行っちゃダメ。杞憂に終わった秋の午後。
「あ。ほら見て六月? やっとみんな来たみたい」
一ノ瀬邸へと続く竹林を越えると、少し低めの
大人びた声が響き渡る。
けれどそれは『一ノ瀬さん』の声ではありません。
『六月』と一ノ瀬さんの名前を呼んでいるからには
その本人ではなくて、一緒に住んでいる梨愛さんの
方なのだと思われます。
梨愛さんは今年の夏に、この一ノ瀬邸へ居候することに
なりました。
あの時はホント、色々ありました。
紫子さんや瑠奈さん、それから玉垂もその場に
居合わせ、その時初めて、みんなは梨愛さんに
会ったのですが、あの時の衝撃は、今でも
忘れられない。
みんなで目を見張りその場にかたまり、いったい今
何が起こったのかと戸惑ったのが、昨日の
ことのように思えます。
考えてみれば、あれからもう数ヶ月は
経ったんですよね。
日にちが経つのは、本当に早いものです。
確かにあの時、瑠奈さんは腰が抜けるほどに
驚いたのですけれど、当のご本人たちは、そんな
生易しい感情ではなかったはずなのです。だって
物凄い形相でしたもの。
けれどあの後の一ノ瀬さん達は、意外にも
あっけらかんとしてましたからね、きっと自分たちが
あんな表情をしていた……なんて、夢にも思って
いないに違いない。
言えないけどね、本当のこと。怖くって。
見られたくなかった場面を、見られてしまった。
まさに、見ぃーたぁーなぁあぁぁぁー……の世界
だったのですが、あのお2人があの時どんな気持ち
だったのか……なんて、複雑すぎて、瑠奈さんたちには
推し量れない。
その大変さはきっと、瑠奈さんでは一生窺い知る
ことは出来ないだろうと思うのです。だってあれ、
本当に、特殊な状況だったんですもの。あんな境遇に
遭う事なんて、普通あるわけないもの。
……あぁ、それにしても、今思い出してみても
恐ろしい。下手をすれば、呪い殺されていても
おかしくない状況だった。しかも例え呪い殺すのが
成功したとしても、当の本人全く気づかないパターン
なんだろうな……。そう思うと、瑠奈さんは今でも
身震いが止まらない。
ホントこれ、シャレにならないから……。
『見てはいけないものを見てしまった……』
まさにその通りなんだけれど、よく良く考えて
みれば、そんなの、隠し通せるわけなんて
なかったのに。
だってこうして、紫子さん達は毎日のように
一ノ瀬邸を訪れていているのです。そこに
梨愛さんがいれば、嫌でも目に入る。仮に
隠れていたとしても、いつも斜め行く行動をする
紫子さんからは、決して逃れられない。
……絶対、見つかる羽目になるのだから。
「…………」
瑠奈さんは、東屋の上で優雅に手を振る梨愛さんを
仰ぎ見る。
見た目はともかくとして、きっと梨愛さんは、どこかの
お嬢さまなのに違いない。
だって、優雅なその物腰は、隠そうとしても隠し
きれない品位が見受けられるもの。たまに、おどけて
とんでもない事をして見せたりはするものの、基本
上品なその動きは、恐ろしくも瑠奈さんの
興味をそそる。
けれどあの時の2人の殺気は、尋常じゃなかった。
紫子さんはともかくとして、少なくとも
瑠奈さんと玉垂は『殺される!』って、本気で
思いましたからね。
玉垂なんて、実際、毛を逆立てていましたし……。
「……」
けれど天然紫子さんの機転で(機転と言うか
紫子さんの斜め行く発言のせいで)その場を
なんとか乗り切ったわけなのです。
けれど、あの時の衝撃は、未だに瑠奈さんの中に
残っている。そして密かに、あの日のことがトラウマに
なってしまっているのもまた、事実なのです。
ですから本当は瑠奈さん、一ノ瀬さんと梨愛さんの
ことを尊敬してもいますが、恐ろしいとも思っている。
(口が裂けても、言えないけれど……)
一ノ瀬さんが作るお菓子は大好きなのに
なんとも勝手な話ですよね?
