55 雪よりもなお深く、君を。
ちち、と鳥のさえずりが聞こえる。
手入れの行き届いた庭園に生い茂るグロウチェリーの木々は天からの贈り物で白く色づき、午後の陽光の熱に溶けた雪がばさばさっと地面に落ちた。
帝都グレイスローズに雪が降ったのは、黒雪月と赤陽月の合間の夜半だった。一面を白く染めた雪は宮殿に住まう早起きの使用人たちの息を凍らせ、手指をかじかませたが――何かいいことが起きる予兆めいたものを誰もがおぼえた。
そんな朝のことだった。
【帝国の薔薇】が住まうサフィルス宮殿において最も美しく、最も見晴らしの良い部屋に、午前の真白い日差しが優しく差し込んでいる。
ぱち、と暖炉の火が爆ぜる音が響く。
広い部屋だが冬の朝を快適に過ごすにはふさわしく適度に暖められている。
室内がからからに乾燥しないよう濡れた手巾などが窓辺に干されるなど湿度を保つ配慮がなされ、居心地よく整えられていた。
「ねえ、エリー」
大きなベッドに横たわるエリーシャからは規則正しい寝息が聞こえており、そのようすを椅子に腰かけたユーリスが飽きることなく眺めていた。
「そろそろ起きないと、目が溶けてしまうんじゃないかな……」
頬をつついてみたが反応は薄い――はじめのうちは落胆していたユーリスも、次第に慣れつつあった。昏々と眠り続ける婚約者を歯がゆい思いで見つめてはいても、確信めいたものがあったからかもしれない。
エリーシャはいずれ目覚める。
そう、ユーリスは信じてもいた。
「残念だけれど僕はそろそろ行かないと……年明け早々、ロザリーホールは大混乱なんだ。なんといっても、かのモーヌ公爵家が兄上の暗殺を企てたわけだから――ふふ、さすがの父上もかなりご立腹でね。ただで済ますことはないだろう」
由緒正しい貴族五家から成る評議会【ロザリウム】による厳しい追及により、皇帝の弟であるモーヌ公爵がすべてを白状した。
モーヌ公爵は第二皇子であるユーリスが立太子するように仕向け、その後見役として就任しようとしていた。
ユーリスが虚弱体質であることは周知の事実であるため、皇帝としての役目を果たすのは困難である、とかなんとか理由をつけて政権を掌握することを目論んでいたわけだ。
それにはあらゆる意味で、第一皇子ジェスタが邪魔だった。
ジェスタがいればほぼ間違いなく皇太子の椅子は第一皇子のものとなる。
社交界の人気こそ低いが、いまに武勲を上げ、よりよい国を築くべく意欲的な皇帝となるだろう。
そこで長男であるライアン・モーヌに命じて、暗殺しようとしていた。
清廉潔白なジェスタが皇帝になることを嫌った貴族たちを巻き込んだものだから、名家出身の関係者は手の指の本数だけでは収まらないほどだ。
一連の騒動は、公表されず秘密裏に処理されることにはなっていた。
刑の重さはこれから決まるが、関与した人数が人数なので慎重な対応を考えているところだった。
「君は気にしているかもしれないからいうけれど、レミルは皇室で引き取ることになったよ。あの子に罪はないから……慕っている父や、兄たちのことを考えれば喜べはしないかもしれないけれどね」
末息子であるレミルは兄である現皇帝のもとに引き取られ、養育されることになる――あの生意気な子供が弟になると思うとうんざりしてしまう。
隙あらばエリーシャにべたべたしようとするところも気に入らないし、うまくやっていけるとは思わないが、悩みの種が一つ増えた。
「だけどね、これもみんなフォレノワール伯爵家の……エリーのおかげだ」
『婚約の持参金みたいなものと思っていただければ、と』
ぼろぼろになったモーヌ公爵家所有の船舶の中で、ヴィオラがきちんと綴じられたひとつづりの報告書を手渡してきたのだ。
それはフォレノワール伯爵家の一同が集めた証拠の品で――議事録や計画書、誰か一人が捕まっても仲間を引き渡さないと血文字で書かれた誓約書、金で雇った連中への依頼書など……貴族たちのあいだに蔓延る悪意の煮凝りのような内容が集められていた。
