8 美しき次男坊の大ピンチ
どうして仰向けに横たわっているのか。
目覚めた桔梗は現状を把握できないでいた。
ぼうっとした頭で思い出そうとしていたとき、ふと天井に見知った顔があることに気づいた。
それは写真のようだ。
大小さまざまなのに、均等に貼られているのに気味悪さを覚えた。
そして、その写真に写る人物は皆同じ人物のようだ。
『見覚えがある』
桔梗はその顔を眺めながら、どこで見たのか考えた。
そして、ハッとする。
「僕や・・・」
掠れた声が出て驚いたが、それ以上に天井だけではなく横の壁にも沢山の写真が貼られていることに気が付いた。
「あれま・・・」
部屋は一面、桔梗の写真が貼りつくされていた。
桔梗は身体のだるさを感じながらも、何とか上半身を起こして、目の前の光景に暫し唖然とする。
それぞれの写真は記憶にないものばかりだ。
カメラの方を見ていない自分の姿を見て、それらは隠し撮りされたものだと確信できた。
「気がつきました?」
突然声がして桔梗は心臓が跳ねるのを感じた。
しかし、声の主を確認してホッとする。
「先生」
部屋に入って来たのは桔梗の担任、吉川だった。
いつもスーツ姿だから、パーカーを着たラフな服装だと一層若く見える。
吉川は桔梗ににっこりと笑いかけながら、ベッドの脇のテーブルに持ってきた紅茶とケーキを静かに置いた。
「先生、ここは?」
「僕の家ですよ」
桔梗はどうして自分が吉川の家にいるのかまだ思い出せないでいた。
「食べましょう」
吉川の担当科目は現代国語だ。
神経質そうな細い目にきっちり分けられた黒髪、分厚そうな眼鏡もかけているから、見た目だけなら理数系の先生に見える。
確か二十五歳と言っていたが、今は髪型も崩れて大学生のような風貌だ。
「今何時ですか?」
ひとまず現在の時刻が気になり、吉川に問いかけた。
吉川はティーポットから紅茶を注ぎながら答えた。
「もうすぐ六時です」
『嘘だ』
違和感が身体中を駆け巡り、桔梗はやっと恐怖を感じた。
桔梗の腹時計はものすごく正確だ。
朝は五時半。昼は十二時。そして夜の六時。
きっちりこの時間に腹が減ってぐうぐう鳴るのだ。
ところが、その兆しもなければ、何ならすでに通り越したような感覚があった。
六時をとっくに超えているはずだ。
「最近、大和君を見かけなくなりましたね」
注がれたカップは桔梗側に寄せられたが、とても飲む気にはなれない。
大和とはヤマのことで、他の学校なのにしょっちゅう敷地内に入ってくるから教師に目を付けられていた。
当然担任の吉川も彼のことを知っていて、気にかけていたのだ。
しかし今はヤマの話などどうでもいい。
「何で僕の写真がこんなにあるんですか?」
「うーん・・・」
吉川は少し考える素振りを見せた後「君の顔が好きだから」と言った。
「なるほど」
桔梗は納得した。
遠回しに言われるよりも、はるかに分かりやすい。
「気持ち悪いって思います?」
恐々尋ねるわけでもなく、嬉しそうに聞いてくるのが不思議だ。
吉川は桔梗の方を見やった。
この部屋に入って、初めて視線が交わった。
「家に帰りたいです」
目を見てはっきり告げたのに、吉川は「もう少しだけ」と取り合わない。
窓もないこの部屋は圧迫感がある。
出口はドアしかないが、細身と言えど自分よりも身長の高い大人相手に簡単に突破できるとは思えない。
どうしたものかと桔梗が頭を抱えていたら「そうだ!」弾んだ声が聞こえた。
「月城君に似合うと思って、買っておいた服があるんです」
「え?」
「ちょっと待ってくださいね・・・」
すると、吉川は何やら棚の方をあさり始めた。
今だ!
