<1> オケ練習~ソリスト合わせ
登場人物が人間ではないのでラブシ-ンに相当するものはありませんが、恋愛感情らしきものを示唆する表現を若干含みますことをご承知置きください。但し、作者としては、普通に読んでもいっこうに差し障りが無いという認識でおります・・・。
9:00AM~12:00AM【オケ練習】
「今のでOKです。それでは次、『Sanctus』行きます」
タカトウ・トモノリはタクトを構える。
金色のたてがみがふわりと翻って背中に流れた。振り下ろされたタクトに導かれてオーケストラは歌い出す。荘重に、そして敬虔に、それでいて適度な軽さを湛えながら。
(やっぱりこのテンポで正解だった)
コンマスのノナカ・ミヤオは、気持ち良さにゴロゴロと喉を鳴らしたくなるのをぐっとこらえて目を細めた。高揚感に弓使いもますます滑らかになる。
(いい演奏会になるぞ!)
それはノナカだけではなく、オケのメンバー全員の確信するところだった。
今日はいよいよ新ホール《ドゥオモ》のこけら落とし公演、モツレク―――モーツァルト作曲「レクイエム」―――の本番である。
オーケストラの練習は午前中で終了。午後からはソリスト合わせ、続いて合唱団が加わってのオケ合わせのあと、休憩を挟んでゲネプロ―――総稽古―――となる。
(ソリスト合わせが心配の種だけど。あちらさんのプロとしての見識に期待するしかないかな)
三日前の練習でタカトウと真っ向から対立した人気ソプラノ歌手の顔を思い浮かべ、ノナカは眉を曇らせた。ステージ下に目立たないように立っている猫背の黒豹をチラリと見やる。
(ミナガワ君。万が一の時にはタカトウ先生のフォロー、よろしく)
苦労性のコンサート・マスターは心の中でそっと手を合わせた。
(指揮者にライオンが多いってのは当たり前なのかな)
舞台監督のミナガワ・ハジメは、そこが定位置のステージ下(指揮者席のすぐ真下)でタカトウに視線を当てながらそんなことを考えていた。
オーケストラの総意に反する横暴さ、と糾弾されかねない批判の嵐が吹き荒れたのが、つい一週間前。しかし、頑固と横暴は威厳と統率力とに評価し直され、昨日までの敵であった〝生意気な若造″は、今日の友どころか、〝若き英雄″として絶大なる支持を受けてオーケストラの頂点に君臨している。百獣の王たる証しの光栄と尊厳とをその身に照り輝かせて。
容姿も若さも、あるいは性格の良し悪しでさえも問題にはならないのだった。問われるのは才能のみ。
(極論、人柄よりもまずは才能ってこと?特殊な世界だよなあ)
音楽芸術に携わる人々を間近に見て、それを裏から支える仕事をするハジメは他人事のように慨嘆するが、まだまだ駆け出しのつもりでいたハジメも、いまや舞台監督の重責を担うまでになっている。
今日という日を迎えるまでに、出演者は言うに及ばずだが、裏方にも裏方なりの苦労があった。この公演を成功させたい。ハジメは心からそう思っている。
責任ある立場としての仕事上のことだけではない。この曲が好きだから。タカトウ・トモノリという指揮者によって命を吹き込まれようとしているこの曲、モーツァルトの『レクイエム』が。
ハジメはTシャツの上から右肩をそっと押さえた。そこには、まだ生々しい噛み痕が幾つも散らばっている――――――。
1:00PM~2:00PM【ソリスト合わせ】
事務局長のコンノ・ダイジロウ自らが丁重にお出迎えしたソプラノ歌手のオギノ・マリナは、腫れ物に触るような扱いでホールに案内されて来た。
金色のふさふさした尻尾を持つ美貌のソプラノ歌手は、すらりと背が高く華奢な体付きなのに豊かな声量でたっぷりと歌い上げる、若手の中では人気・実力ともにダントツの『美しき歌姫』である。
しかし胃弱の事務局長にしてみれば、腫れ物どころか時限爆弾並みの厄介物だろう。
(美男美女だから、並べるとすごく絵になるんだけど。とにかく相性が悪すぎ……)
ハジメは黄金のたてがみも美しいマエストロと、つんと尖った鼻のキツネ美女をこっそりと見比べて、最悪のシナリオを予想する。
(―――本番目前で、またもや正面対決?)
