【プロローグ】祭壇の仔羊、愛もしくは死の誓い
ひとりの仔羊が深紅の絨毯の上を歩いていく。
ヴィーダ帝国の国花でもあるグレイスローズをモチーフに編み込んだレースのヴェールは漆黒で、少女の身体を包むペールブルーのドレスにはたっぷりの白薔薇の生花があしらわれている。歩くたびにふわりと華やかな芳香が漂い、参列者はそろって頬を緩めた。
愛らしい少女をまるで花そのものに見立てたかのような衣裳だ。
深紅の道の先には青年が一人立っている。かすかに振り向き、恥じらいながらも歩みを止めない可憐な婚約者へ愛おしむようなまなざしを向けていた。
線が細く儚げな印象を与える彼は、息を呑むほどの美しい容姿をしている。高い位置にある窓から降り注ぐ陽光が、青年の金色の髪を弾き、眩い輝きを放っていた。
帝国歴702年金葉月――ヴィーダ帝国、帝都グレイスローズの大聖堂にて。
ユーリス・モレット・ヴィーダ皇子とエリーシャ・フォレノワール嬢の婚約式が行われた。ふたりの行く先に神のご加護が得られることを願い、祈りながら両者の手を水盆に浸す儀式を終えれば、この茶番劇も終盤に差し掛かる。
ユーリスがエリーシャのヴェールを持ち上げ、ふ、と口元を緩めた。ざわりと波のように参列者のあいだで驚きが広がる。
「なんだあれは……」
「おぞましい」
エリーシャはその顔の半分を黒い仮面で覆っていたのだ。前代未聞だと囁く声が響いた。これだから異教徒は、と悪し様に言い合う声も聞こえ始め、静粛にと呼びかける神官の咳払いなどではけん制しようがない事態に発展しかけたときだった。
「可愛いエリー」
婚約者の頬に触れ、囁くユーリスの表情は蜂蜜掛けの砂糖菓子よりもなお甘く、深い恋情に染まっている――ように見えることだろう。
向かい合っているエリーシャ本人を除けば。
「そんな悪戯をしようとも僕の気持ちは変わらないよ。僕たちは婚約……いや、共犯関係になるのだから」
そして物騒なことをエリーシャにだけ聞こえる音量で言う。こういうやつなのだ、この皇子は。短い付き合いなりに理解させられた――ユーリスを敵に回すことは出来ないのだと。
手袋を嵌めた長い指がエリーシャの仮面を剥ぎ取り、その下の素顔をあらわにする。潤んだ瞳を覗き込んで、ユーリスが今日一番の微笑みを見せた。
透き通るような白磁の肌に紅玉の双眸が映える。光を弾く銀灰色の髪は新雪のような輝きを放っていた。
初めてエリーシャの姿を目にした者たちからは驚きの声が上がる。美しい、宝石のような娘だ、と賛美する人たちのようすを満足げにユーリスは見守っていた。対して――ヴェールと仮面、身を守るものをすべて奪われたエリーシャは気の毒なほどに怯えていて、落ち着かないようすだ。テーブルの上に供されるメインディッシュとして、調理されるのを震えて待つ羊のように。
「……はあ」
ユーリスはため息を吐きながらつぶやいた。こういうのにも慣れてもらわなくてはね。
宥めるように、指の背でエリーシャの頬を撫でてあやす。睦まじいふたりの姿を目にした参列者から、わっと歓声が上がった。
「怯えているの、仔羊ちゃん♪」
「ひえっ、い、いいえっ……」
「大丈夫。怖いのも辛いのも大変なのもこれからいっぱい死ぬほどあるけれど、一緒に乗り越えていこうね」
それって何も大丈夫じゃないのでは、と言いかけたところを性急に重ねられた唇で塞がれたせいで、エリーシャはこれ以上――何も言うことはかなわなかった。