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<4> 本番

8:00PM開場・8:30PM開演

【新劇場 《ドゥオモ》 こけら落とし公演 モーツァルト『レクイエム』本番】



 開場と同時に劇場ロビーではお祝いのシャンパンが振る舞われていた。ずらりとフラワー・スタンドが並べられたロビーを、着飾った観客達が行き交う。

「華やかなものですね」

 指揮者控え室の窓からロビーを見下ろして、ハジメは感嘆の声を漏らした。壮麗な装飾が施されたロビーは、溢れるような花で飾られ、ますます華やかさを増している。

「これから『レクイエム(鎮魂曲)』を聴こうっていうのに、シャンパンはないだろう」

 眉をしかめて呟くタカトウに、ハジメは肩を竦めてささやかな同意を示した。






  演前のアナウンスが流れ、寺院の鐘の音を模した一ベルが鳴った。ロビーから客席へと移動する人の波がホール内の空気を撹拌する。衣擦れ、ざわめき、靴音、そして期待と興奮の入り混じった空気を。

 『《ドゥオモ》こけら落とし公演』の幕が開こうとしていた。

 2ベルが鳴って、客電がゆっくりと落ちる。合唱団入場、続いてオーケストラ入場。コンマス入場、オルガニスト、ソリスト入場。拍手のさざ波が次々とホールに拡がる。

 バルコニー席とオルガン席にライトが当たると、客席の視線は上方へと引き寄せられた。正面バルコニーには盛装したソリスト四人が居並び、拍手に応えて典雅な仕草でお辞儀をした。

 左右のバルコニーには白を基調とした花々が飾り付けられている。オルガン席の足元にも籠盛りの花が置かれて、ホールの中は清しい花の香りに満ちていた。

 カトリック教会の礼拝堂を思わせる聖歌隊席のアイディアは、視覚的には申し分なかった。しかし音響効果はどうだろうか。ソリスト席の設計も含めて、新しいホールの《箱》としての実力が問われる演奏会なのだった。

 ひときわ大きな拍手に迎えられて、指揮者入場。タカトウは泰然とした足取りで指揮台に向かう。

 若きマエストロは客席に一礼してオーケストラと向き合う。燕尾服の裾が動きにつれて優雅に翻る。ホールに水を打ったような静けさが満ちた。

 タカトウは黙祷のような姿勢から静かにその面を上げた。

 そしてオーケストラと合唱を見渡す。その瞳には信頼の色がある。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出したタイミングでタクトを振り下ろす。







 ハジメは舞台下手側の袖口で、ミズタニ御大は調光室で、ササキはソリスト席の扉の後ろで、その瞬間を、じりじりと待っていた。

 一曲目のソプラノ・ソロ。これをオギノ・マリナがどう歌うのか―――――と。

 前奏、コーラスの重なり、そして二十一小節目。



《 神よ、シオンにて讃美を捧げ、エルサレムにて御前に誓いを果たしましょう 》



 「な、なんで……」と、ハジメは呟いた。

 「ふむ」と、御大は頷いた。

 「《予言》が当たった~~~」とササキは脱力した。

 舞台では何事もなかったかのように、ソロを受けて合唱が続いていた。まるで始めから何の問題も無く、元々このようであったのだとでもいうように。

 オギノ・マリナのソロはタカトウの指示そのままの具現だった。

 天上から柔らかく降りてくる天使の歌声。光のようなきらめき。羽毛のような手触り。プリマドンナ・マリナはspiritoso(精神的に)なSotto voce(弱く静かに)で歌っていた。

「あんなに逆らったクセに……」

 わけが分からない、とハジメは思った。なんだか納得がいかない。さんざん引っ掻き回しておいて、本番には涼しい顔で完璧に要求に応えるなんて…………いや、ここは喜ぶべきところだ。コンサートの成功こそが第一義。終わり良ければすべて良し。

 舞台上の演奏者達も、バックステージの裏方達も、誰もが同じ思いだっただろう。そしてもちろんマエストロ・タカトウも。

 だが演奏が進み、中盤に差し掛かった頃、思わぬことが起こったのだった。






 ソロの『Recordare』のあと、がらりと曲想の変わる、合唱による『Confutatis』。

 『Recordare』は、天国と十字架を想いながら、執り成して下さるキリスト・イエスに赦しを願う祈り。『Confutatis』は、燃えるゲヘナの、父なる神の怒りと裁きを想いながらの祈り。軽やかなソロと、重々しい合唱。二つの曲には、はっきりとした対比がある。

