第5話
夕陽が、草原の地平線に沈みかけていた。空は茜色から紫に移ろい、あたり一面がやわらかな闇に包まれはじめている。
「今日は、近くの村で一泊しましょう。」
アレシアが、立ち止まってそう提案した。
俺はもちろん異論なんてない。暗闇の中を、行くあてもなく彷徨う勇気なんて持ち合わせていない。
「はい、お願いします。」
素直にうなずくと、アレシアはほっとしたように微笑んだ。
歩き出して間もなく、あたりはほとんど見えなくなった。犬の遠吠えも、ここで聞くと恐ろしく感じる。そのとき、アレシアが腰につけた小さなランタンに、そっと手をかざした。
「……灯れ。」
彼女が低く囁くと、ランタンの中に青白い光がふわりと灯った。あたりの闇が押しのけられ、二人の影が揺れる。
「うわ……これ、魔法、ですよね?」
思わず声が漏れた。
魔法ーーファンタジーの世界の中だけのものだと思っていた力が、今、目の前にある。流石に興奮しないわけにはいられない。
アレシアは小さく笑った。
「はい。でも、これくらいは誰でも使えますよ。タカトさんも、きっとできますよ。」
さらりと告げるその声に、俺はまた心がざわついた。
――本当に、異世界に来てしまったんだな。
歩きながら、俺は意を決して話を振った。
「……この世界、最近何か異変とか、ないんですか?」
「異変?」
「例えば、空が割れるとか、急に季節が狂うとか、モンスターが増えるとか……」
アレシアは首をかしげた。
「そんな話、聞いたことありませんけど?」
あっさりと一蹴されて、肩透かしを食らった。
……少なくとも、表面上は滅びの兆しなんてない、らしい。
しばらく沈黙の中を歩く。
ランタンの光だけが、二人の小さな世界を照らしていた。
やがて、道の向こうにいくつかの灯りが見えた。ぽつりぽつりと、家が建っているのが見える。近づくにつれて、それがごく小さな集落だとわかった。木造の家が数十軒、素朴な石畳の広場を囲むように並んでいる。人影はまばらで、広場には夜の冷気が漂っていた。
家々の窓からは、揺れるろうそくの明かりがこぼれている。どの家も小さく、質素だが、どこか温かい雰囲気があった。二階建ての木造の建物は、他の家と変わらないが、扉に掛けられた小さな看板には、"風見鶏亭"と読める文字。
そういえば、文字も普通に読めるんだ。これは本当にありがたい。
中に入ると、乾いた木の香りと、暖炉で薪が割れる音が聞こえる。宿の女将らしき女性がカウンター越しに笑みを向けた。
「おや、いらっしゃい。」
アレシアがさっと前に出て、宿泊を申し出る。
「急ですみませんが今晩1部屋お願いできますか?」
俺は慌てて止めた。
「いやいや、別々で!お願いします。」
宿の女将も、困ったように笑った。
「夫婦でもない若い男女が一緒の部屋なんて、感心しないよ。」
「……そ、そういうものですかね。」
アレシアは素直に引き下がったが、少しだけ頬を赤らめていた。旅慣れているようで、意外と常識には疎いらしい。
部屋は簡素だった。木枠のベッドと、荒い麻布の寝具。窓は小さく、月明かりがうっすらと差し込んでいる。ベッドに腰をおろし一息ついていると、ドアを叩く音がした。アレシアだ。宿の女将から、軽い夜食を分けてもらったらしい。
「よかったら、どうぞ。女将さんが分けてくれました。」
皿の上には、黒パンと、塩漬け肉が二切れ、そして欠けたチーズ。簡素だが、腹にはありがたかった。戸惑いの連続で忘れていたが、目が覚めてから何も食べていない。
パンをちぎり、しょっぱい肉をかじる。硬いパンを噛みしめるたび、乾いた音が静かな部屋に響いた。
「……美味しいですね。」
心の声がつい漏れてしまう。アレシアはうれしそうに目を細めた。
食事を終えると、彼女は持ってきた羊皮紙を机に広げた。
――地図だった。
粗いインクで描かれたこの国の全体図。山脈、河川、都市の名が、かすれた文字で記されている。
「明朝、この道を南に進んでいきます。王都まで、だいたい七日くらいでしょうか。」
アレシアは指で街道をなぞりながら、淡々と説明していく。タカトはその様子を、食い入るように見つめた。
「私は、その先でいくつかの村に寄ってから、故郷の村に帰るつもりです。」
アレシアは地図の最も上の方に書かれた山を指して言った。
「北、ですか?」
「ええ。山に囲まれた小さな国です。冬は厳しいけれど、空気は澄んでいて、美しい場所ですよ。」
アレシアの目が、一瞬だけ遠くを見た。その表情は、静かで、少しだけ寂しげだった。
俺は、考えた末に口を開いた。
「王都まで……俺も一緒に行かせてもらっていいですか?」
アレシアは、意外そうに瞬きをした後、すぐに微笑んだ。
「もちろんです。そのつもりで説明したんですよ。」
「ありがとうございます。……お金も、王都に着いたら、ちゃんと返しますから。」
「まあ、あまり期待していないですけど、お願いしますね。」
彼女の優しさが、どこか怖かった。
伏線が暗示するように、本当に彼女は、世界を滅ぼす存在なのか。それとも、そんなものは俺の考えすぎなのか。
ランタンの光に照らされた地図の上で、進むべき道が、静かに広がっていた。