それはハジメ一人の取り越し苦労ではないようで、眉を八の字にしかめて胃の辺りを手で押さえているヒグマの事務局長などは今にも倒れそうなほど顔色が悪いし、コンマスで日本猫のノナカ・ミヤオは、緊張が募ったのか目を細めてクーッと伸びをしたあと、今度はさかんに毛づくろいをしているのだった。
あちらでもこちらでも、グルーミングに余念のない団員たちの姿が見受けられるのも、不穏な空気に毛が逆立つからに違いない。
バックステージ通路から続く階段を案内して、通称《聖歌隊席》へとソリストを誘導しているのは、舞台監督助手のササキである。
テナガザルのササキは身が軽く腰が低いというので、この大役を仰せつかった。表向きは『ソリスト席誘導係』だが、実際には『歌姫苦情係』だったりする。
ステージ正面のパイプオルガン席よりも、やや下方に設えられた三箇所のソリスト・バルコニーは、空中に張り出した形でステージの真上に等間隔に並んでいる。
正面バルコニーにソリスト四人が揃うと、オーケストラのメンバー達は上を見上げながら拍手で迎えた。ソリストたちは軽く手を振ったり、会釈を返したりして、にこやかに応えている。―――――プリマドンナ・マリナを除いては。
(さあ、始まるぞ)
一部始終を視界に収めながらも見なかったふりで、ハジメはインカムのマイクを通して照明の指示を出す。
「正面バルコニーにシーリングライト当ててみて。ん?弱くていいよ。明るすぎると変だろう」
ライトの円が四人を捉えようとして徐々に直径を拡げていく。オルガン席にも同時にライトが当てられ二つの円の大きさが揃えられた。
だが、〝弱く″の指示が曖昧だったようだ。ぽっちゃり太ったタヌキのアルト歌手が、目の上に掌をかざして眩しげにしている。
「眩しいみたいだ。光量落として」
そう指示してやると、すぐさま二つの円はぼんやり霞んだ。今度は大丈夫のようだ。
ハジメは天井を振り仰いで「すみませんでした!」と声を掛ける。気さくなタヌキ嬢は「ありがとう!」と返してきた。
そんな一幕があってもオギノ・マリナは楽譜に目を落としたまま顔も上げなかった。
(この前は無関係なスタッフにまで当り散らして大騒ぎしたのに、今日は人が変わったみたいに大人しいじゃないか)
どうにも嫌な感じがした。―――――嫌な予感というのは大抵あたるものである。
ソリスト合わせが始まって、それはすぐに明らかになった。歌姫は回りくどいやりかたでもって、再びマエストロ・タカトウに喧嘩を売ってきたのだ。
結局のところ彼女の選択肢は二つに一つだ。すなわち、マエストロの指示通りに「歌う」か、降板してしまって「歌わない」か。そして、降板しないと決めたのならば、プロとしては、本番に向けての最大限の努力をして然るべきところだが、彼女は駄々っ子のような反撃に出たのである。すなわち、『私は本当は歌いたくないの!』という言外の抗議として、無難に合わせるだけのまるでやる気の無い歌い方、という方法で………。
(彼女にはプロとしての責任感は無いのか?今日のコンサートだって、彼女の歌が聞きたくてチケットを買ったっていうお客さんが大勢いるはずなのに!)
ハジメは心では勿論、相当に憤慨していた。グルル……と喉元までせり上がる唸り声を必死の思いで押さえ込まねばならないほどに。
しかし当のマエストロ・タカトウは、眉一つ動かさずに黙々と指揮をしていた。そして声を荒げることもなく、むしろ穏やかに、彼女に語り掛けた。
「オギノさん。いつものきらびやかな美声は要りません。むしろどこまでも透明で清澄な響きが必要です。表現したいのは『敬虔な祈り』ですから」
プリマドンナ・マリナは、だが、これにも完全無視で答えた。
(信じられない………)
ハジメの心の呟きは、その場にいる者全員の心の声だったろう。事態は全く絶望的だった。
先にキレるのはマエストロか、それとも歌姫か………。一触即発の緊張感がみなぎる中で、誰もがポーカー・フェイスを顔に貼り付けて、表面上は何事もないように振る舞っていた。薄氷を踏む思いで神経を擦り減らしながら。
こうしてソリスト合わせは粛々と進み、予定していた時間よりも、ずっと早く終了した。