45 記憶の中の少女 -2-
議会の閉会後、ユーリスはヴェルテット宮殿へと戻った皇帝のもとへ向かった。
婚約するという事後報告をすれば「好きにするがいい」といちおうの許しは得た。呆れてはいたようだがよほど興味がないのか、ユーリスを見ることもなく手元の書類に視線を落としていた。
陛下の私室から下がったあと、傍仕えの者たちや重臣たちはユーリスに駆け寄り「お考え直しください」と執拗に言い続けていたが、皇帝が認めているのだから好きにさせてもらうと決めている。
笑顔でかわして宮殿の外に出ると、一陣の風が吹いた。
季節が変わるしるしのような冷ややかな空気を吸い込んだせいか、肺のあたりに違和感があってユーリスは激しく咳き込んだ。
冬は嫌いだ。
秋口のいまはまだマシだが、黒雪月になれば、ユーリスは毎年のように熱を出して寝込んでしまう。血を吐くようなことは減ったが、成人したいまも相変わらずひ弱だった。
そんな自分が皇帝になどなれる筈もない――なりたいとも思わなければ、ならねばと考えたこともない。
あのひどく高いところに置かれた椅子はユーリスの物ではないのだ。最初から。
そのとき、長身痩躯の男が背筋を伸ばして歩く姿が目に入った。
『あ……っ、フォレノワール伯爵、待ってください』
ちょうどロザリーホール横にある議事堂から出てきたヴィオラに、ユーリスは思わず声を掛けていた。
が、足早にその場を離れて行こうとする。
『ヴィオラ!』
我慢できずに大声で叫ぶと伯爵はようやく立ち止まり、振り向いた。
『誰かと思えば一躍時の人となられたユーリス第二皇子殿下ではありませんか。私に何か御用でしょうか』
『気付いていただろう……まったく、あなたは意地が悪いな』
ふふ、と笑みを深くしたヴィオラが「家族となるのですからこれぐらいの悪戯はお許しください」と、茶目っ気たっぷりに言った。ヴィーダ帝国第二皇子たる自分が、いとも簡単に振り回されている。
フォレノワール伯爵は婦女子にとどまらず男をも虜にするという噂を耳にしたことがあるが、あながち間違いではないのかもしれない。この心臓に悪い感覚を恋と錯覚してしまう者もいるだろう。
ご用件は、と笑顔で繰り返したヴィオラにユーリスは微笑みを返した。
『何、ちょっとしたことだよ。議会が開催されたおかげで義父上がはるばるフォレノワールから帝都までお越しいただいたことだし……久しぶりに、サフィルス宮殿に寄って行かないかと思ってね』
直接的な表現は避けてはいるが、話があるからいいから黙って来い、という意味である。
『ああ……申し訳ありません。これから息子と出かける予定があるのです』
それをわかっていないわけがないのに、申し訳なさそうな表情でヴィオラは断りを入れてきた。しかもかなり急ごしらえの言い訳だ。
ヴィオラの息子というと、第一皇子に仕えているラーガや遊び人と評判のウィルバー、そのいずれかだが――どうせ口実に過ぎないだろう。
きっぱりと断られてしまったがゆえに食い下がるのも難しい。通りすがりの者たちから視線を集めていることをひしひしと感じる。
なにしろつい先刻、ユーリスは婚約発表したばかりで……その婚約者の父と何やら話をしているとあれば興味を持つのも当然のことだった。
立ち話でするような内容ではないのだが、そちらがそう来るのであれば仕方がない。
『……エリーシャ嬢のことなのだけれど』
『エリー、ですか――』
ヴィオラは声を低め、呻くようにして言った。
これ以上、注目を浴びるのを避けるため議事堂の建物の影に入るとヴィオラがユーリスに静かな暗赤色の眸を向ける。逡巡するように唇がわななき、動いた。
『……そのようすだと、殿下はあの子のことを思い出したのですね。お忘れのままの方がよいとは思っていたのですが』
『っ、まさか君が――僕の記憶を消したというのか?』
ヴィオラは何も答えず目を伏せる。
きゅうくつそうに締められたアイヴォリーのタイを掴むと、どんと壁にヴィオラの背中を押し付けた。
こんな乱暴なことをしたのは初めてだった。
壁際に追い詰めて見上げたヴィオラは、落ち着いてはいたもののユーリスのいつになく手荒な行動に戸惑っているようにも見えた。
『ヴィオラ! 答えるんだ』
『殿下、ひとまず落ち着いてください』
ヴィオラは通りの向こうを気にするように、ちらっと視線を動かす。ユーリスは声のボリュームを落とし「いいから早く話せ」と鋭く命じた。
『ユーリス殿下の記憶を消したのは私ではありません。《《エリーシャ》》です』
思いがけない返答に、ユーリスは言葉を失った。
『……何? あの子の能力ではそんなことは出来ないはずだろう。エリーシャ自身が「ただ印象を薄くするだけの力」だ、と』
『我が娘、エリーシャの異能――【同調】は本人が思っているような力ではないのです』
此処に「いる」と意識されないようにひたすら地味に――限りなく気配を薄くして、ひとに気付かれずに動くことが出来る。そんな単純で、わかりやすい能力ではないのだ、と。
ユーリスに説明しながらも、ヴィオラはためらっているように見えた。
『どういう……ことだ』
こみ上げる頭痛に顔をしかめながら、ユーリスは締め上げていたヴィオラの襟元から手を離した。
解放された途端、勢いよく吸い込んだ息を、ヴィオラはゆっくりと吐きだした。
『――殿下はご自身も異能を発現なさったため、ある程度は我が一族にのみが承継する力について受け容れていただけるかとは思います』
『まあ、それは……他の者よりは理解できるとは思うのだけれど』
ユーリスが所持している異能は、仮に名付けるとすれば【読取】。
触れた相手の思考や見たものが、映像のように流れ込んでくる能力だ。
ただ発動条件が相手に「唇」で触れること、であるためあまり使い勝手はよくないのだが……この力に気づいてからはそれなりに使いどころを考えるようにはなった。
だが、エリーシャの異能に記憶を消す、というような強力な力があるとはとてもじゃないが考えられなかった。少なくとも本人はそのような使い道を知らないように見えた。
ユーリス自身、【読取】で見たから間違いない。
『ユーリス殿下の記憶を消したのも、眸の色を変えたのもすべてあの子の能力です』
『馬鹿な……』
肯定と否定が頭の中で衝突する。
そんな、「ありえない」と思いながらも「やはりそうか」と納得している自分がいる。エリーシャ・フォレノワール――ユーリスは、彼女のことを何も知らない。いままでも、ずっと。
『……エリーは自身の異能を【同調】と定義していますが、それは表面どおりに捕らえた場合です。能力の本質は、それとは異なっている』
ヴィオラは、深紅の双眸をじっとユーリスに向けていた。
未来の花婿をどこまで信頼していいのか考えているかのような、冷徹な視線に思わず背筋に力が入る。
『【書換】――あの子はフォレノワール一族の長い歴史の中でも稀に見る強力な女神の代行者である、と』
私は、あの娘を認識しているのです。
暗がりで交わされたその言葉は、ずしりとユーリスの胸を圧していた。




