<3> オケ合わせ~ゲネプロ
2:30PM~4:30PM【合唱+ソリストのオケ合わせ】
合唱のオケ合わせは定刻通りということになった。
入場に時間の掛かる大人数の合唱団は、十五分前には舞台袖に整列していた。
これから入場リハーサルを兼ねた入場でタイムを計り、合唱団にはステージ上のコーラスベンチにて待機して頂く。その間にベンチの不具合等のチェックを済ませ、対処。
定刻三分前になったら、それぞれの係がソリストとマエストロを『お迎え』に走る。
オケは自由集合なので、個人練習のために早々にステージ上に陣取っている者あり、袖で調整中の者ありと様々だ。音出しギリギリの時間に駆け込んでくるツワモノもいるが、遅刻は勿論ありえない。
ハジメは調光室に近い下手側の配電盤の前にいた。ホール付きのアナウンス係とアナウンスの最終チェックをしながら、モニターで合唱団の入場を見守る。タイムキーパーは舞監助手のササキである。
〈コーラス入場完了しました。七分三十秒です〉
回線を開けっ放しにしてあるインカムのイヤホンからササキの報告が届く。
「了解。歌劇場のタイムと変わらないな。足場は?」
〈問題無しです。今から戻れますか?〉
「すぐ行く」
モニター映像でステージ上の様子をざっと確認する。
上手よりの辺り、男声と女声が一列ごとに交じり合っているのはベンチに余裕が無いからだろうか。見た目も良くないし、第一、歌いにくいだろう。あそこはチェックしないと、と思いながらハジメは頭の中でもう算段を始めている。
「いったんステージに戻るから。後はよろしく」
音響係のチーフに言い置いてステージに向かう。腕時計の時刻は十四時二十分を少し回ったところ。
〈ミナガワ君、聞いてるかね?〉
「聞いてますよ。ミズタニさん、何かありましたか?」
ミズタニ御大は、たとえどんな一大事が起きたとしても平然とした声音なので油断がならない。悪い知らせでなければいいのだが。
〈オルガニストのお嬢ちゃんがピンスポ入場を勘弁してくれと言ってきてる。オケと一緒に入場したいそうだ〉
「ソリスト待遇で招いた奏者なのに、スポットライト無しで? そんで、オケと一緒に? そういうわけにはいかないでしょう。挨拶もしたくないってことでしょうか?」
演奏前も演奏後も、客席からの拍手を受けて挨拶―――お辞儀をするのは指揮者とソリストとコンサート・マスターだけである。オケの代表としてはコンマスが、合唱の代表としては合唱指揮者が代わって拍手を受け、挨拶をする。
〈ソリストとして挨拶をしたくないとかいうことじゃなくて、ピンスポが嫌なんじゃないかな。あれは、《アマゾンの女王》に気兼ねしてると見たね〉
インカム越しに、ざわざわっと複数の声が重なってハジメの耳に届く。「アマゾン」と、思わず繰り返す者、プッと吹き出す者。……いったい何人がこの揶揄に耳をそばだてていたものやら。
「ミズタニさん、誰が聞いてるか分からないので言動には御注意を」
〈それは済まなかったね〉
少しも済まなかったとは思っていない口調で返されて、ハジメは苦笑した。
「オルガニストは、確かもう入場してますよね?」
〈たった今、誘導係が伝令に走って来たんだよ〉
「その件は保留にしておいて下さい。そうだなあ、入場・挨拶の時にシーリングライトを明るめに当てるのはどうでしょうかね? それならピンスポットほどの仰々しさは無いし」
〈それでいいんじゃないかな〉
「それじゃ、そのセンで説得してみます」
演奏者には憂いなく、できれば気分良く本番を迎えて欲しい。だから希望は出来るだけ叶えてあげたいが、譲れない線もある。そのあたりの兼ね合いが難しい。納得してもらえるといいのだが。
ハジメが下手側の袖口からステージに入って行くと、合唱指揮のイワブチ氏が合唱団員に指示を出しているところだった。
「端っこの人は落ちない程度にギリギリに座ってみて。足場の悪い人がいたら手を上げて教えてね。うん。これでバランスが良くなった。でしょ、ミナガワ君」
イワブチ氏は、いつものようにニコニコとハジメに話し掛けた。この人が怒っているところを見たことがない。
