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第1話 出向会計士、受付に立つ

 暁鐘が三度鳴った。露に濡れた石畳は薄青い光を返し、冒険者ギルドの前には、夜明けより早く並んだ若い背中が列をつくっている。革の匂い、油の匂い、焦げた布の匂い――戦いの残滓が渦巻く玄関口に、灰色の外套をまとった男が立った。


 彼の名はカルロス。王城会計局の書記官である。

 誰もが彼を堅物と呼ぶ。彼自身、それを否定したことはない。帳簿の数列は彼に嘘をつかない。人間関係はしばしば嘘をつく。だから彼は数字へ、規則へ、手順へと身を寄せてきた。若手の官吏に「古い」と笑われた日の帰り道、何かが胸の中でひび割れた。私が間違っているのだろうか。堅物な彼が自身を見つめ直すために行ったの行動は城の「現地インターン制度」への参加だった。


 「現場に数字を連れていけ。数字に現場を学ばせろ」

 提出した希望書に自分で書いた言葉を、カルロスはもう一度心の中で反芻する。


 ギルドの扉が開き、重い空気を押しのけるように声が落ちた。

 「おはよう。まずは列を三つに分ける。依頼、報告、相談。声を出して、自分の列を確かめろ」


 声の主は、髭面の巨躯。皆、彼を「ギルマス」と呼ぶ。

 冒険者の肩を軽く叩き、怯えた新人の視線を正面から受け止め、血の滲む包帯を見れば、ためらいなく治療所へ回す。動作に迷いがない。

 「今日の目的は?」と彼は尋ね、返ってくる言葉の速度で、その日の危うさを見抜いていく。


 カルロスは外套の内側から小さな木の板に綴じた紙束――携行帳を取り出し、書きつけた。

 〈列分岐:目的別。三列。声出し確認。〉

 〈質問:今日の目的?――即答の遅速=危険度〉

 無造作に見える所作の裏に、何度も練られた「型」がある。数字の目で見れば、それは確かに、再現可能な設計だった。


 受付の机に記録水晶が置かれ、最近の依頼の統計を示す淡い輝きが浮かぶ。

 討伐成功率、帰還率、負傷率。

 カルロスは眉をわずかに動かした。成功率はまずまず。だが中級以上への昇格率が低い。三年前から緩やかに下降。助成金査定の項目の一つだ。城の財務会議で何度か議題に上がった表を、彼は記憶している。


