【177】ネーオダンジョン《嫉妬の洞》編⑯ 〜グリーンアイドモンスター〜
ギュン。
ほとんど音はなかった。
ただ、空気の層が一枚だけ裏返ったみたいな、いやな感覚だけが頬を撫でる。
クラウディスの刀が、アーシスの眼前に──"突然、そこに”あった。
「えっ──」
突き上げ。見えないほどの至近の初動。
アーシスの瞳孔が極端に収縮する。
次の瞬間、
──その刃はアーシスの頬をかすめ、後ろのマルミィを貫いた。
「……っ!?」
鮮やかに血が舞い、崩れ落ちるマルミィに追い討ちの一撃を振り下ろす。
斜めに切り捨てられた身体からは、豪雨のように血が吹き荒れ、そして、マルミィの身体は灰煙を吐き出し、霧となって消えた。
「……なっ!?」
アーシスのこめかみを冷や汗が伝う。
「……どんな時でも冷静さを忘れるな。そして、常にまわりを観察しろ」
クラウディスは刀を下ろし、ストローを揺らす。
「せ、先生!……なんでマルミィの偽物わかったの??」
アップルが目を丸くして問いかける。
「……ふっ。"勘"だ!!」
「!!?」
「……冗談だ」
無表情でストローを揺らすクラウディスを、アップルたちの怒りのオーラが包む。
「いいか、こいつらはただ真似してるだけじゃない。"目的"を与えられている……お前らを"殺す"という目的がな」
クラウディスはレディオに寄りかかり、ミックスジュースを飲みながら一同を見回す。
「俺の偽物を倒す時、一瞬、その"目的"が顔に出たのさ。……それがコンマ数秒であっても、見逃さないのが"S級"だ」
張り詰める空気。
喉の奥でゴクリ、と音がした。
ゆっくりと戻ってきたクラウディスは、一人のアーシスの前で立ち止まり、にやりと笑みを浮かべた。
「ちなみに、他の三人の偽物が誰かも、もうわかっている」
──その言葉と同時に、残りの偽物三体──アーシス、シルティ、アップルが霧状にほどけ、シュウウッ!と鏡へ吸い込まれた。
「!?」
すべての鏡が同時に緑光を帯びる。
部屋の温度が三度下がる。皮膚の内側を、ざわざわと泡立つ“音”が走る。
──囁き声。
《フフ……いい気になるなよ、人間……》
壁の鏡から、天井の鏡から、床に映る鏡から──
無数の緑の単眼が、ゆっくりとこちらに“目を開く”。
「……グリーンアイドモンスター、か」
クラウディスが低く呟く。
「来るぞ、"本体"だ」
鏡の世界が裂け、緑眼の影が立ち上がる。
四腕、節くれだった黒い筋肉、胸くうの奥で蠢く嫉妬の焔。
視線が絡みついた瞬間、体温が一度盗まれた気さえする。
怪物が笑う。
《奪って、奪って、奪い尽くす》
四本の腕が同時に構えを取る。
単眼が細く絞られ、光が、音を失って凝縮されていく。
「散開。反射面に注意──目、来るぞ!」
クラウディスの指示が落ち、全員が鏡の角度を背に取って弾けた。
緑色の光線が走る。
床の鏡で反射し、壁で屈折し、天井を跳ね、死角を譲らない"跳弾の殺線"となって襲いかかる。
「《シールド・チャリス》!」
「《アイス・ベイル》!」
アップルの光盾が刹那の角度をつくり、マルミィの氷膜が反射率を乱す。
アーシスは身を折り、鞘走りの間合いから一閃。
シルティは鏡面の角を踏み、反射角そのものを斬って軌道を潰す。
だが、怪物は嗤った。
《エンヴィクラッシュ》
緑眼が閃き、アーシスの剣に宿る“圧”が、ふわっと空気に吸われた。
「──ッ!?……なんだ!?力が……」
アーシスの剣が弾かれる。──手応えが軽い。
「《スピードブースト》!、《ハイガードブースト》!」
アップルの支援魔法が前衛の二人を包む──が、
《エンヴィクラッシュ》
再び緑眼が閃く。
アーシスとシルティは身体に違和感を感じる。
「……うん?」
動きが鈍い──アップルから受けたはずの速度支援の効果を感じられない。
「……魔法無効化……か?」
シルティの呟きに、後ろに立つクラウディスが口を開いた。
「いや、違うな……」
「?」
「やつは、お前らの"力"を吸収している。……見ろ」
怪物の四本の腕が、ムキムキ、と音を立てて膨張している。
──直後、右の二本腕がシルティへ叩き下ろされる。
「くっ──!」
ドガァァン!
防御の上から、身体ごと吹き飛ばされる。
背中から鏡へ叩きつけられ、砕けた鏡の破片が白い雨となって降りかかる。
「シルティッ!」
「……大丈夫だ」
シルティは片膝をつきながらゆっくりと立ち上がり、唇から流れた血を拭う。
「……お前ら、ヤツの"目の光"に気をつけろよ」
クラウディスの声が低く落ちる。
アーシスは剣を握り直し、呼吸を深く。
(……ネーオダンジョン。やっぱり簡単じゃないよな)
その脅威を改めて感じながらも、その目は死んではいなかった。
(つづく)




