Extra05 月と黒い森 -2-
ヴィオラ・フォレノワールはそれはもう、美しい男だった。
性別を感じさせないほどに彼の美貌は際立っている。州都の娘たちのほとんどが、彼の隣で婚礼衣装を着た自分の姿を一度くらいは想像したことがあるに違いなかった。
ただ私はさほど興味はなかったのだけれど。
まあでも、実物を目の前で見れば考えを改めざるを得なかった。友達のシャーナや従妹のアリっサが騒ぐわけだ。しげしげと水を飲み干す男を見ていると、あの、と再び声をかけられた。
「ありがとう、君は命の恩人だよ」
にっこりと笑顔を向けられるとさすがにくらりと眩暈がした。この手のことに興味が薄い自覚はあったが、美しいものにときめかないでいるというのはそれなりに難しい。
「そんな大げさな」
後退りながら手を振って否定すると、きょとんとしたようすでこの妖精のような男は首を傾げた。だからこっちを見ないで。そう言いたいのはやまやまだが、この男は次期伯爵さまで、父親の主人にもなる男だ。
娘の自分が、自意識過剰気味の変な女だ、などという印象を持たれては困る。
「あの、申し遅れました。私、ナサニエル・ケレントの娘、メルディア、と申します……」
「ああ、ナスのお嬢さんか。こんにちは、お水をどうもありがとう」
「勿体なきお言葉です、閣下」
閣下。普段使わない言葉の上位に来る……そもそも使い方があっているのかもよくわからないが、たどたどしく挨拶をした私をヴィオラは馬鹿にしなかった。
「ねえ、メル」
それどころか思いの外、気安く声をかけてきたのだ。
「――どうやら君に恋をしちゃったみたいだ。私達、結婚するのはどうかな?」
それはビスケットよりも軽い歯ごたえで、夢みたいに甘い誘い文句だったので。
「は……い?」
思わず、私は了承めいた返事をしてしまったのだった。
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ヴィオラは、確かに目を瞠るほどに美しいのだが風変わりな男ではあった。
結婚し、彼のために尽くす日々を送っていても何故だか違和感めいたものをおぼえるときがあった。それは目の前に立つ彼が、彼であって彼でないような――そんな奇妙な感覚だった。
フォレノワール伯爵となったヴィオラの子を私は幸運にも二人も授かることが出来た。しかもどちらも男の子で、嫁としては誰からも文句をつけられようがない立派な働きであるはずだった。
だが、乳母と共に子供をあやしながらついつい考えてしまう自分がいる。
「これ」は何なのだろう、と。
赤子を冷ややかな眼差しで見下ろしていることにはっと気づき、どうかしていると首を横に振る。
長男のラーガも次男のウィルバーも、父親によく似た美しい子供だった。白銀の髪と、深紅の眸を持つ子供たちは黒髪にハシバミ色の瞳の私にはちっとも似ていない。強いて言えば、肌の色ぐらいだろうか。
雪のように白いヴィオラよりも若干、肌がくすんで見えるのは私のせいかもしれない。そんなところで自分の血を感じても嬉しくはないが。
――切れ長の眼がきみにそっくりだ、このさらさらとまっすぐな髪も。可愛らしいえくぼも。
いかにも楽しそうに私に似ているところを見つけてくれるたびに胸がきゅうっとなる。
子供たちは可愛い。乳母に任せきりにするのは性に合わなかったので、一緒に育てたいという望みをヴィオラは承諾したし、忙しくはあったが私の毎日は満ち足りていた。慣れない社交界もヴィオラにエスコートされれば不思議と背筋が伸び、堂々と振る舞うことが出来た。
私の隣にいる男の価値を誰もが疑わなかったし、その誇らしさでどんな嫌味をぶつけられようとも私も微笑んでいられた。
ただそれは、ある日突然崩れた。何もかもが一変する瞬間が――ヴィオラに見初められたのと同じような奇跡がわが身に起きた。
それは、お腹に三人目の子供を宿したときのことだった。
『メルディア・ケレント――騎士の娘。母の子よ、月影の民の末の子らよ』
夢の中で、私は美しい泉の中に立っていた。静謐な空間に満ちる清らかな水はぬるく、私の身体を浸したが心地好さすら感じた。
水面の上に裸足の乙女が立っていた――そのとき直感した。彼女こそが「月女神」、私達が信じ、愛している唯一のよりどころであると。
『そなたの腹に、宿りし者は特別な子なり――』
そのやわらかな髪は銀糸で編まれたの如く月光に輝き、お供である黒い顔、白銀の毛皮の羊を連れて水面の上に立っている。月女神はまさに母に等しき慈愛に満ちたまなざしで私を見ていた。
信じていないわけではなかった。ただ、当たり前に祈りをささげる存在が眼前に立っていることに驚嘆した。そして、畏れた。
『母の現身となる娘が、生まれるだろう』
その子を守り、慈しみ、育てなさい――。
そう言って、月女神はたちのぼった霧に紛れて姿を消し、そして私は夢から醒めて徐々にかたちを成し始めた腹をそっと撫でた。
この子は、特別な子。
月女神の現身――その言葉が頭に焼き付いて離れなかった。