ちなみに船までは、ユーリスがサエラが【創造】したブレスレットを通して聴き取ったエリーシャの譫言のような「船」、「モーヌ公爵家」という単語からテデュース川の係留施設を第一目的地とした。
ただしそこには、それらしき船は停泊していなかった。
続いて船の管理人から情報を、ウィルバーの【魅了】で引き出して。
ラーガの【速度】は彼の身体に触れている者すべてに影響が及ぶため、全員がぴったりとくっついたまま高速移動。
優雅に川下りをしている公爵家の船にたどり着いたという流れだった。
中は、月女神に憑依されたエリーシャによりひどい有様ではあったが……アナベルから話を聞いたところ、ライアンはエリーシャに暴力をふるったらしい。当然の報いだ。
あいつだけはユーリスの手で……なんてことを考えていることはエリーシャには秘密なのだけれど。
話を戻すが――ヴィオラから貰った書類のおかげで評議会での意見出しも、処罰の方向性の決定もすみやかかつ合理的に行うことが出来たのだった。
ひととおりの処理が終わった時、サフィルス宮殿にエリーシャのようすを見に来たヴィオラにユーリスは礼を言うとともに、話を振ってみることにした。
ずっと、気になっていたことについて。
『……いままで、僕の部下たちに情報を提供していたのは』
『ふふ、秘すれば花、という言葉が遥か東の島国にあると聞いたことがあります。私は出来ることなら花のように美しく生きていたいと考えているのですよ』
末永く、よろしくお願いいたしますね、とヴィオラは妖艶な微笑を浮かべた。
「まあ――さておき、めでたしめでたし、といったところかな」
君がまだ目覚めない、ということ以外は。ユーリスは付け加える。
これ以上話を続けてエリーシャの穏やかな眠りを妨げてはならない、と自制した。彼女が目を開けて名前を呼んでくれるのならそれでもいいのだが。悪夢でも見てしまっては可哀想だ。
ユーリスはエリーシャの手を握って、甲にそっと口づけた。
「ありがとう、僕の共犯者さん」
そのとき、ぱしっと静電気にも似た感覚が頭の中に流れ込んで来た。
「……」
しばらくの間を置いてからユーリスは口を開いた。
「ねえエリー……もしかして、起きているの?」
ユーリスに備わった異能【読取】は唇で触れた……キスをした相手の考えていることが読み取れる。
昨日までは頬にキスしても唇に口づけても何も見えなかったのに、いまは確かにエリーシャの戸惑いや恥じらい、躊躇い……そういった感情がありありと流れ込んできたのだ。
「~~っ、ち、違うんです、いまっ、たったいま目が醒めたのであって、眠ったふりをしていたというわけでは! はわっ」
がばっと起き上がり言い訳を始めたエリーシャを、ユーリスは抱きしめた。
長い間、眠っていたせいでひどく痩せてしまった身体を確かめるように強く抱くと、おずおずとユーリスの背中へと手が回された。
「よかった……」
「あの、ユーリス様」
「あいしてる」
ほろりと、言うべき言葉が口を突いて出た。
もっといいタイミングを見つけて言おうと考えて、計画していたのに……起きて、喋っているエリーシャの姿を見ていたらたまらなかった。
まったくみっともない。何が【帝国の薔薇】だ。いまの己は初恋に浮かれる情けない男でしかない。
「あ、あの……あ、あっ」
「いいよ。何も言わなくていいから」
起き抜けに受けた愛の告白に動揺しきっているエリーシャを抱きしめながらユーリスは愛する人の甘いかおりをたっぷり吸い込んで息を吐いた。
「もうすこし、このままでいさせて」
消え入るような声で、はい、と答えたエリーシャが愛おしくて、さらに腕に力を込めて愛するひとを閉じ込めた。
そろそろ出発する時間ですよ、とユーリスを呼びに来た侍従もしっかりと抱き合う婚約者たちの姿を見てそっと扉を閉めたのだった。




