じいじ?」
「……雪はな、真っ白だろう。お前の未来も、まだ真っ白だ。好きな色で、塗りなさい」
その声は次第に小さくなっていった。
病室の窓辺で、静かに、穏やかに――正一は息を引き取った。
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翌年の春。拓真は桜並木の下を駆け抜けていた。
風に舞う花びらの中、顔を上げて走る。
胸を張って、まっすぐに。
その姿を、春の空のどこかで――正一はきっと見ていた。
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