中篇
オレの婚約は、貴族には珍しい全く政略の伴わない、本人たち以外に旨味のない婚約だった。
ハシェット子爵家の跡取り娘のリーリエと、ラモンド伯爵家の三男坊のオレ。
婿を捜していた女と婿に入れる男が引き合わされ、年も同じだし丁度いいと勝手に結ばれた契約。
ただ、それだけだった。
でも、オレ達はうまくいっていた。
結婚する以上、将来子爵位を継ぐ彼女をちゃんと支えたいと思ったし、彼女もまた夫となるオレを気遣い立ててくれるような気質の女性だった。
だから婚約後は、お互い照れながらも、学院で、休日の逢瀬で、仲を深め、オレなりに結婚を楽しみにしていた。
それが壊れたのは、学院生活も後一年という頃。
リーリエに重い病が発覚した。先天性の気質のあるそれは、発病すれば生命の危険を伴うもので、彼女の本当の母親も同じ病で亡くなっていたことを知ったのはその時だった。
『ごめんなさい』
見舞った際に、ベッドの中で何度も謝る彼女に、オレは何度も首を横に振った。
何年でも、完治するまで待つから。
諦めないで欲しい。
希望を捨てないで。
泣く彼女の手を握り締めて、オレも泣きながら彼女に願った。
その頃にはもう丁度いい相手だからじゃなくて。
<リーリエ>が好きで、彼女以外と結婚なんて考えられなくなっていたから。
愛しい人を失いたくなくて必死だった。
それからは学院に通う傍ら、彼女の患う病について調べ。病や身体にいいと言われるものを差し入れに足繁く子爵家に通い、励まし続けた。
けれどオレの努力を嘲笑うように、彼女は会う度儚くなって……。
握る手指の細さに涙を堪えるのが当たり前になった頃、とうとう面会を拒否された。
『女心を判ってくださいませ』
病み衰えた姿をオレに見せたくないという伝言を伝えに来たのは、彼女の義母である子爵夫人だった。
そんな!
彼女はいつでも美しい!
どんな姿でもオレはリーリエが恋しい!
だから会わせて欲しいとどんなに頼んでも、子爵夫人は困った顔をするだけで決してその場を動きはしなかった。
仕方無くその日は帰ったが、それからも花束と差し入れを持って子爵邸に通い詰めるのはやめなかった。
だが、今日こそは会えるかもと微かな希望を胸に応接間で待っていても、答えはいつも、否。愛しい人に拒絶される辛さ、悲しさでオレも随分荒んでいたと思う。
……でも諦められなかった。もう一度会ってこの想いを直接伝えられたら、きっとまた会えるようになる。そして彼女も元気になると、信じていた。
なのに………。
リーリエと最後に会った日から流れた月日が両の指では数えられなくなって、病状すら教えて貰えなくなった頃、子爵家に変化が起きた。
いつものように拒否を伝えに来た子爵夫人と共に、一人の少女が応接間にやってきた。
『いつも姉のお見舞いをありがとうございます』
そう言ってオレに向かって笑う少女は、現在の子爵夫人の連れ子で、彼女の義妹バーバラだという。
……初耳だった。
彼女と婚約して早数年。しかし、学院でも家でも、彼女に姉妹がいるなど聞いたことがない。
訳が判らず呆然とするオレに、子爵夫人は恥ずかしながら……と少しも恥ずかしそうでない、何処か誇らしげな微笑みを浮かべて、事情を説明し始めた。
実は夫人と子爵は長年関係があって、娘たちは真実姉妹であり、共に現子爵の血脈であること。しかし、前夫人の娘が跡取りと定められていたため、夫人も子爵も今更それを覆すつもりはなかったが、こんなことになってしまった。
だから、これも家のため。
これからはどうかこの子と仲良く。
ニンマリ笑った夫人の言わんとすることが判って目眩がした。
そんなオレを置き去りに、母親に促された少女は、拙い淑女の礼でオレに頭を下げて、はにかんだ笑顔を見せる。
華やかな子爵夫人に似た顔立ちの少女は、多分愛らしいとか、可愛い部類に入るのだろう。何処か違う場所で出会ったなら、好印象を抱いたかもしれない。
だが……。
こんな話、今のオレに聞かせるべきではないだろう?
