2 泣き面に蜂の朝
最寄り駅までは徒歩十分の距離だ。
いつもはのんびり歩いて行くのだが、今日は少し駆け足になった。
「くそ!少し横になるつもりが・・・」
椿も普段の寝不足がたたっていたのか、桔梗と一緒に一時間たっぷり眠ってしまったのだ!
梅に起こされて、急いで家を飛び出した。
「駅まで走れるか?」
「うい・・・」
眠気眼の桔梗の腕を引いて、小走りで駅まで急ぐ。
桔梗は基本的にマイペースで今も完全に椿任せだ。
綺麗な顔に鼻ちょうちんを作っているのを見て椿は気が抜けそうになったが、急いで切り替える。
この時はまだ気がついていなかった。
椿も焦っていたのだ。
桔梗の帽子を忘れるなんて・・・。
平日の通勤、通学ラッシュの時間はそれでなくても駅に人が溢れる。
住んでいる地域が都心とは少し外れた場所にあっても、都心方面に向かう電車はいつも満員だ。
いつもよりも遅く家を出たためラッシュと重なってしまったのは仕方がないが、
駅までの道すがら、どうも通り過ぎる人々の視線が気になった。
『もう絶対に二度寝はしない!』と心のなかで呟きながら更に加速する。
走った甲斐もあって、思っていたよりも早くに駅に到着した。
満員電車は避けられないが、始業時間には余裕で間に合いそうだ。
ホッとしながら、桔梗に声を掛ける。
「ほら、きい!定期・・・」
手を引いていた弟を振り返った瞬間、椿はやっとその異変に気づいて「ああ!」と叫び声を上げた。
「つうちゃん、どしたん?」
「きい、その顔!」
「・・・あ」
桔梗の美しい顔がむき出しのままだったので、椿は仰天した。
椿は鞄のなかのものを全部放り出す勢いで確認したが、探し物は出てこなかった。
「帽子がない!」
「家に置いてきちゃったね」
他人事のように呟く桔梗に椿はがっくり項垂れる。
「きい~!気づいてくれよ」
「忘れてた」
以前から桔梗への付き纏い被害が絶えなかったため、ひとまず帽子を被らせているのだがこれが急ごしらえの措置としてはなかなかに良かった。
本当は車で送迎できたらいいのだが家族で運転が出来る者などいないので仕方がない。
ひとまず予備のマスクをつけさせて安堵したのも束の間、「桔梗!」と荒々しい声が降って来た。
「げ・・・」
「あれ、ヤマ君」
そのでかい声にようやく桔梗が覚醒したようだ。
パッチリとした目が見開かれた。
瞳の色は薄く、茶色よりも黄色に近い。
光に当たるとキラキラしてい見えた。
長くてフサフサのまつ毛は瞬きする度に揺れている。
わざわざ改札から引き返してくる集団の先頭はよく知った顔で、桔梗が『ヤマ君』と呼ぶ男だ。
桔梗と目が合ったからか、その少年は顔を真っ赤にして満面の笑みでこちらにやって来た。
「桔梗!珍しいなこの時間に会えるなんて」
「そうだね。久しぶり」
その少年は桔梗と同じ年なのだが、とてもそうは見えないほどに体格が良い。
緊張させるような雰囲気を纏いながらも、穏やかな垂れ目のおかげ近寄りがたさを軽減させている。
しかして、中学生でこんなにオールバックが似合う奴を椿はこの少年以外に知らない。
『モテるだろうに、この暑苦しさがなければ・・・』
椿はヤマと遭遇する度にいつもそう思うのだった。
ヤマは椿の方を一瞥して「ああ、椿先輩も一緒ですか」と声を落とした。
苦々しく言いながらも敬語は忘れない。
「ああ。そっちの学校は始業時間もうすぐだろう」
「まだ大丈夫です」
嘘つけ・・・。
椿は心のなかで白目を剥いた。
どうせ、またサボりだ。
こんな奴に可愛い弟は関わってほしくない。
椿は苦笑いで応戦する。
「早く向かった方がいい。俺たちとは方向も逆なんだし」
「あ、実は今日創立記念日で休みなんです!」
「じゃあ何で制服着てるんだよ!」
「いや、間違えますよね。毎日学校行ってると!ハハハ!」
でかい声で笑うもんだから耳を塞ぎたくなる。
こうも堂々と嘘をつかれては、反論するのも馬鹿馬鹿しくなるものだ。
「ヤマ君、こいつ誰っすか・・・?」
取り巻きたちのなかには、桔梗を初めて見る者もいるのか、一人が桔梗の顔にくぎ付けになっている。
「馬鹿野郎!こいつって言うんじゃねえ!」
ヤマは鬼の形相で取り巻きの一人を殴り倒した。
「ヤマ君、叩いちゃあかんよ」
「ご、ごめんよ!桔梗」