 「城の役人さんか。話は聞いている」

 ギルマスがこちらを見た。目は笑っていないが、声は尖っていない。

 「カルロスと申します。しばらく、受付の末席に置かせてください。まずは業務を観察したい」

 「好きにすればいい。邪魔はするな。わからないことは聞け」


 短いやりとりの端で、若い冒険者が唇を噛んで列を移動しているのが見えた。

 背に新しい剣。靴は擦り切れている。自尊心と疲労が同居する歩き方。

 カルロスは無意識に評価の欄を想像し、そこで手を止めた。これは監査ではない。彼が今学ぶべきは、彼の知らない「現場の重さ」そのものだ。


 午前は怒涛のように過ぎた。

 「昨日の続きで、街の北側の見回りです」

 「目的は?」

 「住人の保護と、盗賊の偵察です」

 「撤退の条件は?」

 「日没前、負傷者が出た場合、合図は赤の焔です」

 ギルマスの質問は、毎回同じ順で、同じ強さで落ちていく。目的、手段、撤退。三つの輪っかで首を守るような、簡潔な問い。

 カルロスはページをめくり、書き足した。

 〈三問の固定質問。場当たりを減らす。〉

 〈撤退条件=恥ではない、という文化。〉


 昼、休憩室。粗末なパンと薄いスープ。

 ギルマスは卓の向こうで器を片手に、壁の掲示板を顎で示した。

 「見てると、何か言いたげだな」

 カルロスは正直に言った。

 「列の分け方は合理的です。ですが、『相談』の列が長くなると、『報告』が滞り、データが遅延する。数字の遅延は、判断の遅延です」

 「で?」

 「『相談』をさらに切る。危険度の高い相談は奥へ直送、日常の改善相談は午後に枠を設ける。受付の前に、今日の“目的別掲示”を出す。目的を書かせる。」


 ギルマスはパンを噛んだ。乾いた音。

 「書かせる、ね。字が書けないやつもいる」

 「なら、絵でもいい。三つの印で選ばせる。剣、盾、巻物。攻撃、防御、情報。『今日はどれが主か』と」

 間を置いて、ギルマスが笑った。今度は目も笑っている。

 「おまえ、受付に立て。張り紙はおまえがつくれ」


 午後、カルロスは初めて受付の内側に立った。机はわずかに低い。ここに立つ者が相手の目線を上げすぎないように、そんな配慮だろうかと考えた瞬間、背後から声がした。

 「三番。相談。早めに見ろ」

 ギルマスの声に従い、カルロスは手を上げた。

 「こちらへ」


 歩み寄ってきたのは四人組。まだ顔があどけない。

 「初めての中層です。行けると思って」

 言葉の端に焦りがある。カルロスは机の上の白い板を回して、絵札を見せた。剣、盾、巻物。

 「今日の主目的はどれですか」

 四人が顔を見合わせ、剣を指した。

 「討伐、です」

 「理由は?」

 「上がれと言われたから。中層で数字――討伐数を稼いで、昇格に」

 カルロスはわずかに息を止めた。

 「あなたがたの装備と、過去三回の報告を見ると、被弾が多い。盾を主目的にして、守りながら進む訓練に切り替えることを提案します」

 「でも、昇格の数字が」

 「あなたがたが昇格したい理由は?」

 四人は答えられなかった。ギルマスの午前の三つの問いが、ここでも響いているのがわかる。目的が曖昧なまま数字だけが前を走るとき、人は転ぶ。


 カルロスは携行帳を開き、短い文を示した。

 「『撤退は敗北ではない。未定義の継続が敗北だ』――ギルドの指針に添って、今日の撤退条件を書きましょう」

 四人の目が紙に落ちる。震える指で、日没、負傷、合図――さっき聞いた言葉を、自分の手でなぞっていく。

 カルロスはその手元を見守りながら、自分の胸のどこかが、微かにほどけていくのを感じた。

 数字は目的を支える。目的は言葉で明らかにする。言葉は行動を縛るのではない。行動を守る枠だ。


 夕刻、報告の列が伸びた。

 中堅の冒険者、通称「青狼」の二人が、焦げたマントで戻ってくる。

 「沼地、火精の群れ。予定外の遭遇。撤退」

 ギルマスが頷く。

 「判断は早かったか」

 「五分遅れた。俺が速度を優先した」

 言い終わる前に、相棒が肩で息をして壁にもたれた。胸当ての下が赤い。

 カルロスは思わず前へ出る。

 「治療所へ。記録水晶は預かります。報告は後で構いません」

 「受付の若造に仕切られる筋合いはねえよ」

 荒い言葉。だが、その荒さが恐怖を覆い隠す布であることを、カルロスも、ギルマスも知っている。

 ギルマスは低い声で、しかし決して威圧せずに言った。

 「俺の責任のもとで言う。報告は後だ。生き残りの数字は、書かれてからではなく、運ばれてから確定する」


 治療所への扉が閉まると、受付に一瞬の静寂が落ちた。

 カルロスは机の上の記録水晶を手に取り、青い光の揺れを見つめた。

 〈予定外遭遇。撤退五分遅延。負傷一〉

 数字は冷たい。だが、その冷たさは、熱に浮かされた判断から人を救うことがある。彼はそれを信じてきた。けれど、今日初めて、冷たさの底に、微かな温もりが宿る瞬間を見た気がした。

 その温もりは、現場で触れた「声」から来ている。

 ――今日の目的は? 撤退の条件は?