だって、それはつまり、夫人も子爵ももう彼女のことを……。
そもそも、オレを誰だと思っている?
オレは、今、貴女が見捨てようとしている娘の、リーリエの婚約者なんだぞ!!
拳を握って感情を押さえ付ける。
なのに、バーバラは言葉でオレを殴り付けてきた。
『お姉様の代わりに頑張りますので、よろしくお願いしますね』
にこやかに何の邪気もなく。
極上の笑顔で言われて、一瞬で頭に血が上った。
『バカな、ことを……』
『え?』
『馬鹿なことを言わないでいただきたい!! オレが婚約したのはリーリエだ! 彼女の回復を願って通っているのです!! 他の女にうつつを抜かすためではない!! こんな話っ、何も聞かなかったことにしますので、もう二度とオレの前で、そんな話はしないでください!!』
怒鳴って、そのまま応接間を出た。
既に勝手知ったる他人の家、玄関に向かって真っ直ぐ歩くオレを追いかけてきたのは、メイドのお仕着せを着たおさげの少女だった。
不敬にもオレの行き先に回り込んで進路を遮ったメイドは、ぶしつけに胸に抱えていた紙袋を差し出してくる。
『申し訳ありません、これを』
『なんだ?』
『何も言わずにお持ちになってください、お願いします』
潜めた声で強引に押しつけられた。
『お嬢様をお願いします』
その言葉で思い出した。
このメイドはいつも彼女のそばにいた……。
名前を思い出す前に、騒ぎを聞き付けた誰かの足音がして、メイドは素早く走り去った。
渡されたのはリーリエの日記だった。
長く使えるようにしっかりした表紙の分厚い本のような日記帳には、文字を書けるようになってからの彼女の日常が飛ばし飛ばしに記してあった。
そして、やっとオレは彼女の本当の姿を知った。
幼い彼女が綴った実母を失った深い悲しみ。
その傷も癒えぬうちに現れた継母と義妹の存在によって知った、実父の裏切り。
余りにも多くの困難が一度に押し寄せ受け入れきれない彼女は次第に家族の中で孤立してゆき、孤独を深めていった。
リーリエにそんなつもりないのに、義母と義妹に接したすべての事柄が捻じ曲げられて父に報告される。その度父親から、家族に優しく出来ないお前には人の心がない!! と責められ、時には暴力を受ける。
何故そうなるのか理解できない幼い彼女に出来たのは、ただ家族に逆らわず、すべてを諦めて、息を殺して生きることだった。
リーリエの孤独、苦悩、苦痛。おおよそ子供時代に味わう必要のない感情ばかりが詰め込まれた文字の羅列に、読んでいるだけのオレの胸も締め付けられ勝手に涙が零れた。
長年家族からこんな仕打ちを受け、心の痛みに喘ぎながら生きてきたのに……オレは出会ったリーリエを、ただ控えめでおとなしい女性だと思って、好ましく感じた。
ずっと酷い仕打ちを受けてきたから、自己主張の少ない、控えめな性格になったのかも知れないのに……オレは何も知らずに、それがリーリエだと、リーリエはそういう女性だと勝手に思って、好きになった自分が恥ずかしい。
愛しい人が、笑顔の裏で、こんなにこんなに苦しんでいたのに……。
何一つ気付かなかった。
なのに、日記にはオレへの想いがたくさんたくさん綴られていた。
オレからの贈りものをまた義妹に奪われてしまった。
婚約者からの贈り物だからと抵抗したら父親に言いつけられ、また殴られ、結局贈り物も取り上げられた。
何一つ守り切れなくて、申し訳ない。
また嘘をつかなくてはいけない。
こんな自分を、オレは嫌うのではないだろうか?
