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<2> 休憩時間

【 休憩時間 】



「失礼します。舞台監督のミナガワです」

 ノックを軽く三回。それから名前を告げて、返事がなくてもそのまま入る。マエストロ・タカトウの控え室への入室に際してフリー・パスなのはハジメただ一人だ。

 『お籠もり中』のタカトウは、ソファーに浅く腰掛けて腕組みをし、目を閉じていた。

 ハジメは出直すべきかと一瞬迷ったが、マエストロは眠ってはいなかった。大儀そうに瞼が持ち上がり、その奥から疲れた眼差しが現れる。

「こっちへ来い。話が遠い」

 少しハスキーな弱々しい声に、ハジメは眉をひそめた。

(相当こたえてる?)

 心配が顔に出ないように気をつけながら、事務的な態度と表情を崩さずにタカトウの傍らに歩み寄る。

「ソリスト合わせが早く終わったので、先生さえよろしければゲネの開始を繰り上げるように変更指示を出しますが、いかがでしょうか」

「そうだな………」

 それきり黙ってしまったタカトウの返事を待って、ハジメは静かに立っていた。

 若い舞台監督は、いつでも臆することなく真っ直ぐに憧れの眼差しを向け、マエストロは目を閉じてそれを受け流す。このバランスが二人の関係を安定させていた。

 傍目には一方通行に見える感情のベクトルは、だが、目には見えない複雑な軌跡を描いて二人の間を巡っているのだったが。

(マエストロ―――巨匠―――。芸術家。線の向こう側の《英雄》。俺とは無関係な、別の世界の住人……)

 何も始まらない安心感は、どこにも繋がらない虚無感とワンセットでハジメのポケットの中に安らかに収まっている。「世界が違うのだ」と、線を引くことによって安全圏に身を置くのは無意識のことだったが、狩りをする種族の習性としての用心深さからだったかもしれない。

 闘争本能、好奇心、自制、葛藤、抑圧、プライド。何を押さえ、何を解放したら相応しいのかを決めるのは誰だろう。何かを実現するために必要なもの、不必要なものはあるのだろうか。

 答えは昼の月のように中天に霞んでいる。

(誰にも何も言えやしない。言うべきでもない)

 ハジメは思う。一般常識から言えば考えられないような態度も言動も、芸術の前には瑣末なことなのだ。おそらくは。






「だいたい、歌いたくないなら歌いたくないで、事前にキャンセルしてくるべきでしょ?本番三日前だろうと関係ありませんよ。モツレクですからね。代役を探すことは不可能じゃないでしょうよ」

「甘いなササキ君。新劇場のこけら落とし公演だよ。ただ『歌えます』ってだけじゃあ、お断り。オギノ・マリナくらいのネームバリューと実力が無くてはな」

「……そんなの分かってますよ。ただ言ってみたかっただけなんですってば」

 舞台照明の根城であるところの調光室では、愚痴りに来たササキを照明チーフの老ビーバー、ミズタニが相手をしてやっていた。

 ミズタニは歌劇場の照明チーフを後進に譲り、新米ばかりを引き連れて新劇場ドゥオモに移ってきた。しごき甲斐のある若手をこれから仕込んでいくのを楽しみにしている大ベテランだ。

 一体どのくらいの年齢なのか誰も知らないという伝説の御大は、厳しい親方でありつつも懐の広い相談相手であり、悩める若者達に良き指針を与える先達者である。

「まあ、見ててごらん。キツネ美女はなかなかクセモノだ。本番では誰もがアッと言わされるぞ」

「……言わされたくないです」

「そうだろうね」

 ミズタニは苦笑しながらヒゲをはじいた。

「ササキ君にはまだその余裕が無い。そこが舞監と舞監助手の差だね」

「そりゃあ、ミナガワさんは俺なんかよりずっと苦労人ですからね」

「いやいや。ミナガワ君も《ドゥオモ》に来るまではササキ君と五十歩百歩だったよ。本当に、ついこの間まではね」

 ササキはうろんげな眼差しでミズタニを見やった。伝説の御大の言う『ついこの間』が、新人君には十年とか二十年とかいう単位に思われたので。それは当然のこと、その通りであった。御大はササキの視線を受け止めて、実に愉快そうに笑った。それは何の遠慮もない心底楽しげな笑いで、ササキに小さな溜め息をつかせたのだった。






 タカトウは舞台監督の肩口に噛み付いた。

 退化した牙とは言うものの、それなりのダメージはある。ハジメの口から押し殺した苦鳴が上がると、若いライオンはハッと我に返った気配だったが、次の瞬間、力を失い、カクリと膝が折れて前のめりに倒れ掛かる。ハジメはマエストロをあやうく抱き留めた。傷から滲み出した血がハジメのTシャツの肩を薄っすらと染める。瞬間的にピリッと痛みが走ったが構ってはいられない。

 決して軽くは無い身体を半ば引き摺るようにしてソファーまで移動した。頭を低くして寝かせてやって、襟元を緩める。

 マエストロは茫漠とした眼差しを天井に向けているばかりだ。意識は失っていないから大丈夫だろうと判断する。脈は―――――速い。

 ハジメは冷蔵庫をあけてミネラル・ウォーターのボトルを取り出した。口を切って、マエストロの傍らに戻る。

「タカトウ先生、水です。少し飲みますか?」

 手に手を添えてボトルを持たせてやり、タカトウの目に少しずつ焦点が戻ってくるのを見守った。

「…………………」

 血の気の無い口元が何か言葉を紡いでいる。

「何ですか?」

 ハジメはマエストロの口元に耳を近付けた。

「……言葉が通じない相手には………心も通じない道理だな」

 聞こえるか聞こえないかの呟き。

 戸惑うハジメの首にタカトウの腕が巻きついてきた。体を起したいのだと察して背中を支えてやる。

 凭れ掛かるようにして上体を起したタカトウは、やがて長い溜め息をついた。金のたてがみがハジメの肩口に伏せられる。子供が母親に甘えるような仕草だ。

「僕は、たぶんどこかでやり方を間違えたんだ。……きっと何か別な方法があったはずなのに」

 独り言のようだが、どこか甘えたような響きがあった。タカトウはそのままの姿勢で、ずっと動かない。

 ハジメは目を閉じて肩の力を抜いた。ソファーの背に体重を預けて、母ライオンになったつもりでマエストロを抱き留める。

 やがて静かな規則正しい寝息が聞こえてきた。




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