あの時の梨愛さんは、動揺もあったせいか今よりも
もっと幼い感じがしていて、恐ろしいながらも守って
やりたいような、そんな儚い雰囲気すら感じたの
ですが、今やその片鱗は窺い知れない。
数日一ノ瀬宅で過ごし、梨愛さんも、人心地ついたのか
落ち着きを払ったその声は、女性と言うよりむしろ
男性的。少しハスキーなその声は、大人の色香さえ
感じるのです。
瑠奈さんはそんな梨愛さんが、ほんの少し羨ましい。
毎日、キャピキャピきゃーきゃーとうるさいウチとは
大違い。どうやったら、あんなに落ち着いた声が
出せるのかしら? わたしも数年後には、あんな風に
なれるのかしら? なんて、淡い期待を抱いてしまう。
一ノ瀬さんと梨愛さんは同い年なので、歳の頃は
20代後半くらい? 大学生の紫子さんや自分とも
そんなに歳が離れているとは、思われない。
そうなると、わたしも梨愛さんみたいに、いずれ
落ち着きが出てくるのかしら? そうなったら
いいのにな……。
そんな風に瑠奈さんは思っているのです。
一ノ瀬さんも梨愛さんも少しおっちょこちょいの
ところがあるのですが、ふとしたところで妙に
大人びて見えて、なんだか憧れの目で見てしまう。
あからさまに相手を助けているんじゃなくて、
何気ない救いの手が、相手を本当に思いやっている
のを如実に表しているようで、なんとも見ていて
微笑ましい。
長年連れ添った夫婦みたいなのに、あれでいて
未だに恋人同士じゃないって言うから眉唾物。
冗談でしょ?
なんで告白しないの? って、瑠奈さんは思って
しまうのです。
「……」
一ノ瀬さんに不満があるとしたら、きっとそこ。
見ていれば分かる。2人はきっと両想い。
本人たちだって、きっと多分、分かっている
……ハズ。
──ちゃんと……分かってるよね?
ねぇ。一ノ瀬さん?
瑠奈さんは途端、不安になる。
そこまで鈍感とか、そんなわけないよね?
「……」
まさか、ホントは気づいていないの──?
ウソでしょ?
でも、有り得る。
あの鈍感な2人なら、多分、有り得る。
だから思わず、もしかして……と勘ぐってしまう。
2人はそーゆー事に、異様に疎い気がするんです。
なんて言うの? 瑠奈さんの『勘』……?
いやいや、それってある意味罪ですよ?
一ノ瀬さん……。
でも──
と瑠奈さんは思う。
前に梨愛さんがポツリと言っていた。
恋愛なんて、関係ない姿になりたかったのって。だから
一ノ瀬さんも、言い出しにくいのに違いない。
好きだって言うのも、相当勇気がいりますもの。
関係がそれなりにいいのなら、『嫌いだ!』なんて
言う人はいないかも知れないけれど、『そんな気は
なかったの』……なんて言われる可能性は、
まだ残ってる。
期待して『絶対大丈夫だ!』なんて思っていれば
いるほど、言われてしまった時の衝撃は大きい。
そうなってしまった日には、確実に傷つきますしね?
そう……誰だって、出来ることなら傷つきたくない。
今のまま、平穏な日常が続いて欲しいって思ってる。
だから、言えない。
「……」
けれどそんな関係の中にあっても、ごく自然に
寄り添う2人。
告白してはいないけれど、傍にいる事が当たり前の
関係が築けている。
それって、なんだか羨ましい。
あぁ、わたしにもあんな風に気の合う恋人が
いたらなぁ……なんて、柄にもなく瑠奈さんは
溜め息が出てしまう。
梨愛さんもきっと、同じ気持ちなのでしょう。
もし万が一、一ノ瀬さんの好きな人が別にいたら
どうするの? って、そう思っているのに違いない。
好きで好きでどうしようもないのに、本音を聞くのが
恐ろしくてたまらない。
いいえ、好きだからこそ、聞けないのです。
相手が求める存在が、自分でなかった時
その時自分は、どうすればいいのって。そう、
さっきのお菓子を求める瑠奈さんみたいに!
こんなにも当たり前のように一緒にいて、それなのに
運命の相手は自分じゃなかった……なんて
考えるだけでも恐ろしい。
人の気持ちは分からない。
どんなに近しい人でも、その心の声は聞こえない。
だからこそ、怖い。
拒まれたら? 拒絶されたらと思うと、動けない。
そんな事になったりでもしたら、今度こそ
梨愛さんは、この世から消えてなくなって
しまうのかも知れません。前例がありますからね。
梨愛さんには。
2回目……なんて、もしかしたら、簡単にあの世に
行ってしまうかも。
そう思ってゾッとする。
奥手すぎるのも、考えものだと、瑠奈さんは思う。
元々は、一ノ瀬さんが片思いしていた彼女。
けれど告白するどころか、高嶺の花のような存在だった
らしいので、そっと陰から見ていたに違いない。
そのせいで梨愛さんは──。
「はぁ……」
2人を想うと、溜め息しか出ない。
両想いだったのに、なんて不器用なんだろう?
思い切って告白すれば、上手くいったかも
知れないのに……!
