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リビングに入ってから友美が隅で、がちゃがちゃ音を立てながら、何かを漁っているのには気づいていた。それから友美は「画用紙と書くものある?」と平太に聞き、その暫定的な家主から「部屋にある」との答えを得ると、ぱたぱたと軽い足音を立てながら二階へと上がっていった。
しばらく我々がまた、任天堂が世界に誇るあのワンダーランドに夢中になっていると、後ろで友美が画用紙にせっせと香水を吹きかけているのに気づいた。
「友美、何やってるの」まず結菜が尋ね、その後平太が「お母さんのだから、あんま使うなよ」と不機嫌そうに言う。友美は二人の言葉に具体的な反応をせず、何やら一通りの作業が完了したとき、「出来た」と満足げに声を上げた。
友美と我々の間の床には、数枚の画用紙が散らばっていて、そこには以下の図が描かれていた【図1~7】。
友美の意図がわからない我々は当然、「何これ」と軽んじる声を出し合った。しかしあくまで楽しげな友美が、もう一枚の画用紙【図8】を見せたとき、少なくとも私はその思惑の断片に触れられそうな気がした。
左に黄緑、右にオレンジの丸が三組、計六個並んでいる。一組目には半濁点のように見える小さな丸、そして三組目には濁点らしき二本の斜線が付いている。
どうだろうか。私はこれを最初見たとき、書いた人物が友美であることもあり、「パンダ」という単語を思いついた。いまだ納得のいかない法令を突きつけられたような顔をする三人をよそに、私は友美が用意した画用紙と香水の瓶を手元に持ってきた。
まず一組目、「は」と見当をつけた私は、七枚の図と照らし合わせながら、ブルガリとディオールのノズルを順に嗅いだ。そして画用紙の一組目、「一本目」「二本目」と書かれた箇所【図8①、②】に鼻を近づけた。
ビンゴ。
正確に言うと、このとき確信を持ったわけではない。バラを思わせる香りと、それにやや女性的な風味を加えた香気が、このとき嗅いだノズルのそれらと一致するように思えた。私は次いで、「ん」と「た」に相当するのが「イヴサンローラン、ブルガリ」「シャネル五番、グッチ」であるのを確認し、同様にそれらの瓶を順に嗅いでいった。
嗅ぎ比べると、友美が勝手に持って来た香水それぞれの特徴が、おぼろげながらわかる気がしてきた。二文字目、三文字目にも際立った差異がないと判断した私は、「パンダ」と一言、友美の方を見ながら言った。
すると、友美は嬉しそうに両眼を細め、「正解」と何度も手を打ち鳴らした。まだ状況を理解できずにいた三人は、任天堂の小悪魔的な魅惑をも忘れ、「何?どういうこと?」と、餌の隠し場所を忘れたリスのようにして説明を求めるのだった。
◇
27才の時点でも考案されて十五年経った暗号規則を、なぜ正確に覚えていたのか、という疑問が出るかもしれない。当然ながら、大人になってから雄二に「暗号」を手渡されたとき、上の規則をはっきりと記憶していたわけではない。ただ、ブルガリやシャネルといった言葉の響きはうっすらと覚えていて、さらに、卒業アルバムに例外的に残っていた写真を、携帯で雄二に送信してもらい、規則を復元することに成功した。
その写真には、遠足で栗拾いに行ったバスの中で、「遠足のしおり」を開いて笑顔を向ける結菜と友美が映っている。そのページにだけ唯一、香水でなくペンで暗号が記されているのである。
そこには「ドルガバ、ディオール」、「シャネル、イヴサンローラン」、「ドルガバ、クリード」、「グッチ、クリード」、「ドルガバ、グッチ」、「シャネル、グッチ」とつたない筆致で書かれている。
つまり、「おなかすいた」。
私はこの内容も偶然覚えていた。
だが、シャネルの五番と一口に言っても、オーデュパルファム、オーデュトワレットと種類はいくつもあり、他のブランドも同様である。したがって、そもそも十五年経った「暗号」を一枚受け取ったところで、もはや解読は不可能である、と主張する読者もいるかもしれない。
結論から言うと、これらの問題に直面したとき、私は大学時代同期の大学院生に協力を仰いだ。よって、それについては後述するため、今は「暗号規則」はそこにあるものとして見ていただきたい。