そう憂う日の日記に、息が出来ないほど涙が出た。
オレは、本当に何も気付かなくて……彼女の言葉をいつもそのまま信じてた。
『髪飾りも、ネックレスも、ブローチも、失くしてしまうのが心配で……外で使うのが怖いから、全部宝箱に大切にしまってあるの』
儚げに笑って言う彼女がただただ愛らしく愛おしく。
何気ない贈り物すら、そんなに大切にしてくれるなんて嬉しいと浮かれていたオレは、正真正銘の馬鹿だ。
そんな馬鹿に向けて、彼女はたくさんの想いを綴る。
パトリックは優しい。
パトリックは頼もしい。
パトリックは可愛い。
パトリックは格好良い。
パトリックは……。
パトリックが、好き。大好き。
パトリックを失いたくない。
段々家族からの辛い仕打ちを記す内容は減って、オレへの想いに埋め尽くされた日記は、しかし、唐突に終わる。
一ページの空白を挟んで現れた日付は、オレが絶望を知った日より少し前のものだった。
実母と同じ死病にかかってしまった。
その一文から始まった日記は、止めどない絶望に塗れ、インクが滲んで読めない箇所が多数あった。どれ程、彼女は泣いたのだろう。
何のために自分は生きているのか、何のために生きてきたのか。
神に問い、すべてに問い。
こんな終わりしか迎えられないなら、母と一緒に死にたかった。
辛い毎日を生きてきたのは、未来に希望があると信じたから。
苦難を乗り越えれば幸福があると信じて。
やっとパトリックという最愛に出会い、未来に思いを馳せ、希望を抱いて夢を描いたのに。
なのに……。
取り上げるなら与えないで欲しかった!!
一人で死にたかった!!
生きながらえさせないで欲しかった!!
今すぐ殺して!!
乱れた文字が悲鳴を上げていた。
ぐしゃぐしゃになったページを更に繰っていくと、次に現れたのは随分後の日付。その文字は穏やかに、いつもの彼女のものに戻っていた。
もう生きているのが辛いと思ったのに、パトリックに会えると嬉しかった。
諦めるなと握ってくれる彼の手を暖かいと感じる今を手離したくないと思った。
彼の愛を感じた。
嬉しい。
諦めたくない。
まだ生きていたい。
ありがとう、パトリック。
それからの日記は短く、オレのことばかり書いてあった。
美しい花を贈ってくれた。
美味しい果物を食べさせてくれた。
水を飲ませてくれた。
手を握ってくれた。
彼の訪れが待ち遠しい……。
リーリエの気持ちに触れて泣きながら……そんなこともあったと懐かしく、ある意味微笑ましい文章を読み進めていくと、また長く日付が空いた。
その空白に嫌な予感がして、新たに現れた部分を読んだ瞬間、全身の血が凍るような気がした。
乱れた文字は、また悲鳴を上げながら綴る。
唐突に義母から婚約を解消する書類にサインを求められた。
パトリックがバーバラを選んだ?
だから彼は来ない?
信じない信じない信じない信じない信じない信じない!!
会いたい会いたい、貴方に会いたい!!
紙が裂けるほどの筆圧で記された文字。
血しぶきのように散るインクが彼女の激情を伝えてきた。
それを見て漏れたのは、深い深い溜め息。
空白の始まりは、面会を拒否された最初の日だった。
やはり彼女の意思ではなかったのだ。
他人の悪意が、互いをこんなに遠く長く引き離した。
彼女は、こんなに強く、こんなに激しく、想ってくれていたのに……。
裂けた紙面を、インクの飛沫を、涙の跡を。
指先で撫でて、彼女の想いを受け取る。
その動作で裂けた紙面が少しズレた。
破れたページの隙間から覗いた文字がすべてを決める。
助けて、パトリック。
弱々しい、今にも消えてしまいそうな掠れた文字に向けて、涙が落ちた。
読んで頂きありがとうございました。




