Extra03 任務失敗―原因:酩酊(ユーリス)―
若干の比率いた空気の中、ヴェンダー卿との会話を終えるとユーリスその場を離れた。いつになく冷静さを欠いたユーリスの物言いにひやひやしていたのだが、さりげない日常会話の中で探りを入れることは出来た。
盗み聞きしたわけではなく、直接話しただけなので核心に迫るような情報は得られなかった。失敗と言えば失敗だが――考え込んでいるとふと隣にいる人物から視線を感じた。
「……なんでしょうか」
「変だな」
「はい?」
「君がなんだかいつもにも増して可愛らしく思えるよ」
「……?」
何を言っているのだろう。
からかっているにしては眸がぼんやりしている。悪戯っ子のようにきらきらと輝いてはいない。ぼう、っと何かに見惚れているような。色白だから頬が紅いのがよくわかる。
「ユーリス様、少し風に当たりませんか」
「……君が望むなら喜んで」
思っていた数倍は素直にエリーシャの提案に乗った。夜会の会場のバルコニーに出るとまだ肌寒い。慌てて押し付けられたマントをユーリスに返そうとすると「何をしているの」と再び肩に掛けられてしまう。
「風邪ひきますよ。ほら、わたしは丈夫ですし」
「いくら僕がひ弱だからって、そんな簡単に体調崩したりはしないよ――それとも君は僕に恥をかかせるつもりかな」
機嫌がよくはないのかと思いきや、ユーリスの声音は妙にふにゃふにゃしていた。柔らかで穏やかで甘い。めずらしいと思わず目を瞠っていると、ユーリスが人差し指を目の前に突き出して「さっきのヴェンダー卿とのことだけれどね」と言った。
どうやらお説教が始まるようだ、と身構えたのだがやはり口調はふにゃりとしたままである。
「大体、女に酒をすすめるような男はろくなやつじゃない……薄汚い魂胆が見え見えだ」
「薄汚い、ですか……」
「あわよくば、を考えているに決まっているだろう。お馬鹿さん、いまや君は薔薇を彩る朝露のようなものだからね」
ぐい、と腕を掴まれバルコニーのゆるやかな渦を巻くデザインの柱に背中を押し付けられた。間近にユーリスの端麗な顔が迫る。
氷のように冷たいのに蠱惑的な眼差しが降り注いで、心臓がざわりとした。
これってピンチなのでは、とエリーシャは考えていた。
甘く蕩けたような碧眼に見つめられると思考さえ止まりそうになる。【帝国の薔薇】はどこにいたとしても美しいのだけれど、華やかな場にいてこそよりふさわしい輝きを放つ。
「ゆ、ユーリス様っ……!」
「静かに。ね?」
白い手袋を嵌めた指がエリーシャの唇をなぞる。白い指先がほんのりと淡いピンクに染まったのを見て、エリーシャの頬は否定しようがない熱を帯びた。
「……朝露ってもしかしてわたしのこと、ですか?」
「おや。花にたとえなかったことがご不満かな――知らないとでも言うのかい、薔薇が最も愛して、毎日くちづけをするのは朝露だってこと?」
どうしよう――なんだかいつもと雰囲気が違う。とろんとした目つきもそうだし、この続きざまにぶつけられる口説き文句にぐらぐらと酔ってしまいそうだった。
あ……酔う、ということは……まさか。
「ゆ、ユーリス様。もしやあやしい薬でもお飲みになられたのでは」
「僕たちは婚約者なんだ――こういうところも皆に見せなくてはね。皇家の務めの内さ」
「このバルコニーには私たち以外誰もいませんからっ」
小芝居でもするつもりだとでも言いたげだが、なにやら支離滅裂だった。
ユーリスの澄んだ碧に覗き込まれ、正直に言えば頭がまともに働いていなかった。このような失態、次兄のウィルバーなら手を叩いて喜ぶだろう。妹が色仕掛けに屈している、とか言って。
「君は可愛い」
「っ、何度も言わなくても結構です!」
愛おしいものを見つめるような眸を向けられ、髪を撫でられる。
本当に愛されている、そう感じさせたいかのような視線に妙な気分になってしまう。甘ったるいやりとりにはいまだ慣れなくて、エリーシャはずっと落ち着かなかった。
「何度だって言いたくなるものだよ。可愛い人」
戯れに唇がエリーシャの頬を掠めた。押し当てられた唇の感触にびくっとしたのがわかったらしい。ユーリスはくすくす笑っている。
「君ともあろうひとが、この程度の触れあいで緊張しているのかな?」
「う……緊張など……していません。へいき、です」
「おや、本当かな。ふだんならもっと恥ずかしがって暴れるのに」
ぐいぐいユーリスの胸を押し返すと、面白くなさそうに唇を尖らす。まるで子供みたいなこの態度。
「あの」
「なんだい、エリー」
「もしかしてなんですけど……本当に酔っているのでは」
そういえば先ほどエリーシャに差し出されたグラスを一気に飲んでいた。その後も、ヴェンダー卿と話している最中、かぱかぱと加減することなくグラスを傾けていた姿を思い出した。
確かにあまり酒に強い印象はなかった。けれどもあれほど威勢よく飲んでいくものだからよほど自信があるのだろうと思っていたのだが――。
「君の方こそとろんとしているように見えるけれど。果実酒もカクテルも甘くて飲みやすいけど酔いやすいんだ。いけないよ、男の前で隙を見せては……食べられてしまう」
こんなふうに、そう言ってがぶ、と首筋を甘噛みされる。
朱い噛みあとを舌でなぞられてぞくぞくした。
「ユーリス様っ!」
「あはは、エリーの言うとおり酔っているのは僕の方かもしれないね? さっきからずっと君で遊びたくって仕方がないんだ」
と、ではなくて「で」なのがいかにもユーリスらしい。
やっぱりこの男はエリーシャのことを道具と思っているのではないだろうか。ぐ、と襟元のジャボタイを引っ掴んでユーリスをぎゅうぎゅう締め上げた。
「見せつけたいのでしたら、もっと人目がある場所でなさればいいでしょう」
「ふふ……それもいいね。みんなの前でキスしたりもっと、僕の君への愛が伝わるようなことをしたいな――僕のエリーシャに余計な手出しをしたらどうなるか、理解らせてやりたいよ」
抱き着かれたと思ったら、ふにゃ、とユーリスの身体から力が抜けた。そのまま重みに耐えかねてエリーシャはバルコニーに座り込んだ。
「ユーリス様……?」
肩口にもたれかかった婚約者からすうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったようだった。
こういうのは、エリーシャが酔って眠ってしまったところをユーリスが介抱するというのが、定番なのだそうだが――そんなふうにサフィルス宮殿の恋愛小説好きのメイドたちから聞いたことがある。
「もう……」
呆れながらも、もう少しだけ、肩を貸しておいたままにしようとエリーシャは息を吐いた。




