Extra06 月と黒い森 -3- fin
「ねえ、メル」
ヴィオラが優しく声をかけてくるときはきまって、嫌なことを言われる時だ。私は身構え、表情をこわばらせた。
「エリーをね、しばらくグレイスローズに連れて行こうと思うんだ」
ヤンペルト織物にも似た柔らかさで包み込むようにヴィオラは言った。なぜ、と呟いた私の声を拾ったヴィオラは私の目の前に跪いて、両の手をかたく握りしめる。
「きみは、すこし休息が必要だよ。ラーガもウィルもメルのことを心配している」
「でもわたし、ちゃんとしないと」
あの子は特別な子。澄んだ鈴のような声がいつも頭の中で鳴り響いている。特別な子だから常に完璧でいなくては。特別な子だから厳しくしなくては。それがあの子のためであり、月女神のためだ。
フォレノワール家にの子供には【異能】という女神からの贈り物が授かる。
それなのにまだ、エリーシャにはその兆しが見えない。これは私の教育が行き届いていないせいだと考えていた。
私が「母」として至らないから。それならもっと努力しなくては、死ぬ気で、月女神から「預かった」あの子を育てなくてはならない。
それなのに、ヴィオラは私からあの子を引き離そうとする!
「きらいだわ」
ぼそりと口にした呟きを拾ってヴィオラは表情を曇らせた。
「私はあなたのことが大嫌いよ。ずっと、出会ったときからそう、あなたはいつだって完璧で、綺麗で、ちっとも私には釣り合わない美しい人」
「メル」
「それなのにどうして、どうして私《《なんか》》を選んだの。私より美しい人も、身分の高い人も心優しい人も大勢いたわ! 理由がわからないの。あなたがわからないの。愛しているのに、理解できないの。子供たちのことも、あなたのことも……」
息が出来ず咳き込んだ私の背を優しい掌が撫でていた。癇癪を起すといつもヴィオラは私に寄り添い、なだめてくれた。
エリーシャに厳しく接したあとで、私が後悔してしにたくなるのを見て、必死で抱きしめてこの世界に引き留めようとしてくれた。
あの子は預かりもの。月女神からの大切な贈り物。決して損なってはならない、月女神の現身だから。たどたどしくそんなことを語る私の声をヴィオラはじっと聴いてくれていた。
エリー。
それにラーガ、ウィルバー。可愛い、私達の子供たち。あのこたちはみんな月女神のものだったのかしら。
「そうじゃないよ、メル。エリーは、ラーガもウィルも私達の子だ……ただ少し、お休みを自分にあげよう。あの子にも、お休みが必要なはずだよ」
「……そう、ね」
何度も繰り返し諭されて、私は頷いた。
涙で腫れた瞼にヴィオラはキスをくれる。
「ねえ、メル。私はね……美しい女性じゃなくて、高貴な女性でもなくて。ただひとり、私をじいっと見てくれた君を好きになったんだ。メルディアがよかったんだ。美しい黒髪が羨ましくてね、初めて会ったときはつい見惚れたよ」
「ふふ」
ただの慰めと知っていても笑みがこぼれた。泣き笑いの表情を浮かべた私の頬にも、ヴィオラは口づけた。
「優しくて働き者で、気を遣いすぎてしまう。結婚したらそうはさせないと誓っていたのに、私はいつも間違えてしまっていたね。すまない、メル」
「いいの」
あなたが私を選んでくれたことこそが私の誇りだったのだから。
平民の、しかもあんな十人並みの女と結婚したのよ、と陰口を叩かれるのは確かに辛かったわ。
でも、すり寄って来る女たちにそっけない態度を取ったすぐあとに私にとびきりの笑顔を向けるあなたに砕かれた自尊心はたちまち元どおりになったの。
冴えないと思っていた自分のどうってことのない容姿や気質が、あなたのくれる言葉で宝石みたいに輝き始めるの。
それってとっても不思議で、素敵で、まるで魔法みたい。
「愛している」
「ええ、私も」
抱きしめる彼の腕に応えながら、私は喜びをかみしめる。
私は幸せなのだと言い聞かせる。有り余るほどの喜びに浸っていて見失ってしまう、この当たり前の事実に感謝して生きねばならないのだ、ということを。
「おかあさま、いってきます!」
「ええ。エリー、私のエリー……どうか気を付けてね」
別れのとき、まだ小さな娘を腕に抱いた。細い腕にキスをして銀色の頭にもキスをする。くすぐったいのかきゃっきゃと笑うエリーシャが愛しくて放したくなくて、ぎゅうっと強く抱きしめたくなるのを堪えた。
帝都グレイスローズに向かって遠ざかる馬車に手を振りながら、私は瞑目して天を仰いだ。どうか、あの子をお守りください。誰とは呼ばなくても、祈りは通じたのかもしれない。
『――いつか母のもとに返してもらわなくては』
きこえてきた幻聴のようなあの甘く艶やかな声に、耳を貸さないように私は伯爵邸の門をくぐった。
【"The moon and the forêt-noire" fin.】