その隙に桔梗はドアの方に走ろうとしたが、すぐに前のめりに転んだ。
「いった・・・」
何かが足に巻き付いている。
後方を見やって血の気が引いた。
手錠のようなものでベッドと右の足首が繋がっていたのだ!
驚いて固まっていた桔梗だが、恐ろしく低い声が耳に届いて身を縮まらせる。
「逃げないで・・・・」
「わっ!」
「ここに居たらいい。先生と一緒に暮らそう」
「へ・・・?」
「勉強は先生が教えるし!あ、何でも買ってあげる!月城君はショートケーキが好きだって聞いたから、これも用意したんだよ」
桔梗は何も言葉が出なくなった。
目の前の吉川は桔梗が知っている「吉川先生」とかけ離れていて、頭が追い付かないのだ。
桔梗はまるで走馬灯のようにこれまでの苦労が思い出された。
本当に色んなことがあった・・・。
付き纏われたり、変なものを見せられたり、髪の毛が入った食べ物を危うく口に入れそうになったこともあった。
自分の隠し撮り写真だって、初めて見るわけではなかった。
しかし、目の前にいるこの男はどこか理性を失っていて、密室に二人きりという状況も初めてのことだった。
いつも椿や良太が守ってくれた。
康太が隣に居てくれた。
最近は強くなった祖母、梅までもが・・・。
怖いと感じる隙もなく、側にいてくれた。
それを当たり前だと思っていたことに桔梗は初めて気が付いた。
全然当たり前なんかじゃなかったのに!
吉川が恍惚とした表情でじりじりと詰め寄ってくる。
「ああ、綺麗だ。本当に君はなんて・・・天使みたいだ」
桔梗は吉川に触れられたくなくて、必死に後ずさった。
「来ないで・・・」
震える手を握りしめて声を振り絞った。
「助けて・・・!」
次の瞬間、ドン!という床から響くような音がした。
驚いた吉川の動きが止まった。
「な、何だ?」
最初、二人は地震かと思ったが、もう一度ドン、という音が鳴り響き、それは扉の方から聞こえていることに気づいた。
誰かが扉を破ろうとしている!
「だ、誰だよ・・・・」」
吉川の白い顔は白を通り越して青くなっている。
「きいいいいい!!」
扉の向こうで聞こえる野太い声は間違いない。
「ばあちゃん!」
「ばあちゃん!?」
吉川は思わず聞き返した。
その声は男性のものにしか聞こえないし、木造といえど固い扉だ。
なのに振動が加わるたびそこにひび割れが生じている。
「や、やめろー!」
吉川の声が届くはずもなく、とうとう扉は蹴破られた。
「きいいいいいいいいいいい!!!」
梅と一緒に、椿、良太もなだれ込んだ。
「きい!大丈夫か!?」
目の前に弟の姿を確認した椿は心から安堵した。
思い切り抱きしめて「よかった」と呟いた。
「つうちゃん」
ホッとしたのは桔梗も同じで、手足の力が抜けていくのを感じた。
梅は桔梗の足につけられた手錠を一瞥して、すぐに引きちぎった!
