Extra01 稀代の悪女
私はどこから間違えてしまったのだろう。
何もかもが上手く立ち行かなくて滑稽ですらある。
おそらく私は、何もかもを間違えた。
生まれてきた家も、選んだ道も――ありとあらゆるすべてを。
皇太子妃アナベル・ウィンダミアという名前は、帝国中の人々に浸透しつつある。ただそれは勿論良い意味ではなかった。私の犯した過ちは箝口令が布かれていたにもかかわらず、噂として世間に広まった。
毒薬を用いて、第一皇子を暗殺しようとした悪女――。
それが嘘でも偽りもないただの真実であることこそが恐ろしい。極刑も免れ得ない大罪人である私を、妃に迎えたジェスタ皇太子殿下の気が知れないと誰もが言うが……最も困惑しているのは私自身だった。
誰が己を殺そうとした女を妻に迎える気になるというのだ。
そもそも……祝勝祭でパートナーとしての同伴を頼んできた時点でおかしいとは思っていた。こちらの思惑を読まれているような、そんな気がしていた。
「アナベル」
名前を呼ばれ、小さな声で「はい」と応じた。
骨ばった指は太く、ベアメイプルの葉よりも大きな掌が私を寝室へと導く。新婚初夜なのだからすべきことは決まっている。容赦はされないことはわかっていた。
おそらく、ひどくされるのだろうとは察してはいた。
死を免れた代わりに求められるのは《《奉仕》》に決まっている――ライアンはアナベルに「それ」を求めたが、なんとか理由をつけて逃れてきた。
母と娘、その違いを味合わせてくれよ、と下卑た声音で言われたとき、背筋が寒くなり嫌悪感で吐き気をもよおした。
知識はある、淑女としてどうすればいいのかも。ただ身を委ねて息を殺し責め苦に耐え忍ぶだけ――震える手で口元を抑え、いまにも飛び出してきそうな心臓を呑み込んで身体の奥深くへと沈める。
重ねられた手の厚みが、ずしりと私をシーツに縫い留めた。
犯した罪は償わねばならないことを、帝国民である私は理解している。だから、どのような苦痛や屈辱も受け容れると決めていた。
「――何も考えなくていい」
存外、低くて穏やかな声がかけられてぎくりとした。
見上げれば薄青の眸は静かに凪いでいた。頬に手の甲で優しく触れられ、額にそっと口づけられた瞬間にぞくりと身震いした。
そのまま流れるように唇が塞がれた瞬間、目を閉じて――心までも閉ざす、つもりだった。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
「起きたか」
筋骨たくましい腕に抱かれて、目を醒ました。
起き抜けに、ジェスタの顔を見て私は息を呑んだ。都合のいい、夢だと思っていたのだ。あまりにも悲惨な状況……たとえば処刑直前に見た甘美な幻の類なのだと。
皇太子となったジェスタと結婚したのも、一夜を共にしたのも勿論夢に違いないと割り切っていた、はずなのに。
いたわるように丁寧に、触れられ抱かれた身体はいまも甘い痺れを残したままで理由がわからなかった。
行為の最中も、どうして、そう何度も叫んでいたように思う。
どうしてジェスタが自分にこんなに優しくするのか、理解できなかったのだ。
生娘であると最初からわかっていたわけではないだろう。何しろ私は「稀代の悪女」だ。母親そっくりの尻軽だと世間からは思われている。
それなのに、いまだってジェスタは私をいたわり、たくましい腕を枕にすることを許していた。混乱する私の頭を撫でながらジェスタは「つらくはないか」と尋ねてきた。
耳を疑ってしまった――またはジェスタの正気を。
「えっ?」
「無理をさせたのではないか、と」
薄々気づいてはいたが、ジェスタは口下手だった。弟のユーリスはぺらぺらと喋るタイプだったと記憶しているのだが、兄のジェスタは極端に口数が少ない。
二言三言話して、黙ってしまう。その真意を掴めないほどに短い言葉の繋がりで推測するよりほかない。
「あの……ジェスタ殿下は、どうして」
薄青の眸に困惑した私の顔が映り込んでいた。私のことなどその綺麗な目にうつさずともよいのに。
「私に優しくしてくださるのですか」
夜の終わりに浸された寝室はいまだ暗いままだった。朝はまだ顔を覗かせていないから、ベッド際に置かれた蛍光石のランプだけがぼんやりとあたりを照らしている。
影の落ちたジェスタの表情から読み取れたのは「戸惑い」だった。
私が宿しているのと同じ、その感情。
「何故、か」
「ええ。どうして、私を助けたのですか……私はあなたを殺、そうと」
ジェスタの指が私の唇に触れてその先を言うのを止めた。
「おまえが望んでやろうとしたことではない」
「どう、して。殿下は私のことなど何も……」
「知っている」
ジェスタの静かな声が、私を掬い上げる。
彼の声音は穏やかでひどく優しい響きをしていた。
「……養護院に通っていただろう」
「は、はい」
養護院というのは身寄りのない子供を保護し、養育するための施設だった。
ウィンダミア家に寄付するような金の余裕はなかったが、領地で取れる小麦で使用人と共にパンを焼き、毎週届けていた。皇室も長年放置気味だったのだが、ジェスタの進言で少しずつ支援の輪が広がってきたのだ、と職員たちが嬉しそうに語っていたことを思い出す。
これからの未来を創る子供を支える、弱きものを支えることこそ持つ者――貴族の責務だ、と議会で力強く訴えた。
そんな話をかつて、アナベルも耳にしていた。
「もしかして……そこで、お会いしました、か?」
「……ああ」
記憶の糸を手繰ってみたが、どうしても思い出せない。神妙な顔つきになった私を見て、ジェスタがかすかに笑ったことに気付いた。
「当然だ……声をかけたことは一度もない。ただ見ていた」
淡々と言われたが、思わずかあっと頬が熱った。
つい先ほどまで、もっとすごいことをしていたはずなのに、ただ「見ていた」と言った彼の言葉にドキドキした。
「優しいひとなのだろうと思ったんだ。弱きものに手を差し伸べ、自らの手が荒れることも厭わず……ほら、職員たちの水仕事を手伝っていただろう。それに子供と遊び、服を繕い、料理を」
「そ、そんなところまでご覧になっていたのですか……⁉」
私が養護院を訪問していることに母は良い顔をしなかった。そんなことをするよりも多くの茶会に顔を出しなさい、と叱るようなひとだから。
うまれてはじめて、認められた気がした。
こんなときに。このひとに――自分が殺そうとした男に、褒められるなんて思いもしなかったのだけれど。
「すまない、嫌だったかもしれないが――俺はずっと君が欲しかった。どうしても手に入れたかった」
「あ……」
じっと見つめられただけで、心臓が跳ねる。
じわりと身体が汗ばんだ。昨夜、存分に与えられた熱を思い出して、身震いしてしまう。
「恋を、したんだ」
重ねられた唇の甘さは、やわらかくて、温かくて。
私の頬を涙が伝った。
許されてはいけないのに、このひとは私のなにもかもを許し、受け容れてしまっている。それどころか拒むことを許さないとばかりに私を強く抱きしめるのだ。
「あいしている、アナベル」
私も、と応えられたらいいのに――その資格はない。言葉の代わりに彼の背に腕を回して引き寄せた。




