第2話 見える化ボード誕生
翌朝は風が強かった。夜の間に乾いた砂塵が石畳の目地にたまり、扉を開けるたびに白い粉が舞い上がる。
カルロスは、受付の机よりも先に、玄関脇の壁へとまっすぐ向かった。昨夜、文字を大きく描き直した板を抱えている。絵札は3種――剣は赤、盾は青、巻物は緑。下には短い文と、手で触れても判別できるよう浅い刻みを入れた。字の読めない者のためだ。さらに小ぶりの札を3枚追加した。〈提出の形〉――報告(書く)/実演(見せる)/記録(水晶)。
そして、1行を1番下に太字で。
〈撤退は敗北ではない。未定義の継続が敗北だ〉
打ち込みを手伝っていた若い雑役の少年が、板を離す前にそっと表面を撫でて言った。
「なんか、剣がほんとに熱い色してる」
「赤は、遠くからでも見える」
カルロスが返すと、少年は頷き、少し離れて板を見上げた。耳に風が鳴る。その音に紛れて、列に並んだ者たちのざわめきが広がっていく。
「色がついたんだな」「今日は何を選ぶ?」「盾だ、盾にしろ」
囁きの中に、笑い声が混じった。緊張をほどく音だ。
扉が開く。ギルマスが出てきて、1拍だけ板に視線を止め、それから振り返らずに言った。
「おはよう。まず列を3つに分ける。依頼、報告、相談。……相談は今日から2系統だ。危険は奥、改善は午後」
カルロスが掲示の前に出る。
「本日の目的を選んでください。剣/盾/巻物。選んだ後、撤退条件をここに書くか、刻んで印を残す。提出の形も選べます。報告、実演、記録――どれでも可。評価の規準は共通です」
最初に札を選びに来たのは、小柄な女戦士だった。髪は短く、顎の傷が新しい。
彼女は赤い剣の絵札に手を伸ばしかけて、ふと、青い盾の刻みを指でなぞった。凹みが指の腹に触れて、わずかに沈黙する。
「……盾。今日は盾を主にする」
「理由を書いてください」
「昨日、ふくらはぎの筋が攣った。回避が遅れて、刃が当たりかけた。今日は足の使い方をあわせる訓練を、討伐の前に入れる」
カルロスは頷き、板の下に備え付けた細い木筆を渡した。「足」「訓練」。彼女は短い言葉を自分の字で残す。
「提出の形は?」
「実演。帰りに足運びを見せる」
「わかりました」
こういう短い手続きが、列を詰まらせるという批判は必ず出る。だからこそ、カルロスはもう1枚、別の板を準備していた。〈時間板〉だ。
――現在の待ち時間:依頼○分、報告○分、相談(危険)即時/(改善)午後○時~○時。
砂時計をひっくり返す仕掛けと、横に固定した木の針で視覚的に示す。
「時間をいちいち書き換えるのは面倒だ」とギルマスは昨夜言った。
「だから数を減らします。針を3つに。依頼、報告、相談(改善)。危険相談の針はない。即時」
「いい。おまえの遊びは、現場の手が迷わないなら付き合う」
人の流れは、最初の十五分はぎこちなく、次第に滑らかになっていった。
相談の列の手前で、カルロスは2つに分岐する札を掲げる。「危険」「改善」。危険の札は黒に近い灰色、刻みが深い。改善は黄。
――危険:今から行く場所の安全/撤退判断/同行者の体調
――改善:装備・動線・受付の仕組み
規準の例を、極力短く書いた。
灰色の札へは、意外なほど速く手が伸びた。若い2人組が口々に言う。
「中層、地図の古い部分がある」「昨日、同じ場所で迷った」「今日の撤退の合図、赤の焔以外に、音の合図がほしい」
カルロスは彼らを奥へ誘導しながら、改善の札に手を伸ばした年長の男を横目で見た。「階段の踊り場、灯りの位置を少し変えてくれ」。
午後に枠を設ける。改善は、午後の「相談の間」に集めて整理する。午前は現場を止めない。
