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54 月女神の現身 ―ギフテッド・ディアナ―

「え……」


 自らよりはるかに力の強い男を跳ね飛ばしたエリーシャを、アナベルは呆けたように見ていた。吹っ飛ばされて後方の壁に激突したライアンが、痛みを堪えながら呻いている。

 衝撃の余波で船室の窓ガラスが割れ、びゅうびゅうつめたい風が吹き込んでいた。


「我はエリーシャ・フォレノワール――【月女神の現身(ギフテッド・ディアナ)】なり」

「なんだなんだ……っ、うわぁ!」


 騒動に気付いて甲板から船室キャビンにひとがわらわらと下りてきた。

 おそらくライアンが雇った者たちだ――使用人でさえなく、ただ「モーヌ公爵家」としては出来ないような後ろ暗いことをやらせるための人手だろう。


 操舵手のみを上階に残し、中肉中背の男がふたりと体格の良い用心棒のような男がひとり。小さな船には十分すぎるほどの乗組員だ。


 雇い主を助け起こしながら、怯えたような目をエリーシャに向けていた。


「ば、化物ッ……!」


 髪留めが壊れたせいで、結い上げていた髪が風に巻き上げられてぐしゃぐしゃに絡まり、蛇のようにうねっている。

 ならずものたちを射抜く鋭いまなざしは、滴る血の色の虹彩をぎらりと輝かせていた。


 頭の中が真っ赤に染まる――燃えているような、その反対に極限まで冷えているような奇妙な感覚だった。いま話しているのは、自分であって自分ではない――月女神ディアナそのものであるような。


 エリーシャは己の手のひらを見つめた。

 じわじわと目に見えないチカラがあふれてくる。ずん、と身体全体が重たくなり、頭がぼうっとして感覚が鈍くなる。

 【異能ギフト】を使いすぎたとき、激しい眠気に襲われるのとよく似ている。全身から意識を手放せば、楽になれる。そうわかってはいるのに、エリーシャは歯を食いしばって立ち続けていた。


 いますぐに眠りたい、頭が重い、人差し指を動かすのさえも億劫だ。

 どうしてわたしは、あのひとたちを「許せない」と感じているのだっけ。


 船室の中で、風がぐるぐると渦巻いていた。まるで竜巻のようだ、と他人事のように考えている。びゅうびゅう轟く風の音に紛れるようにして紅いドレスの女の悲鳴が響いた。ええっとあの子は、誰だったかな……。


 ――わるいやつをやっつけられるような、ちからがわたしにあったら。


 それは、ただの子供じみた願いのはずで。叶うわけがない祈りでしかないはずなのに……エリーシャの中から熱いものが次々湧き出てくる。

 怯え、後退る男たちや耳を塞ぎ悲鳴を上げるアナベルを前にエリーシャの頭の中は曇っていくばかりだった。


 此処がどこで、何をしようとしているのかもぼやけて――なんのために、こうしているのかもわからない。


『エリー、可愛いエリー。それでいいの……わたしにすべて委ねておしまいなさい』


 蕩かすように甘美な声音がエリーシャをじわじわ侵食する。


 おかあさま――おかあさまはこんな声をしていただろうか。もっと神経質で、壊れやすくもろく、けれど愛おしい……そんな声だった気がするのに。

 

月女神ディアナよ、落ち着いてくださいっ』


 愛らしい少年の声と共に、小さな影が船室の窓から飛び込んで来た。

 ひゅるるると勇猛果敢にも落下してくるその物体に思わずエリーシャは手を伸ばして――受け止めた。


 もこもこやわらかな毛並みは真っ白で、顔周りと短い手足は黒。ばたばたと腕の中で暴れながら、エリーシャを見上げている。


「グルル……?」


 めえめえ必死に訴える鳴き声とは別の「声」がじかに頭に響く。


『これ以上、月女神ディアナの権能を行使すればエリーシャの命が削られます。人の身には過ぎる能力なのですから……!』


 ごうごうと風が船体を揺らし、ならずものたちは床に這いつくばって許しを乞うている。祈る相手はヴィーダ聖教の唯一神であって、月女神ディアナではなかったが。

 ふん、と《《エリーシャ》》が鼻を鳴らす。


『知ったことではないわ。わたしをないがしろにするなど、いけない子たち……お仕置きが必要みたい。星獣グルルート、下がっていなさい。怪我をしますよ』


 グルルを庇うように前に出たエリーシャが手をかざすと、船室に吹き荒れていた暴風が一か所に集中しはじめた。

 巨大な塊が渦巻いて、ピシッピシッと風の刃が床や壁に傷をつける。

 この嵐をぶつけたら――身体は千々に引き裂かれ、細切れになった肉片とおびただしい血で床が染まることだろう。


 面倒だ――頭が痛い。考えることが怠くて、それならいっそ。


 どうでもいい、か。

 ふら、と傾いだ身体を誰かが支えた。


「エリーシャ!」

「……ユ、リス様……」


 抱き留められ、目の前に立つ人の碧い眸を見て、ああ、と声が漏れた。


「もう……ゆーりは、泣かないんだね」

「そうだよ、エリー……。僕は君に救われた、君の優しさが――暗闇にいた僕を照らしてくれたんだ」


 エリー、しっかりするんだ。エリーシャ、エリー、姉さま!

 父さまと、兄さまたち、サエラ……みんなが代わる代わる声を掛けてくれている。瞼が重くて、手足から力が抜けて、ユーリスにもたれかかるようにしてエリーシャは目を閉じた。


『んむう……わたしは子供たちを守りたかっただけ、どうして怒られなければならないのかしら』

月女神ディアナ様はやりすぎなんです! 後で処理する者たちの苦労をお考え下さいっ』

『グルルートは細かすぎるのよ。大体ねえ、わたししもべだというのにエリーにばかり擦り寄って。ふんっ、面白くない子!』


 風の音がふつ、と途切れた。

 耳鳴りがきいんと続いて、エリーと呼びかける声が徐々に遠のいていく。


 そして、何も聞こえなくなった。

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