ん? なぜ、過去形なのかって?
だってそれは梨愛さんと一ノ瀬さんが──
「うわ、しまった。腕を振りすぎて、月状骨が取れた。
ごめん! それ拾ってくれないかな……?」
遠慮がちにそう言う梨愛さんが、何をして
いるのかと東屋の上を見上げれば、優雅に
振っていた手から、何やら白い物がパラパラ、
パラパラ……
え? 白い物? ──
「っ、梨愛さん? なに振り撒いてるんですか……っ!」
うっと息を呑んで、瑠奈さんは青くなる。
これだから人外は……っ!
……いやいやそもそも『月状骨』って、どこの骨だよ?
心の中でみんなツッコミながら、瑠奈さんは
慌てて東屋の下に走り寄ると、梨愛さんの
骨を拾い集め始めました。
そう。骨。
梨愛さんはすでに亡くなっていて、今は立派な
ホネホネの姿なのですよねー。ホント勿体ない。
一ノ瀬さんが告白しようと思っていても
当の本人が『恋愛とか、もう考えたくない』って言って
ホネホネで復活しちゃったものだから、もう何も
言えなくなってしまったのが本音なのですよ。
もし梨愛さんが普通のお化け姿だった
のなら、一ノ瀬さんも告白していたのかな?
瑠奈さんはふと、そんな事も考えましたが
あの一ノ瀬さんだしね、きっとそれも
無理だったかも知れないよね。と諦めている。
それを聞いて、紫子さんはクスクスと笑って
同意する。
『あの2人だから、しょうがない』
って。
でもね、一ノ瀬さんだって、今やお化けなんですよ?(実は。……ってコレ、言いましたっけ?)
ある意味、お似合いじゃないの?
そう言うと、紫子さんは複雑な顔をする。
『生きてないから、2人とも幽霊だから、だから
言えない事もあるんだよ』
そう言って。
もう、この世にはいないハズの2人。
だから、告白しない気なのかも。
紫子さんはそう言った。
パティシエになりたかったけれど、お化けだから
お店も開けない。
自由でいて、本当は自由じゃないんだよ。
どこかしら束縛されて、死んでしまった彼らも
生きてるわたし達も、ここにいる。
──自由じゃないから、面白いの。
紫子さんのその言葉は、分かりそうでいて
なんだか難しくて、瑠奈さんは深く
考えないことにした。
だって、今ここに2人はいるもの。
死んだって言ったって、確かにここにいる。
告白しなくても、ケーキ屋さんになれなくても
でも2人はここにいて、わたし達の傍にいて、そして
お菓子を作ってくれる。
今は、それだけでも、いいんじゃないのかなって。
そう思ったの。
過去に悲しいことは、確かにあった。
けれど今が悲しいわけじゃない。みんな笑ってるもの。
今はそれなりに、楽しんでいるものね?
もちろん、今は今なりの苦労はあるけれど
それはそれでいいんじゃないの? って。
焦らずゆっくり、進んでいけば。
──そう、思うことにしたのです。
見上げた梨愛さんは、月の光のように優しく
微笑んでいた。(まぁ、骨だしね? 太陽というより
月色でしたしね)
「ふふ。六月? だから言ったでしょう?
女の子はね、基本遠慮がちなものなのよ?
特に食べ物の事となると、目の色を変えちゃう分
ガツガツしないように、意識しちゃうものなんだから。
ここは六月が、彼女たちを招待するべきだったのよ?」
などと言いながら、拾ってもらった手の骨の
1つ1つを、片手で組み立てている。なんとも器用だ。
一時期、筋肉がないから立てない……と言っていたのが
嘘のよう。あ、違った。ホネホネになったのに慣れて
いないから立てないって言ったのか。
やっぱりあれは、筋肉がないせいじゃなくて
ホネホネに慣れていなかっただけなのね? と
瑠奈さんは妙に納得する。
「ごめん。気づかなくって……」
一ノ瀬さんは、ポリポリと頭を掻きながら
すまなそうに紫子さんと瑠奈さんを見ました。
「美味しそうな匂いでもさせれば、呼ばなくても
来るかなって思ってたんだ。いつも来ていたし。
ホントは、午前中に来て欲しかったんだけど、
ね……?」
なんて嘯いて、ペロリと舌を出す。
「「──」」
え? ウソ?
だったら今までの、わたし達の葛藤って──?
いやそもそも、『勝ち』を狙って一ノ瀬さんが料理の
匂いをさせていたんだったら、わたし達に
勝ち目なんかなかったんじゃん……。
「「……」」
もう、遠慮なんかしまい。
そう思い、口をへの字に曲げて、遠くを見つめた
2人なのでした。