――順番を守ること。それ自体が、安全の一部だ。
午前の終わり際、昨日の4人組が現れた。盾の青い札を選び、撤退条件を自分の言葉で書いて出て行った一団だ。
戻ってきた彼らの顔は、疲れてはいるが、焦げ跡は少ない。
「今日は、1人も走らなかった」
彼らの言葉を受けて、ギルマスが短く笑う。「走らないで済む判断は、早い判断だ」
カルロスは机の上の小さな水晶に手をのせ、淡い光で記録を残す。「盾・実演」。
「提出の形、覚えていますね。足運びの実演を」
4人は受付の横のスペースで、足の幅、重心の移動、間合いの取り方を順に見せる。
カルロスは、彼らの膝の角度や足の音の大きさを観察し、最小限の言葉を投げた。
「2歩目が大きい。筋力が足りないからではなく、焦りの癖。間に『止まる』を入れて、呼吸を合わせる」
言いながら、彼は自分が何をしているのか、遅れて理解していた。――これは、評価ではなく、支援だ。
評価は、「できた/できない」を鏡に映して見せる行為。
支援は、「どうすればできるか」を一緒に見つける行為。
枠は本来、評価のための枠だが、運用次第で支援の助けにもなる。
「おい」
低い声が、背中を叩くように落ちた。
振り向くと、青い外套を肩に掛けた大柄な男が立っている。髭は短く刈られ、眉は濃い。通称「鉄熊」。この街の中堅の象徴のような男だ。
「色付きの板だの、札だの。遊びか」
カルロスは正面から目を合わせ、言葉を選んだ。
「遊びではありません。人の違いを、同じ形で扱うための目印です」
「目印がなければ歩けないのか。俺は20年前から剣1本で歩いてきた」
彼の声は刺々しいが、それは攻撃ではなく、挑発に近い。現場が新しい規範を受け容れる前には、必ず現れる棘だ。
ギルマスが一歩寄る。「鉄熊」
「実演を見せろ。撤退合図。こいつの板が、現場で役に立つか確かめたい」
受付の空気が一瞬で張る。
カルロスは短く頷いた。「お願いします」
即席の演目は「視界不良下の撤退」。
ギルドの裏庭に出て、布を張り、香を焚いて薄い煙を流し、視界を悪化させる。石を数個置いて段差を作り、足場を不安定にする。
「俺が先行する。相棒が後衛。撤退の合図は?」
カルロスは言った。
「赤の焔は視界が悪い。音の合図を追加します。短く2度――『戻れ』。長く1度――『危険・即退避』。後衛が笛、先行が鈴」
鉄熊は鼻で笑い、笛と鈴を受け取った。
「合図の意味を、選ぶのはこっちだ」
「選んだ意味を、全員で共有してください」
「……そうだな」
実演が始まる。
煙の向こうで、笛が短く2度鳴った。相棒の影が引き、鉄熊が下がる。足は速いが、段差で1度つまずきかける。その瞬間、鈴が短く鳴った。相棒の笛が1度長く伸びる。
――危険・即退避。
鉄熊は振り返り、相棒の位置を確認する。2人の間に煙の筋が流れ、判断が1瞬遅れる。
「止まれ!」
カルロスの声が煙を裂いた。
足音が止む。
「呼吸、3拍。視線、足元、左、右。段差を『見る』のではない。『数える』。段差1、2。次に音」
鈴が短く鳴る。笛が短く返す。
再び動く2人の歩幅は、先ほどより揃っていた。
煙が薄くなり、裏庭に風が入る。
鉄熊は鈴を握ったまま、しばらく黙っていた。それから、鈍い声で言った。
「……板の色は、遠くからでもわかる。音の合図は、目より早く届く。俺は、目に頼りすぎていた」
カルロスは深く頭を下げた。「実演、ありがとうございます」
鉄熊は不機嫌そうに舌打ちし、しかし鈴を机に乱暴に置いた後、青い盾の札に指を置いた。
「今日は盾だ。『訓練』ってやつをしに行く」