「はい、ありがとうございます。申し訳ありません。うちの助手が気が利かなくて……」
「立派にやってるでしょ。『歌姫苦情係』」
「……恐れ入ります」
「君は『マエストロ苦情係』から『腹心の部下』に昇格したって?」
「とんでもない!『苦情係』のままですよ」
「御謙遜。タカトウ先生の控え室にフリーパスだって聞いてるよ」
そんなことまで、と少し慌てるハジメである。
「……イワブチ先生、情報通ですね」
すると、合唱指揮者は得意気に胸をそらした。
「ミズタニ御大とは飲み友達でね」
「なるほど」
そんな会話を交わしながらも、ハジメの目はオケのメンバーが揃っているかどうかを確認している。大丈夫。ちゃんと揃っている。コンマスのノナカが立ち上がってチューニングを始めた。――――時間は。三分前になるところ。
「それじゃ、『苦情係』はマエストロをお迎えに行って参りますので」
「いってらっしゃい」
ツキノワグマの合唱指揮者は、首の月の模様の辺りをコリコリと掻きながら微笑んだ。
タカトウは指揮台に立つなり、すぐにタクトを構えた。
合唱のオケ合わせは、オケとソリストが仕上がっているという前提のもとで、合唱パート中心に行われる。
「ソリストと合唱の合わせを先にやってしまいます。それでは一曲目『INTROITUS』、前奏から」
七小節の前奏のあと、バス・パートの歌い出しがホールに響く。そこにテナーが被さり、アルトが追い掛け、最後にソプラノ・パートが加わって四声部のコーラスになっていく。二十一小節からはソプラノのソロ。
さて、プリマドンナ・アマゾネスは、今度はどう出るのか―――――――。
「それでは十分間の休憩です!」
オケと合唱団の拍手に送られてソリストたちが退場して行ったあと、ハジメはステージ下から声を張り上げて休憩を告げた。
ソリストを交えての合わせ練習は拍子抜けするくらいあっさりと、何も起こらずに終了した。
(〝威嚇″は充分に済んだ、ということなのかな?)
……やれやれだ。休憩のあとは合唱とオケだけの合わせなので、トラブルの心配は無いだろう。
全曲に渡って極端に遅いテンポを指示してきたマエストロに、オケ同様、合唱団でもそれなりの混乱はあったと聞いている。しかしイワブチの指導の下、すぐにまとまったという話だ。
(あとはゲネプロを残すのみ、か)
マエストロと打ち合わせをしているイワブチ氏を頼もしく眺めるハジメである。
(あ。オルガニストの御機嫌伺いに行かなくちゃだった)
ゲネプロ開始までに済ませて置くべきことのリストがハジメの頭の中で慌しく捲られていった。
6:00PM~6:45PM【ゲネプロ(総稽古)】
指揮者によってはゲネプロを本番通りに丸々やることもあるが、マエストロ・タカトウのゲネは全体を流す感じで終えてしまう。その分オケ合わせに時間をとるタイプなので、時間配分も、そのように考慮されている。
各曲の出だしだけをさらって行きながらゲネプロは順調に進み、最後にカーテンコールの打ち合わせが残った。
本公演の舞台である歌劇場では、ソリストが一旦退場してからコールに応えて再入場するのが慣例だが、《ドゥオモ》ではどうするか。バルコニーへの再入場か、それともステージまで降りて来てコールに応えてもらうか。
ソリストの意見を聞きたいところだったが、誰もがアマゾンの女王を意識して口火が切れない。なにしろ今日、彼女はまだ一言も口を利いていないのである。
ここは自分が討ち死に覚悟でお伺いを立てるべきかと、ハジメが腹を括った時。
「私はステージに降りたいわ」
オギノ・マリナが微笑を浮かべて提案をした。
………これは、本番を前にしての、プリマドンナの側からの『譲歩』と見るべきだろうか?
調光室でも、この肩すかしに、ミズタニとササキが思わずといった調子で顔を見合わせていた。
「不気味ですよねぇ。絶対に何かありますよ」
「だから言ってるじゃないか。本番ではアッと言わされるって」
「うわあ。それってミズタニさんの《予言》だったんですか?やだなあ。冗談かと思って聞いてたのに。ぶるぶる……」
尻尾をお尻の下に巻き込んで全身を震わせるササキに、ミズタニは何でもない口調で告げた。
「お手並み拝見、だな」