Extra04 月と黒い森 -1-
領主であるフォレノワール家に仕える騎士であった父は、月女神を信仰していた。母も、羊の世話をしている弟だってそうだ。隣の家に住むハウザーもそうだし、従妹のアリッサもみんなおんなじ。
フォレノワール州に住んでいる者は誰もが、月影の民であった頃の信仰を未だに保ち続けている。
深く考えることもなく、ただ当然のように。
州都に建つヴィーダ帝国教会はいつもがらんとしていて、暇そうな聖職者が欠伸を噛み殺している。
私、メルディア・ケレントもそんなふうに月女神をなんとなく信仰している民のひとりに過ぎなかった。
彼に出会うまでは。
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めえめえと何事かを訴えるような羊の声に、私は顔を上げた。今日は弟が熱を出して休んでいるので代わりに羊たちの世話をしていた。フォレノワール州ではヤンペルト羊の牧畜がさかんで、毛織物の産地として有名だ。
黒い顔と手足が愛らしい羊は時々、ふらりと大陸西端くんだりまで流れてきた画家が絵のモチーフに選ぶこともままあって、貴族たちの間でも知る人ぞ知る、という存在らしい。まあ、私には関係のないことなのだけれど。
私の父親であるケレント氏は、フォレノワールの地を代々治める領主であるフォレノワール伯爵家の縁者。
というわけではなく、伯爵に仕える騎士である。
家柄としてはそこそこ由緒正しいが、地方議会に参加するような立場にもなければ、仕事をしないことが美徳とされるような社会の一員でもなかった。
その証拠に娘である私は工場で、たいていは刈り取った羊毛を毛糸へと紡ぐ仕事をしている。そして別の工場で毛織物を織り上げ……といった具合にフォレノワール州の名産品、ヤンペルト織物が出来上がるのだ。
ヤンペルト織物はふかふかであたたかく、安価なものから高価なものまで製作している。価格の差は工程の量によるものだけれど、貴族向けの高価なものも、庶民向けの安価なものもフォレノワール伯爵家が主導して流通させていた。
ヤンペルト羊はこの地方でしか生育できない希少な種だそうで、毛織物を買い付けにやって来た商人が仔羊を撫でながらぼやいていた。
そういえば確かにこの羊って可愛いのよね。愛玩用にしたとしても人気が出そうなのだけれど、このフォレノワールの地を出ると弱ってしまうことが多いらしい。
商人から聞いた話を引き合いに出して「ねえ、あの子たちペットとして貴族様に売ったらお金になりそうね」と父に冗談めかせて言えば、「神聖なヤンペルト羊をなんだと思っているんだ」とぽかりとげんこつを喰らった。手加減されてはいるのでちっとも痛くはない。
ヤンペルト羊は月女神の従者である星獣グルルートの子孫だと言われている。月女神のそばにいないと弱ってしまうのだ、と父はお説教のように私に言い聞かせたが私は半信半疑だった。
眼前ののんびり牧草を食む羊たちがそんな高貴で神聖な存在とはとてもじゃないが思えなかったのだ。見てよこいつら、すごい間抜けな顔してるし。
なんてぼんやり眺めていたとき、私は異変に気付いた。
その羊に埋もれるようにして、誰かが倒れている。踏み潰されたらたいへんと慌てて駆け寄った私は、羊たちの輪の中心――ちょうど避けるように空間が出来ていたのだ――に横たわる男の姿を見た。
長髪だったけれど、背格好から性別は判明したのだが……それにしても何、こいつ。背は高いようだが全体的に華奢な印象だ。横になっているからわかりづらいが父よりも長身な気がする。
声を掛けるべきか、そのまま放っておくべきか。ド田舎だしよほどのことはないと思うが変なやつだったらどうしよう。
じろじろ眺めているうちに、あることに気付いた。
「羊と同じ、白銀の髪……」
老人、そういうには若い。若すぎる。私よりもいくつか年上程度にしか見えない。ゆえに白髪とは思えない。だとするとこの髪色の持ち主の青年を私はひとりしか思い至らなかった。
「フォレノワールの坊ちゃん?」
「……ヴィオラ・フォレノワールだよ、お嬢さん。あはは、申し訳ないけれどそこの井戸で水を一杯、汲んで来てもらえないかな?」
この情けない男との出会いが私の価値観を大きく揺るがすことになろうとは、このときは思いもしなかったのだ。




