17 予行演習(視察)の成果
特別地区周辺もユーリスとの婚約式を挙げた聖堂や宮殿などの街の中枢があるため地方からの観光客や敬虔な信徒などで混雑していたのだが、市街地はその比ではない。お客を呼び込む商人の声が高らかに響いている。
南のアリーカ王国から仕入れたという色鮮やかな絨毯や、かぐわしい香辛料。帝国内でも手工業がさかんなミレッティ州の繊細なレースのハンカチ。ケネス州のイモや「高熱時の悪夢」と呼ばれるほど大きな南瓜など、各地の名産品が一か所にそろう様は圧巻だった。
「すごい……」
「見事だろう? たまに遊びに、いや『視察』に来るんだ」
売る者も買う者も誰もが生き生きしていた。エリーシャは直接どこかに赴いて、物を買い求めたことがほとんどない。必要なものは家族が買い与えてくれたし、伯爵家に出入りする商人と話したことぐらいはあるが、こうした人と人とのやりとりは未経験だ。
「ええ、それじゃあ高すぎるわよ。別の店にしようかしら」
「そりゃないぜ、奥さんっ! 仕方ないなあ、美人だからこれとこれもおまけしちゃう。300ローズ銅貨でどうだ」
「もう一声!」
「ええ、赤字になっちまうって……おまけのおまけで290!」
「えっ、250?」
「ああもう……仕方ないなあ、270ローズ銅貨だ。これ以上は無理だよ奥さん」
ほくほく顔の女性に渋々野菜を包んでやる店主の息をも吐かせぬやりとりにエリーシャはすっかり見入っていた。
「白熱していましたね……! わたし、ドキドキしてしまいました」
「もう少し値切れたと思うよ。ケネス州は今季、天候は良好で作物の生育に適していた。実際に帝都の市場にもたくさん流通してきている」
ほら、とユーリスが指さす方向を見ると、客の女性が店から離れた途端、がっかりしているように見えた店主の表情がすっと変わった。品物の補充をしながら、にこにこしている。
「……このような戦いが毎日、繰り返されているのですね」
「毎日どころか。此処では一瞬一瞬、すべてが真剣勝負だよ。面白いよね。すごく人間らしいな、と思えて好きなんだ」
「なんとなく、わかる気がします」
フォレノワール州でグルルの世話を頼んで親しく話していた羊飼いや、牧草を育てていた農夫たちを思い出す。エリーシャにも「お嬢様」と声をかけてくれて、面倒がらずに相手をしてくれた。羊の世話や農園の収穫をさせてもらったとき、もしかすると自分もユーリスとおなじ顔をしていたのかもしれない。
ひどく眩しいものを見るような眸をして彼らを見ていた。
「宮殿の連中は人間を通り越して化物みたいだからね。腹に本音を隠すのはおなじでも、毒を吐いたり忍ばせた短剣で斬りつけたりする」
「貴族が嫌いなのですか」
「……嫌いだよ、奴らはひとのことを道具としか思わない――僕のこともね。だから利用するんだ。そうじゃないと割に合わないからね」
ユーリスの腕に掴まったエリーシャの手にわずかに力が入った。それに気づいたのか、静かに息を吐きだす。
「もちろん、いま目の前にいる彼らにも苦悩や痛みがあって、それは僕がおそらく生涯味わうことのないものだろう。それでも僕は時々、羨ましい、とさえ思う」
立ち止まっていたせいで、行きかうひとの邪魔になっていたらしい。ごめんよ、と言いながら走って来た商人が左手側にぶつかってきて、ユーリスの方に身体が傾いだ。バランスを崩したせいで子供のようにぎゅっと腕にしがみついてしまう。
「す、すみませ……」
「いや、構わないよ」
さきほどよりもずっと密着する形になってしまったことに焦っていると「そこの可愛いおふたり、此方へどうぞ」と女性に手招きされた。ユーリスと顔を見合わせ、恐る恐る近づいていくと天幕に案内される。
ふわりと甘くスパイシーな異国風の、おそらくはアリーカの香が焚きしめられている。天井から淡い紫の布が数枚、垂れ下がって奥にいる人物の姿はおぼろげな影のようにしか見えなかった。
「ようこそ、迷える子羊よ」
つやのある女性の声だ。エリーシャよりも十以上は年上だろう。近くにお越しになって、と囁かれた瞬間、無意識のうちに足が動いていたのをユーリスが引き留める。
「エリー」
「ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。彼女は私の発する気に圧されているだけなのです。私はあなたたちの未来を知る者、対価さえいただければ助言を授けましょう」
「占い、ということか。面白いかもしれないな……じゃあお願いしようか」
近くに、という声に導かれ、エリーシャとユーリスが並んで占い師の前に立った。目深にフードをかぶっていてやはり顔はよく見えない。紅い唇だけが鮮明に印象に残る。手元に置いた水晶玉を撫でながら占い師は言った。
「……お二人は、深い結びつきにあります。もし出会ったばかりだとしても、お互いが運命の相手と言ってもいいでしょう」
「う、運命……」