 タカトウは歌い終えた四人のソリストがバルコニーの後ろに引っ込んだのを目で確認して、合唱団にコーラスベンチからの起立を促した。

 緊張の面持ちを眺め渡し、笑顔でもって笑顔を引き出す。緊張がほどけたことを確認して、コンマスのノナカとアイコンタクトを取る。目と目でうなずきあって、タクトを構えた。すっ、と呼吸を詰めて振り下ろす。

 『Confutatis』は、Andanteの指示を今回はAdagioほどにもゆっくりと振っている。演奏者諸氏には苦行を強いることとなったが、良い結果を導き出せた手応えを感じている。

 オーケストラは緩みも無くリズムを刻んで良く支え、合唱は独特のうねるようなテンポを緩急自在に操る。力強い男声合唱の合間に、遠い天の高みから微かに聞こえて来るかのような女声合唱が入り、やがて四声部の静かな祈りに集約していく―――――――はずだった。

 その流れに、いきなり予想外の賓客が加わった。アマゾンの女王が、何の前触れもなく降臨したのだった。その荒ぶる心根を天使の羽でくるみ、こよなく麗しい、優しい美声を聞かせて。 



《 私を呼んで下さい。祝福された者たちとともに 》



 ここで聞こえてくるはずのないソプラノ・ソロを耳にした瞬間、ハジメは言葉もなく立ち尽くした。

 身体ばかりか、魂までもが凍りつく心地だった。

(やった。やってくれた。こんな形で!)

(……《予言》は、こっちだったんですね、御大)

(いやはや。まったくたいした度胸の持ち主だよ。とんだ女王様だ)

 バック・ステージでは誰もがショックを隠しきれずに顔色を変えたが、ステージの上の出演者達は、そういうわけにはいかない。いっそ天晴れなアマゾンの女王の『復讐』に、乗せられるわけにはいかないのだった。

 音楽は止められない。やり直しはきかないのだ。あるはずのないソロが合唱に混じったくらいのことで『Confutatis』を、いや、《レクイエム》を台無しには出来ない。

 タカトウは、自分のタクトにぴったりと付いてくるプリマドンナをぴりぴりと意識しながら、全神経を集中して平常心を保ち続けようとした。どうか誰も動揺しないでくれ!という焼け付くような心の叫びを渾身の力で抑え、捩じ伏せて。

 だが、さすがは皆プロなのだった。オーケストラもコーラスも、少しも乱れなかった。苦悶の祈りに応える天上からの光の梯子。踊る光のきらめきと、力強い舵取りのリズムが見事な対比で呼応しながら繰り返されていく。練習で作り上げたそのままの再現を、不測の事態に揺るがされることなくやってのけたのだ。

 ――――このイレギュラーな『Confutatis』の演奏を、客席は「こけら落とし」の新演出と解したに違いない。






「素晴らしい演奏会でしたわ。マエストロ・タカトウ」

「あなたのおかげですよ。プリマドンナ・マリナ」

 十回を優に越えるカーテンコールに応え、ようやく舞台袖に引っ込んだ出演者たちは、そこここで互いに握手や抱擁を交わしていた。―――――マエストロとプリマドンナも。

「皆様の御信頼が篤くていらっしゃるのね。意外だったわ」

「あなたも練習無しでよくあれだけお歌いになられました。大変ご立派です」

「ありがとう。また一緒にお仕事できると嬉しいわ」

「こちらこそ」

 少し離れた場所から二人の様子を眺めていたハジメは、この皮肉の応酬に背すじを寒くしていた。

(今日のような経験は二度と御免だ……)

 だが、そうはいかないだろうということも、容易に想像がついてしまうのだった。

「お二人とも、握手をお願いします!」

 何も知らない記者やカメラマンが二人を取り囲んでリクエストする。

 マエストロ・タカトウは笑顔でプリマドンナと握手を交わして、何枚も写真を撮られていた。






「指揮者のタカトウ・トモノリはその若さに似合わぬ老成した(良い意味で)モツレクを聞かせてくれた。オーソドックスな版を選び、奇をてらわぬ解釈で、いかにもモーツァルトらしいモーツァルトを丁寧に表現した。昨今は、どんな曲でも速いテンポで聞かされることが多いのだが、タカトウは敢えてこれを避け……(中略)……よく計算された緻密な正確さと、清らかな明るさと軽さとが見事に溶け合うバランスの良さ。この、あまりにも有名な宗教曲が、合唱曲の白眉でもあることを改めて思い起こさせる名演である。最後になったが、若きマエストロの解釈に存分に応えた歌姫オギノ・マリナに、最大の賛辞を贈りたい。」

(『月刊クラシック・レビュー』掲載 音楽評論家 ウラベ・ユキヒロ)




(終わり)


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