昼を過ぎて、〈時間板〉の針が小さく動いた。報告の列の待ち時間が目に見えて短くなる。
ギルマスが横目でそれを見やり、カルロスに言う。
「報告の停滞が少ない。『相談』の切り分けが効いたな」
「午後の相談の間で、改善をまとめます」
「俺も出る。現場は俺の言葉で動かす。おまえの言葉で枠を作り、俺の言葉で熱を入れる」
午後。
「相談の間」は、ギルドの2階の小部屋に設けられた。窓から光が斜めに入り、机が4つ並ぶ。壁際に砂時計。
改善の相談は、受付に貼り出してある「今日の課題」から始めた。
――踊り場の灯り、位置を1尺移動。
――中層の地図、第3通路の刻みがかすれている。
――「報告」の言葉の型を短く。
ギルマスは腕を組み、各々の提案に短く応じた。
「灯りは今夜やる。梯子が要る。協力者を募る」「地図は明日、刻み直し」「報告の型は、3段だ。状況/判断/結果。10字以内」
カルロスはそれを板に写し、最後に1つ、提案を足した。
「『挑戦枠』を作りたい。任意で、今日の仕事に1つだけ、追加の挑戦を選べる。評価は加点だが、任意。枠ごとに上限を設ける」
部屋が少しざわつき、ギルマスが顎を上げる。「何を挑戦する」
「たとえば――『初めての同行者に役割を伝える』『行きと帰りで危険箇所の変化を記録する』『盾役の交代時の合図を工夫する』。どれも安全の延長にある挑戦」
「任意、か」
「任意です。やらなくても評価は下がらない。やったら、加点。『挑戦は常に任意』」
カルロスは、昨夜読んだ冊子の余白の走り書きを心の中で繰り返した。アランの字が、ここにも薄く影を落とす。
ギルマスはしばし考え、それから短く言った。
「やろう。ただし、枠の数は3つまで。掲示板に出す。やりたい者は札を取って、戻ったら札を返す。札がなければ、その挑戦は今日、もう誰かがやっているということだ」
「分配の上限で、暴走を防ぎます」
「そうだ」
相談の間が終わる頃、外が赤く染まり始めた。
受付に戻ると、青狼の相棒――昨日、胸当ての下を赤くしていた男が、ゆっくりと歩いてきた。包帯は厚いが、顔色は良い。
「報告だ。状況、判断、結果」
彼は板に書かれた3段に合わせて、簡潔に語る。
状況――火精の群れ。視界悪化。
判断――撤退。
結果――1名軽傷。帰還。
カルロスは頷き、次に短く付け足した。「提出の形」
「記録。水晶にある」
水晶の光が揺れ、裏庭の煙、鈴と笛の音、足音のリズムが薄く映る。
「挑戦枠は?」
「『盾役交代の合図を工夫する』。今日は鈴を2回で交代。次は、手の位置で合図するのを試す」
カルロスは、胸の内側で小さな石が外れるような感覚を覚えた。
――枠が「現場の言葉」に変換された瞬間。
それは、数字を並べるだけでは決して起きない。板に書かれた言葉が、誰かの体に移り、音になり、動作になったときにだけ起きる。
夜。
受付の灯を落とす前に、カルロスは〈時間板〉の針を指でなぞった。砂時計の砂が落ち切っている。
「今日は、報告の列、最長で15分短縮」
背後からギルマスの声がした。
「数字で言えるのはいい。だが、俺がいいと思ったのは、列の顔だ」
「顔?」
「『相談』の顔が変わった。危険の方は、目が速くなった。改善の方は、口の動きが滑らかだった。言葉を持って帰った顔だ」
カルロスはゆっくりと頷いた。
「顔の数字化は、難しいですね」
「顔は、歌にしろ。吟遊詩人に頼む」
冗談に聞こえたが、ギルマスは本気だった。
「数字の横に、物語を置く。監査は数字にしか目を向けない。だから物語を、数字の隣に座らせる。そうすれば、どちらも独りにならない」