桔梗がやんわり諭すと、ヤマは恐らく誰にも見せたことがない顔で桔梗に謝った。
「嫌いになった・・・?」
「ううん」
変わらずおっとりと返事する桔梗に、ヤマの垂れ目が更に下がった。
これは後ろに控えている取り巻きに見せられたものではない顔だ・・・。
桔梗は元々ヤマと同じ中学に通っていた。
それよりもずっと前、月城家は大阪のとある街で暮らしていたのだが、父親の転勤で東京に引っ越してきたのだ。
椿と桔梗が家で関西弁を使ってしまうのは祖母、梅の言葉遣いがうつったもので、普段は標準語を喋る。
二年前、椿は学費免除で内部進学を果たすために準備に追われる毎日を過ごした。
椿と違って、桔梗の方は勉強に関心がなく、近くの公立中学に進学することになった。
椿は中学校も私立に通っていたため単純によく知らなかったのだ。
世の中には、規律を平気で乱し、ルールや規則を堂々と破る者たちがいることに・・・。
桔梗が進学する公立中学校について事前に下調べが出来ていなかったのも痛かった。
椿は努力の甲斐あって無事に推薦枠で高校に入学できた。
しかし、桔梗に待ち受けていたのは不良たちがたむろする中学校、そしてそのボスであるヤマという男だった。
桔梗は不良集団の頭、ヤマに完全に目をつけられてしまった。
別にいじめられていたわけではない。
ただ、桔梗に一目惚れをしたヤマがまあしつこい!
ストーカーのように、桔梗の周りをうろつくのだ。
ヤマは本当に問題児で、桔梗に相応しいのはどっちだというくだらない理由で他校の生徒の骨を折ったり、歯を砕いたりしたこともあったと言う。
それを耳にした椿は顔面蒼白でこう思った。
『まずい、まずいぞ・・・!このままだと桔梗の身が危ない!』
中学二年生に進級するのと同時に、椿は桔梗に猛勉強させ、自分と同じ私立中学に転入させる気概を見せた。
しかし、ヤマは諦めの悪い男だった。
学校が変わっても待ち伏せをするは、定期的に花を送ってくるは・・・。
自分の存在を植え付けようとしてくるのは本当に止めて欲しい。
学校に、いや警察に相談しようかと思ったこともあった。
しかし、ひどい嫌がらせを受けた訳でもなく、当の桔梗も何とも思っていないのだ。
ヤマが桔梗にはしおらしい態度を見せるのはいいとして、札付きの悪ガキということに変わりはないので、椿としては何が何でも離れさせたかった。
「桔梗、行くぞ」
「うん」
「お兄さんは俺と桔梗が話すのがそんなに気に食わないのか?」
珍しく食って掛かるヤマに椿は驚いた。
これまでは桔梗の兄だからと多めに見てもらえていたのだろうが、我慢の限界が来たのかもしれない。
それに、悪ガキと言えど頭が悪いわけではない。
毛嫌いしていたら相手には伝わるものだ。
ヤマは不満気に椿の腕を掴んで離さない。
三つも年下なのに身長は椿と同じくらいだ。
互いに睨み合っていると、その場は緊張に包まれた。
「離せ」
「答えたら離します」
一触即発の雰囲気に桔梗以外の面々は皆表情が強張っている。
椿はやっぱり焦っていた。
決してヤマのことが怖いわけではなく、何か良くないことが起きるような気がしていたのだ。
それが何なのか分からないけれど、とにかく安心から遠いものに桔梗を近づけたくなかった。
「ヤマ君・・・」
ふいに桔梗がヤマに話しかけた。
ヤマの視線が椿から逸れた隙をついて、椿は桔梗の手を取って駆け出した!
階段を降りればホームだ。
丁度、一分後に電車が来るからそれに乗り込むつもりだった。
ヤマの脇を抜けた後、突然椿の視界がグラついた。
取り巻きの一人に肩を引っ張られたのだ。
「おわっ?」
そこは階段の上部で、気付いたら椿と桔梗の足は地面についていなかった。
椿は何とか桔梗を抱きとめると、全身で弟を庇いながら階段を転がり落ちていった。
本当に一瞬のことで、しんと静まり返った後に、誰かが叫ぶのが耳に入った。
何が起きたのかすぐに理解ができなかったが、ホームの天井を目にして、椿は状況を悟った。
『ああ、下まで落ちたのか・・・』
桔梗は大丈夫だろうか、不安が過った直後、桔梗が自分の上で顔を強張らせているのが目に入った。
『良かった・・・』
桔梗が何やら叫んでいたが、その声が耳に届く前に椿の意識は途切れてしまった。