【155】本校借り暮らし編⑲ 〜キビル=タイガー〜
(くそ……こいつに近づかれたらやばい気がする。……けど背中を見せれば──トルーパーに斬られる……!)
エリンが笑みを細くするたび、足場がきしんだような錯覚がした。背中の傷は熱を帯び、視界の端が白くかすむ。
「ふふ、踊ってもらうよ」
エリンの目が怪しく光り、空気がぎゅっと縮む。精神魔法の圧がアーシスの額を打った。
「……っ」
意識が沈む。言葉が遠のく──が、次の瞬間、目の前にやわらかな光輪が展開した。
すうっと胸の奥が軽くなる──恐る恐る顔を上げたアーシスの瞳は、赤く染まってはいなかった。
「──なんだとぉ!」
エリンは叫び声をあげる。
「にゃふん〜、そんな魔法、効かないにゃん〜」
アーシスを包む光の中心には、にゃんぴんの姿があった。
「にゃんぴん……!」
にゃんぴんはひょこっとアーシスの頭の上に乗ると、前足で空をひと撫でする。
光輪が重なって二重の結界となり、アーシスの意識に爪を立てた“何か”をそっと押し返した。
さらに、逆向きに転がり、アーシスの背中へと治癒魔法を飛ばす。
「んにゃ〜ん」
温い光が背に流れ込む。焼けるようだった傷の熱が引き、呼吸が戻る。
「サンキュー、にゃんぴん!」
「なに……?」
──その時、封印の中で退屈そうにあくびをしていた魔族の瞳が、初めて鋭さを帯びた。
「おい、女!!その猫を捕まえてこっちによこせ!!」
「え?」
エリンが眉を動かす。魔族は穴から覗く片目を細めた。
「いいか女、俺を復活させるには、その猫の中のマナが必要だ!」
「──させるかよ!」
アーシスが踏み込み、エリンの前に剣を差し入れた。火花。金属が鳴る。
「ちぃっ……。お前ら、こっちに来い!」
エリンの視線が横へ跳ねる。真紅の瞳のトルーパーとシルティが、糸を引かれるように同時に動いた。
二人は容赦なくアーシスに斬りかかる。
刃が二本、音より速く懐へ。
受ける。受ける。受ける。
受けるしか、できない。
反撃の刃は、仲間を裂いてしまう……アーシスは手が出せず、ただひたすら二人の剣を受け止める。
だが──肩口を浅く裂かれ、脇腹をかすめられ、血の線が増える。剣圧が手首に痺れを残した。
「にゃんぴん、あついらの洗脳、なんとかならないのか!?」
「んにゃ〜、簡単にはいかないにゃ〜」
(くそ……どうすれば……魔族を復活させるわけにはいかない。……だけど、この二人を止めるには本気で斬らないと無理だ……)
その時、アーシスの頭に、昼間の笑顔──祭を楽しむ人々の姿がよぎる。
(……魔族を、外に出すわけにはいかない!)
アーシスはそっとまぶたを閉じた。
息を深く吸い、吐く。
──そして、パッと目を開き、呟いた。
「にゃんぴん、黒炎だ……」
黒炎が剣に宿る。刃が低く唸り、紫黒の燐光が鞘走る。
──街の人々を守るため、アーシスは覚悟を決め、剣を強く握りしめた。
三人は間合いを測る。石室が静まり返った。
──しばしの沈黙と緊張。
アーシスは構える剣に力を入れる。
……が、
「……くそぉぉぉ、出来ねぇよぉ!」
刃を下ろし、アーシスは目を閉じて天を仰いだ。
エリンはにやっと笑い、指示を飛ばす。
「やれ」
シルティとトルーパーはいっせいに斬りかかる。
絶体絶命──、そう思ったその時、
──ドガァァン!!
