小話・独立の話
デナーダ辺境伯ウェンリーが好んだもの。
それは、夜のひとときを妻パトリシアの髪を撫でながらまったりと過ごすことである。
彼女の汗ばんだ身体を自分の腹の上に乗せ、彼女の額に口づける。
ぽつりぽつりと交わす会話。
少し掠れた妻の声は、いついつまでも聞き続けられると彼は思っていた。
そんなある夜。
なんの話をしていた時だったか。妻は彼の顔を覗き込んで問うた。
「独立は考えているの?」
そういえばこの質問、パトリシアが初めて辺境の地に降り立ったときにも訊かれていた。王都では辺境伯が独立を目論んでいるという、まことしやかな噂が流れていたらしい。
王はそれを阻止するために美女と評判のパトリシアをこの地に送り込んだらしい。
勿論、彼らが旧知の仲だなんて王は知らない。
だが、かつて一度だけ会ったことのある王太子には言ったことがある。“オグロ侯爵家の令嬢に縁談を申し込もうと思っている”と。あの小賢しい王太子は、ウェンリーの心中を察していたのだろう。
「今、答えなければダメか?」
正直、独立だなんて考えは微塵もなかったが。
「ううん。答えが決まったら言ってくれればいいから」
ウェンリーの言葉に、パトリシアはそう返事をして微笑んだ。
どうやら妻は彼が望むのなら独立させたいらしい。あの時も瞳をきらきらと輝かせて“一緒に戦術を練ろう”などと提案してきた。
あの、瞳に涙をいっぱい貯めながらの上目遣い、……とても、よかった。
それがとても良い笑顔で健気な台詞を言う。……なおよろし。
もともと胸に秘めた初恋だった。
けれど美しく成長したパトリシアのあの瞳を見て、ウェンリーはさらに恋に落ちた。同じ人間に二度も恋に落ちるなんて、これはもう、魂の根源から彼女に囚われているに違いない。
妻の寝息を子守唄に、夫は瞳を閉じた。
その後、懸案事項だった隣国をA国と共に攻め滅ぼした。
パトリシアの文通友だちがA国に二人いる。王太子の婚約者候補だった時代に友人になった令嬢たちだ。彼女たちがA国の有力貴族に嫁いだお陰で、裏で条約を結ぶのは順調にいった。あの時、作り上げた人脈は永遠の友情となって彼女たちの今後を左右するだろう。
パトリシアは毎日が忙しくなった。
公的には辺境伯夫人として城を取り仕切り、昔の交友を元に社交に専念した。辺境警備隊にもちょくちょく顔を出し、馬を操り先陣を切って弓の腕前を披露した。
私的にも家族が増えたりして忙しく、過去、閨で夫と交わした他愛無い会話など、ほとんど忘れていた。
そんなある日。
「独立しようと思う」
夫が妻の質問に答えたのは、妻が初めて質問をしてから実に十年後のことだった。
長考にも程があると妻は思ったが、次の瞬間には円満に独立する方法と、力づくて独立する方法、それぞれ3パターンずつ脳内で展開させていた。
昔から悪巧み、もとい、戦術を練るのに自信があった妻は、衰えぬ美貌で艶やかに微笑み
「独立。結構なことじゃございませんか」
と、夫の意見を肯定したのだった。