 ギルマスの繰り返す定型文。奇妙なことに、あの問いは、数字と同じくらい、いやそれ以上に人を守っていた。


 日が落ち、灯が入る。

 受付の前で、カルロスは小さな板を立てた。

 〈本日の目的を選び、書き、示せ〉

 剣・盾・巻物の絵札。それぞれの下に、短い例文。

 ――討伐:○○を倒す。

 ――防御:帰還率を上げる。

 ――情報:○○の配置を記録する。

 紙の端には、細い文字で一行が添えてある。

 〈撤退は敗北ではない。未定義の継続が敗北だ〉


 背後で足音。ギルマスが板を覗き込む。

 「字が小さいな」

 「明日、大きく書きます」

 「色も使え。剣は赤、盾は青、巻物は緑。色で判断できるやつもいる」

 「わかりました」


 ギルマスは机の縁に腰をあずけ、珍しく言葉を探すように間を取った。

 「……おまえ、城に戻る前に、ここで何を残すつもりだ」

 カルロスは即答できなかった。帳簿の数字で答えられる問いではない。

 「人が、自分の成長を、自分の言葉で確かめられる指針を。できれば、誰が見ても同じ判断になる指針」

 ギルマスは鼻を鳴らした。

 「指針だけじゃ人は歩けねえが、指針もねえと走り出して壁にぶつかる。……明日は、午前の前に来い。おまえのやり方を、最初から組み込んでみる」


 頷いた瞬間、玄関の外で蹄の音がした。使いの兵が巻物を抱えて入ってくる。王城の紋章。

 ギルマスは封を切り、目を走らせ、短く息を吐いた。

 「監査が、前倒しだ。十日後だと」

 カルロスは巻物を受け取り、読み直した。助成金査定と、各ギルドの育成方針の実地確認。具体的な成果を求めている。

 十日。数字の世界なら、十分な準備期間ではない。現場なら、なおさらだ。

 「冒険者たちに成果を求めたくはない。あいつらは命懸けで、自分のことで精一杯だ」

 カルロスは城で読んだギルドの監査報告を思い出す。乱暴な言葉で理想を掲げ、具体的な成果はほとんど記載されていなかった。

 「このギルドには成果が存在します。言語化できていないだけです」カルロスは独り言のように呟いた。


 夜。

 受付の灯を消した後、カルロスは奥の小部屋を借り、机に携行帳を広げた。

 〈観察記録・第一日〉

 ――列分岐は機能。三問の固定質問は、目的の意識化に寄与。

 ――「相談」は危険度と日常改善で分割すべき。

 ――今日、初めて受付に立つ。

 彼は筆を止め、少しだけ背を椅子に預けた。

 多分、明日から彼は、ただの観察者ではいられない。受付の内側に立つ者は、言葉の重さを引き受ける。

 言葉は枠だ。枠は人を守る。守るためには、見えるところに置かなければならない。


 机の隅に置かれた古い冊子に目が止まる。表紙に押された印章――教会。『安全と自律のための講話録』。余白には鉛筆で書き込みがあった。

 〈必須と挑戦を分ける。挑戦は常に任意〉

 〈評価は四つ:正確性、根拠、再現性、説明〉

 ギルマスの字ではない。丁寧で、細やかな注釈。

 「アラン……」

 ギルマスが時折名を出していた、教会の指導者の名。

 カルロスは冊子をひらき、章立てを追い、ふと気づいた。

 ――これを現場の言葉に置き換えれば、受付で使える。


 携行帳の新しいページに、彼は線を引いた。

 〈必須(安全)/挑戦(任意)〉

 〈証拠の形は選べる――報告、実演、記録〉

 〈基準は共通〉

 「証拠の形を選べる」。

 城の会計では、証拠は紙と印だった。ここでは、言葉、傷、道具、記録水晶。

 カルロスは笑うともため息ともつかない息を吐き、立ち上がった。明日、絵札の板にもう一枚、簡単な「提出形式」の札を足そう。

 ――今日の成果は何で示す?

 報告(書く)/実演(見せる)/記録(水晶)。

 選ぶのは冒険者。評価の物差しは、受付に掲げる。


 灯を消す間際、ふと玄関の方から小さな音がした。

 廊下に出ると、掲示板の前で、少年が背伸びをして紙を読み上げているのが見えた。

 「……撤退は敗北ではない。未定義の、けいぞくが、はいぼくだ」

 文字を音に変えるのに精一杯の舌足らずな声。それを隣で聞いている少女が、言葉の意味をまだ掴めずに首を傾げている。

 カルロスは声をかけようとして、やめた。二人の横顔に、昼間見た四人組のまっすぐな目つきが重なって、ただ静かに頭を下げた。


 部屋に戻る。

 十日。

 数字は短い。けれど、十日あれば、人が一つの言葉を覚えるには十分だ。

 明日は、受付に立つ最初の一分で、言葉を置く。

 ――今日の目的は?

 ――撤退の条件は?

 そしてもう一つ。

 ――成果は、何で示す?


 カルロスは筆を置き、窓の外の暗さをしばらく見た。

 城に戻るとき、ここで学んだ言葉を、数字と一緒に持ち帰る。

 数字が人を守るためにあることを、紙の上ではなく、列の前で説明できるようにする。

 それができれば、堅物と呼ばれてきた年月にも、少しは意味が宿るだろう。


 翌朝の光は薄く、だが確かに街を照らした。

 ギルドの前にはまた列ができ、扉が開く。その内側、受付の机に、昨夜より大きな字で書かれた板が立っていた。

 剣は赤、盾は青、巻物は緑。

 その下に、小さな灰色の外套が立つ。


 「おはようございます。……まず、目的を選びましょう」

 カルロスの声は、驚くほどよく通った。

 その声に、冒険者たちの視線が集まり、ギルマスが一歩後ろに下がる。

 今日からの十日間が、数字と人の言葉を結び直すための時間になることを、誰もまだ知らない。

 だが、受付の板に立つ三つの色と、一行の言葉は、もうそこにあった。

 〈撤退は敗北ではない。未定義の継続が敗北だ〉


 カルロスは深く息を吸い、最初の一人に向き直った。

 「今日の目的は、何ですか」

 その問いが、彼自身への問いでもあることに気づきながら。

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