石壁が横から爆裂し、破片の雨が視界を奪った。
「な、なんだぁ!?」
突然の出来事に一同が混乱している中、砂塵の向こうから、長い脚で瓦礫を跨ぐ男がひとり。
白いシャツにレザーパンツ。
脚には重いブーツ。
目にはゴージャスなプラチナのゴーグル。
ウェービーな青髪が揺れ、拳には合金のナックルが薄緑に光っている。
「あん?なんだここ」
男はまわりをキョロキョロと見渡す。
「ん〜、なんか揉めてる?」
状況を測るように首を傾げた男の背に、トルーパーの刃が迫る。
「危ない!」
アーシスの声に、男は反射一閃、ナックルで剣を受け止める。
「あん?なんだ、トルーパーじゃねぇか」
男はトルーパーに気づく──が、トルーパーは反応がない。
「普通じゃねぇな……やれやれ、なんかの術で操られてんのか?」
トルーパーの真紅の目を見て、男は状況を悟った。
問答無用で再び斬りかかるトルーパーの剣を素早くかわした男は、
「おい、目を覚ませ!」
と思いっきりビンタをお見舞いする。
ドガァッ!!
トルーパーは顔面から壁に吹き飛ばされ、崩れ落ちて気絶──目を覚ますどころかKOされてしまった。
「あ……(やり過ぎたか……)」
「おい、お前!!」
背後からエリンの声が飛ぶ。
「ん?」
振り向いた男とエリンの視線が交差する。女の瞳には黒紫の光。
「くっくっくっ、かかったな……おいお前、あいつを殺せ!」
すぐさまエリンは男にアーシス抹殺を命じる──が、
「……は?なんで?」
男の目の色は変わっていなかった。
「な!?……魔法が効いてないだと!?」
「あほか、んなもんにかかるか」
男は肩を回し、エリンへ歩を進める。拳を軽く握り直す音が、やけに静かに響いた。
「よくもトルーパーをやってくれたな」
(そ、それはお前が……)
バゴォッ!!
正面から、一直線。男はナックルストレートを豪快にエリンをぶち込んだ。
──空気が潰れる音。女の身体が滑走して床を擦り、石柱に叩きつけられる。
その瞬間、シルティの瞳から赤が抜けた。
「わ、わたしは何を……」
「シルティ、大丈夫か!?」
「あ、ああ……」
シルティの状態を確認すると、アーシスはすぐさまナーベのもとへ。
壁に沈んでいたナーベを抱き上げると、ポーチから出した回復薬をゆっくりとナーベの口に流し込む。
「……けほっ、けほ」
咳き込みながら、ナーベは目を覚ました。
「ナーべ、大丈夫か?」
「え、ええ……」
自分が抱きかかえられていることに気づき、ナーベは頬を染める。
「よかった。……ナーベ、守ってくれてありがとな」
ほっと息をつきながらアーシスはナーベに笑いかける。
「おーい、誰かこいつも回復してやってくんねーか?」
倒れているトルーパーの傍らで、青髪の男が呼びかける。
ナーベが駆け寄り、ヒーリングの光を重ねると、やがてトルーパーは目を開けた。
「……う、うう……」
「よう、目覚めたか?」
声をかける男を見上げ、トルーパーは驚きの声を上げる。
「タ、タイガー?」
「おうっ」
アーシスが間に入る。
「助かったよ。あんた名前は?トルーパーとは知り合いなのか?」
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺はキビル=タイガー、こいつとは幼馴染だ」
男が名乗ったその時、背後で瓦礫がガラッ、と音を立てた。
ゆらり、とエリンが立ち上がる。唇が裂け、血をぺろりと舐める。
「……マジで入れたんだが、意外とタフだな」
「くっ、くっ、くっ……。誰だかわからねぇが邪魔しやがって。もう遊びは終わり、"皆殺し"だ!!」
狂気に満ちた笑みで叫びをあげたエリンは、袖口から小瓶を引き抜き、注射器を腕へ突き立てた。
黒紫の液が血に混じる。
次の瞬間、骨が鳴った。
バキ、バキ、バキ──。
鎖骨が隆起し、アバラが広がる。筋線維が黒い蔦のように膨張し、皮膚の下でうごめく。
服の裾が裂け、背筋を走る血管が闇色に染まった。
鼻腔を金属臭が刺す。
「な、なんだあれは……」
アーシスたちの目の前で、華奢な研究者は爆裂筋肉の獣へと姿を変えていく。
──封印の中から、魔族が笑った。
「はは……見せてみろよ、人間」
(つづく)