エリーシャの声が上擦った。何を反応しているのだか、恥ずかしい。どうせ恋人同士だと思って、盛り上がりそうな言葉を選んで口にしただけだ。動揺する方が間違っている気がする。
「ふうん、僕たちのことをなんでも知っているみたいな口ぶりだ」
「ええ。すべて、見通すことができます……たとえば、おふたりは何か動物を飼ってはいませんか?」
「あ! 飼っています、羊なんですけど、すごくもこもこで可愛いのです」
「いまあの駄羊のことを思い出させないでくれるかな……眩暈がする」
うんざりしたようにユーリスが言うと「仲がおよろしいこと」と微笑んだ。それからいくつか質問されてそれに答えたのち、占い師は水晶玉を覗き込んだ。
「そうですね、これからあなたたちには試練が訪れます……すべては、嘘と秘密から生まれた悲劇。ひとの心は傍にいたとしてもすれ違うものです、どうか愛する方にだけは偽らず、少しくらい本音を見せるとよいでしょう」
「……ばかばかしい。話にならないな、行こうエリー」
ローズ銀貨をテーブルに置いて天幕を出ると、深く息を吸い込んだ。甘い香にくらくらしていたので、ひんやりとした冷気を胸に吸い込むのが心地好い。「意外と面白かったですね」とエリーシャが言うと「人間観察の意味ではね」と相槌を打った。
「インチキだけど」
「インチキなんですか⁉」
それらしく水晶玉に触れる仕草はいかにも中に、エリーシャには見えない「何か」を見ているような物々しい雰囲気があった。
「質問内容、どちらともとれるようなものばかりだっただろう? または誰にでも当てはまりそうな指摘ばかり……時々、妙に僕らの状況に近接したものもあったけれど、ただの偶然に過ぎない」
「そうなんでしょうか……すこし、残念です」
「あれくらいなら僕がふだんやっていることだよ。むしろ僕の方が上手に出来るかもしれないな。共感し、理解し、情報を引き出してから僕の望む方向へ誘導する」
「あの、ユーリス……私にも、その、使っているのでしょうか?」
ユーリスは「どうだろうね」と言って微笑む。それは、いくらエリーシャが問い詰めたとしても何も言わないだろう表情だった。
むう、と顔をしかめていると、目の前を通り過ぎた人物の顔が、頭の中にある知人の顔と瞬時に結びついた。
「……アナベル様?」
足早にエリーシャの前を過ぎ去り、人混みの中に紛れてしまいそうになる。思わず彼女の後姿を追って走り出していた。
「エリーシャ!」
見失うわけにはいかない。かき分けるように進むうちにアナベルが、わき道に入っていった。そのあとに続いてエリーシャも勢いよく飛び込む。
大通りとはずいぶん異なる、うらぶれた通りだった。酒場が並び、真昼だというのに泥酔した客たちがごろごろと転がっている。余計なトラブルを避けるためにエリーシャは【同調】を発動した。女ひとりでこんな場所を歩いていたら場違いすぎて悪目立ちしてしまう。
本当にアナベルはこんな場所を訪れたのだろうか。奥に進むと酒場の喧騒から遠ざかり、居住区に繋がっていく。間口の細い家が連なりさながら迷路のようになっている。
一軒の家の前で、アナベルの姿を見つけた。出来る限り距離を取って――でも会話の内容を今度こそ聞きたい。
「ごめんなさい、お嬢様……わしらのために、こんなところまで来てくださって」
「いい。気にしないで」
アナベルはバスケットを差し出した。中にはパンがぎっしりと詰まっている。
「中に……少しだけど入っているから、必要なものを買って」
「ありがとうございます、この御恩はどうお返ししたらいいか」
「わたしこそ、婆やにもチェルシーにもよくしてもらったから。チェルシーの体調はどうなの?」
「ええ、おかげさまで。私達は古くから薬草の扱いに長けておりますから……お休みをいただいたおかげで、故郷近くの森で必要なものをすべて採取することが出来ました」
どうやら、使用人家族を見舞いに来たようだけのようだ。何もおかしなことはない、そう思い引き返そうとしたときだった。
「……だから、あのことは絶対に」
「ええ、誰にも言いません。あの薬は強力ですから。きっとお嬢様が思うように事は進むはずです。第一皇子殿下は、近いうちに」
――死に至るでしょう。
「っ!」
悲鳴を上げそうになった口を手でふさいだ。
もっと話を聞かなくては、これは重要な情報だ。そうは思うのに身体がぶるぶると震え、いまにも座り込んでしまう気がした。
ゆっくりじりじりと後退し、二人から距離を取る。老女は部屋の中に入り、アナベルは踵を返してこちらに向かって歩いて来る。
気づかれてはならない。呼吸さえも止めて、じっと動かないように耐える。
エリーシャのすぐ横をアナベルが通り過ぎて、足音が聞こえなくなった瞬間に腰が抜けた。
「エリー!」
エリーシャを探すユーリスの声が聞こえるまで、エリーシャはその場を一歩も動くことができなかった。