そして、青筋を立てながら吉川の方にずんずん詰め寄る。
「おい、これはどういうことや?」
「いや・・・」
「どういうことやねん!!」
その後は言わずもがな、梅の一撃で吉川はノックアウトされた。
そして皆がその部屋の異常さに気づき、暫し愕然とする。
「悪辣な!」
ついてきていたヤマが写真を引きはがそうとするのを椿と良太は二人がかりで押さえた。
「状況証拠だ!じっとしとけ!」
本当に間に合って良かった。
ホッとしたのか、椿は足元がぐらついて倒れそうになった。
それを良太がさっと支えてやる。
「もう大丈夫だ」
「・・・すまん」
ここにたどり着くまで、本当に目まぐるしかった。
職員室に戻った梅は吉川の住所を聞き出して、勢いよく走り出した。
そのペースについていけたのはヤマだけで、椿と良太は途中ついていけなくて足を止めてしまった。
その二人を両脇に抱え、梅は吉川のマンションまで爆走したのだ。
当然玄関の扉も破壊したため、近所からの通報で遅れて警察がやって来た。
警察に通報するというごく自然な思考回路に至らなかったのは、確実に梅の存在があるからだと椿は認めざるを得ない。
警察と一緒に救急車も出動していたようだが、桔梗は何もされていないからと乗車を拒否した。
「大丈夫や。それよりお腹空いた。お腹と背中がくっつきそうや」
良太だけ先に家に帰し、月城家は目撃者のヤマとともに警察に向かった。
警察で聞き取り中に、かつ丼を食べたらやっと桔梗の腹は落ち着いたようだ。
もっと食べてもいいよ、とデザートまで用意されている様子を見たら、気が抜けてしまった。
帰り道疲れ切った桔梗は眠ってしまい、梅の広い背中に背負われて帰った。
「ヤマ、今日は本当に面倒をかけた」
途中、椿はヤマをタクシーに乗せて頭を下げた。
「やめてくださいよ。桔梗が無事で本当に良かった」
「ああ」
「それより、この後桔梗の側にいてやってくださいね」
「え?」
「多分、恐怖は拭えてないはずですよ」
ヤマの言葉に椿はやっとこのモヤモヤとした想いが何なのか分かった。
桔梗が無事なのに手放しで喜べないのは、桔梗の心が心配でたまらないからだ。
明け方、桔梗がうなされているのに気づいた椿はその苦しそうな顔を見ていられず、揺さぶって起こすことにした。
「きい、きい!」
「・・・つうちゃん」
やっと目覚めた弟を椿はギュッと抱きしめた。
そうすることしかできなかった。
「怖い夢見た」
「うん・・・」
軟禁されたのだ。
やはり平気なわけがなかった。
病院に連れていけば良かったと後悔していたところに、声が降って来た。
「つうちゃん、きいくん」
騒がしかったのか梅も起きてきて、部屋の前に立っていた。
「ばあちゃん・・・」
梅は天井に頭がぶつからないように、少し首を傾けながら部屋に入って来た。
「ばあちゃん、ごめん起こして」
すると、梅の目からつうっと流れるものが見えた。
「ばあちゃん!?」
梅は涙を拭うことなく、ポツリと呟いた。
「ばあちゃんな、怖いんや」
ムキムキになった後、梅が涙する姿は初めて見る。いや、それ以前にも見たことがなかった。
「言い伝えのこと、聞いたんやろ?」
梅に問いかけられて椿の顔がさっと青くなった。
どうやらこそこそ探っていたことも気づいていたらしい。
「ご、ごめん。勝手に色々調べて・・・」
「ええんや。言わんかったばあちゃんが悪いんや。でも、巻物はここにはないんや」
「え・・・」
「何年も前に大阪の菩提寺さんに預かってもらったんや」
「そうだったんや・・・」
椿は「どうして?」という言葉を続けることができなかった。
梅が吐き出すようにこう呟いたからだ。
「また守れんかったら、どないしようって、怖いんや」
「・・・」
言い伝えを聞いていた桔梗は腕の半月の痣がある部分を無意識に手で覆っていた。
「ばあちゃん気に病まんといて」
桔梗は立ち上がって、静かに泣く梅の元へ駆け寄る。
「これが怖いならレーザーで消すし、難しいならタトゥー入れるし」
「きいくん・・・それはあかん。身体を傷つけるようなことはせんでええ」
「それでも、ばあちゃんが躍起になって無理するほうがしんどいんや」
桔梗の声は震えていた。
結局、そのまま寝付くことはできなかったが、休日の朝ということもあって三人は十時過ぎには朝食を食べることにした。
先刻のしんみりとした雰囲気を引きずるなか、椿の携帯が鳴った。
「良太?」
「椿、今日家に行ってもいいか?」
「いいけど、どうした?」
「・・・行ってから話す」
十五分ほどで着くと言われ、電話を終えた。
「良太君?」
「うん。どうしたんやろか」
いつもと違う声色に、椿の胸は少しざわついた。