甘いパイ。それだけじゃない魚パイ。
お隣に引越して来た一ノ瀬さんは、パティシエ志望。
とある理由あって、お店は出していないけれど
彼の作る料理は、どれもこれも美味しいのです。今
すぐにでもパティシエ……いいえ、レストランを経営
出来ると思われるほどの、腕前を持っているのです!
薄味だけど、ほっこりあたたまる日本食。
いくら食べても、飽きることのない洋食。
そして極めつけが、素材の味をふんだんに
生かした、甘すぎない優しい味のスイーツたち。
中でもパイの味は絶品で、以前作ってもらった魚の
パイは(……スイーツか?)、会話するのを忘れて夢中に
なって食べたほど。
あの時の中身は、サーモンときのこのクリームソース。
外は驚くほどサクサクのパイ生地だったけれど、
不思議とポロポロしていなくて、中身をしっかり
まとめあげていた。
魚の形を模したそれは、中はしっとり蕩ける
ようなきのこのクリームソース。
そしてそれを、しっかりサックリのパイ生地が
優しくサーモンを包み込んでいたのです。
サーモンとクリームソース。
いやいやサーモンとクリームソースときのこ……と
それからパイ。
それらが、こんなにも合うものだとは、紫子さんも
瑠奈さんも、全然知らなかった。
あの時は、夢中で食べたっけ──
そもそもパイの中身が魚とか、想像すらもしなかった。
ミートパイとかなら分かるよ? 何となく合うって。
だけど魚だよ? 魚全般、生臭いわけじゃないけれど
魚って言うと、生臭いイメージが一番にやって来て
バター風味豊かなパイ生地に、果たして合うの
だろうか? と眉を寄せたくなる。けれど、どうして
どうして。一ノ瀬さんの作るお魚パイは
泣きたくなるほど美味しかった。
その時いたのが、猫の玉垂。
化け猫玉垂は、クマのようにでっかい黒猫。
けれど不思議と人からは認識されない、不思議な
力をもつ妖怪猫。それが玉垂。
妖怪だからか、スイーツだって洋食だって、人間
みたいにペロリと平らげて、嬉しそうにしっぽを
振る玉垂は、もしかしたら中身、
人間じゃないの? って疑ってしまうほど。
一度だったか二度だったか、紫子さんは、
玉垂の背中をまさぐって、チャックを探した
ことがありますけれど、結局それらしい物は
見つからない。それどころか、まさぐる度に、
きゃらきゃら笑う玉垂が可愛くて、
思わず抱きしめてしまったくらいなのですから。
そう言え玉垂も、パイが好きだったっけ。
玉垂用の特大お魚パイを抱えて、ご満悦の
その様子に、『……クマの鮭狩り』とか、ポツリと
言った一ノ瀬さんが目に浮かぶ。
そんなことと知らない玉垂は、その特大お魚パイ相手に
無心で、かぶりついていたっけか……。
そこまでぼんやり思い出して、ハッとする。
……あ。そうだ、忘れてた。大切なお友だちの玉垂も
抜け駆けしないように、押さえておかなくっちゃ。
「……」
「……」
2人は途端、静かになり、じっと玉垂を見つめました。
すん……と細くなるその目に、玉垂は
びくっと毛を逆立てる。
だけど、あのパイはホント美味しかった。
きっと、一ノ瀬さんは、パイを作るのが得意なのに
違いない。
それなのに、行けないの? 今日は行っちゃダメなの?
玉垂だって来たんだよ?
今日は絶対、アップルパイなんだよ?
紫子さんは、無言で瑠奈さんに圧力を掛ける。
アップルパイだよ? 瑠奈さん、大好きだったよね?
「……」
無言のその訴えに、しかし玉垂はなんの事か
分からず、キョトンとして……いや、オロオロとして
2人を見比べる。
瑠奈さんは瑠奈さんで、頭を抱えながら苦悩の表情。
「う……うわぁ、あ、あ、あぁ……」
そしてついに、妙な唸り声を上げて、瑠奈さんは
その場に倒れ込んだのでした。
「え? えぇ? どうしたの? どうしたの??」
オロオロとする玉垂をよそに、紫子さんはニンマリと
微笑んだ。
「気にしなくていいの。
わたし達が勝ったのよ」
「? ……?????」
何が何だか分からなくて、目を白黒させて、瑠奈さんを
心配する玉垂。
かくて満場一致で、一ノ瀬宅を訪問することに
決まりました。めでたしめでたし。
もちろん、罪悪感があったので、近くのお店で
アイスクリームを買いましたよ?
手土産……とは名ばかりの、アップルパイに添える
高級バニラアイスクリーム! 紫子さんの大好きな
バニラビーンズ入りの、特大アイスクリーム!!
スキップが高らかと鳴り響く
とある秋の、午後の日の出来事でした。