カルロスは胸の奥に、微かな熱を覚えた。
数字の隣に、物語。
その並びを城に持ち帰ることが、自分の仕事の延長になる――初めてそう感じた。
そのとき、扉が叩かれた。
遅い時間の訪問は珍しい。開けると、黒い僧服の男が立っていた。銀の留め具。教会の印。
「夜分に失礼。アランから伝言だ」
短く切れ味の良い声。僧は巻物を差し出し、続けた。
「アランは数日、北の孤児院。あなたがたの『掲示』の噂は届いている。『必須と挑戦を分ける』の運用について、情報の交換と共有をアランは希望している」
僧はそれだけ言うと踵を返し、闇に溶けた。
巻物を受け取ったカルロスは、封を確かめ、机の上にそっと置く。
ギルマスが顎で示す。「開けろ。今、開けろ」
封を切る。中には、簡潔な箇条書きと、稚い字で書かれた子どもの絵が数枚。
――必須(安全)。「戻る理由を、始める前に言う」
――挑戦(任意)。「『まねされたい工夫』を1つだけ持ち帰る」
――提出の形。絵/言葉/実演。
子どもの絵は、色の派手な棒人間が、赤と青と緑の札を持っている絵だった。
ギルマスが眉を動かす。「子どもでもわかる、か」
「子どもでも、わかる。なら、疲れた大人にも」
カルロスの言葉は、独り言に近かった。
深夜。
携行帳の2枚目に、カルロスは今日のことを書きつけた。
――色の板は機能。触覚の刻みは有効。
――『相談』の切り分けで、報告の遅延が減った。
――実演(撤退合図)で、中堅の抵抗が緩んだ。
――挑戦枠、明日から開始。上限3。
書いているうちに、筆が止まる。
十日のうちの2日目。
監査まで、あと八日。
数字は相変わらず短い。だが、短いからこそ、今日の「1つ」が効く。
カルロスは携行帳を閉じ、机の隅に置いたアランの巻物に視線を落とした。
明日は、この要素を板に足す――〈必須と挑戦〉の分割。挑戦は、任意。
板の下に、小さな箱を取り付ける。挑戦札を入れる箱だ。札には挑戦の名前を書き、数は3。
札が空になった挑戦は、今日の挑戦ではもう取れない。焦りを生まないための、静かな制約。
眠りにつく前、カルロスは闇の中で思った。
――顔の数字化は、難しい。
では、顔の記録は?
吟遊詩人を待たずとも、受付で「短い物語」を集めることはできる。
状況/判断/結果の横に、ひと言――〈なぜ〉を置く。
「なぜ、盾を選んだ?」
「なぜ、撤退した?」
その「なぜ」が、数字の隣の椅子になる。
翌朝。
風は弱まり、空は薄い金色に染まっていた。
カルロスは昨日よりも早くギルドに入り、板の下に小箱を取り付け、挑戦札を3枚ずつ差し込んだ。
――『初めての同行者に役割を伝える』
――『危険箇所の変化を記録する』
――『盾役交代の合図を工夫する』
その上に、太字で1行。
〈挑戦は常に任意〉
扉が開く。
列が入ってきて、板の前で足を止める。
昨日、指で刻みをなぞった女戦士が、今度は迷わず青い札に触れ、挑戦の箱から1枚、札を引いた。
鉄熊が、鈴を腰に下げている。
青狼の相棒が、胸当ての紐を結び直しながら板を見て、短く笑った。
ギルマスが受付の脇に立ち、カルロスの肩を軽く叩いた。
「行くぞ。今日の目的は?」
カルロスは、板の前に1歩出て、声を出した。
「本日の目的を選びましょう。剣、盾、巻物。――そして、挑戦は、任意です」
彼の声は、昨日よりも落ち着いていた。
数字と物語の、隣り合う席が、今日もまた1つ、埋まっていく。
監査の8日前の朝。
見える化された色と、選ばれた言葉と、短い「なぜ」が、ギルドの空気を少しずつ変えていくのが、確かに感じられた。