18 夕食会の前に
夕食会当日、エリーシャは朝から支度に追われていた。
婚約式ほどではないが支度にメイドが付きっ切りで、入浴後は髪型やドレス、つけるアクセサリーについて議論する。ひたすら地味に、をモットーに生きてきたエリーシャの意見は当然のように採用されず、メイドたちが「エリーシャ様の髪色なら、このドレスの方が」とか「近頃の流行よりもお似合いになるデザインを選びましょう」と真剣な顔で議論していた。
結果として仕上がったエリーシャの装いは、深いグリーンのドレスだった。
ふちどりにあしらわれたひかえめながら可憐な黒の薔薇レース。手触りがなめらかなベロアを使った生地がたっぷり使用され、黒雪月の肌がしびれるような空気の中にいてもあたたかだ。
首元と耳には、どちらもヴィーダ帝国の象徴である薔薇をあしらったネックレスとイヤリングをつけて、皇室への敬意を示す。アップスタイルの髪に生花をあしらい、完成したときにはメイドたちは満足げに腕組みをしていた。
「エリーシャ様は今日もお美しいですわ!」
「ユーリス殿下も一目見た瞬間に再び恋に落ちてしまうかもしれません……今日の仕上がりは会心の出来です」
「これはもう、完璧と言わざるを得ません。整ってしまいました……」
尋常じゃないほどに褒め称してくれるので、面映ゆいやら何やらで沈んでいた気持ちがわずかに浮上する。
帝都の視察から戻ってからユーリスは始終顔をしかめ、何かを考えているようだった。それに――路地裏で蹲るエリーシャを見つけたときに浮かべた安堵の表情の直後、ぶつけられた冷たい炎のような怒りを思い出すと、いまでも胸がすうっと寒くなる。
『……君は、何を考えているんだ』
エリーシャを立たせると、駆けつけた護衛に周囲を囲ませてさながら護送するようにサフィルス宮殿まで戻った。その間、ろくに会話もなく目さえ合わなかった。使用人たちに指示を出した後、エリーシャはユーリスの自室まで呼び出された。
エリーシャが入って来ても、ユーリスは背を向けたままだった。
『あの、ユーリス様』
『雑踏の中で君を見失ったとき……僕がどんなに心配したかわからないんだろうね』
『申し訳、ございません……ですが、ご報告することをお許しください。わたしがあの場所で見たもの、聞いたものについて』
背中だけでも静かな怒りが伝わってきたが、エリーシャの申し出に一言「許す」とだけ口にした。
人混みの中にアナベル嬢を見かけたこと、追いかけて飛び込んだ裏通りで彼女がウィンダミア家の使用人と思われる老婆を見舞っていたこと。そして老婆と話していた内容――第一皇子の死を匂わせる発言があったこと。すべてを順を追ってエリーシャは話した。
話しているあいだユーリスは何も言わず、考え込んでいるようすだった。
『……君はもう下がっていい。それから、このことは他言無用だ』
ひどく疲れ果てた声音に、後ろ髪を引かれる思いだったが深く頭を下げて退室する。ユーリスは、結局一度もこちらを振り返ることはなかった。
一晩経っても怒りが尾を引いているらしい。
朝食で顔を合わせても言葉を交わすことがないようすに、メイドたちも「喧嘩でもなさったのでは」と気にしていたようだ。食事会当日にこの調子なのだから、夜までに改善するのは不可能だろう。
日中、ユーリスはヴェルテット宮殿――今日の夕食会の会場でもある――で、皇帝の補佐役として公務に就くことになっていた。スケジュールの管理をしながら、皇帝の出席する行事に随行する秘書のようなものだ。
ちょうど、今日は年末の大祭に向けた会議が開かれ、聖堂からの出席者である大神官たちとの最終調整が行われる――とは、ユーリスの侍従から聞いていた。
「どうした、そんな暗い顔をして」
「ラーガ兄さま……」
サフィルス宮殿の庭園でグルルを抱えてぼうっとしていると、長兄が大股で近づいてきた。ちゃんと断りを入れてきたのだろうな、と訝しんでいると衛兵とは飲み仲間でな! と答えになるようなならないようなことを言われた。
茶会でのアナベル嬢の印象についてまだ兄には何も伝えていなかった。
また街で見聞きしたこともあり、なおさら言いづらい。何も決まったわけではないが――思いを寄せる相手から第一皇子殿下は命を狙われているのだとしたら……早く対処が必要なのではないか。しかし、ユーリスに断りもなく兄に打ち明けるのは躊躇われる。
「あのね兄さま。アナベル・ウィンダミア嬢のことは、まだ待ってもらえないかな……? もう少し調べたいことがあって」
「アナベル嬢? はて……なんのことだったかな。それより、だ!」
俯き思い悩むエリーシャのラーガが立つと、グルルはぴょんと腕の中から抜け出し、着地した。
「これ、頼まれていたものを持ってきたぞっ。受け取ってくれ」
「わ、こんなに……! ありがとう、ラーガ兄さま」
抱えていた巨大な包みをエリーシャに押し付けるように手渡した。ああ、そういえばフォレノワール州から持って来てほしいとお願いしていたのだ。せっかくの機会だから、今日の夕食会に陛下への贈り物として持参してもいいかもしれない。
「なあエリー、何か悩みがあるならなんでも言うんだぞ。俺も、ウィルもサエラも、もちろん父さんもおまえをずっと愛している。離れていても、結婚したとしてもおまえはフォレノワールの娘だ」
「うん……ありがとう、もしかすると近いうちに力を借りるかもしれないの」
エリーシャがあいまいにしか言えなくても、その真意は伝わったらしい。
「俺たちの能力は月女神からの贈り物だ。おまえが正しいと思ったことであれば、喜んでフォレノワール伯爵家は力を貸すよ」
「心強いなあ、さすが兄さんね」
グルルがふんふん、と鼻を鳴らしてエリーシャの脚にすり寄って来る。
「はは、どうやらグルルもおまえを助けるって言いたいみたいだな」
「グルルの気持ちがわかるの?」
勘だよ、と言って豪快に笑った兄につられてエリーシャも思わず口元を緩めた。
その後、ドレスについた毛を発見したメイドたちが悲鳴を上げて失神しかけ、エリーシャは大慌てでドレスにぺったりと付着したグルルのもこもこを取る作業に必死になっていた。




