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ピアノのある終着駅  作者: 東空 塔
第六章 ピアノの危機
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少路綾子(しょうじ・あやこ)

 少路綾子の父親は、事業の成功により突如裕福になった、いわゆる成金であった。長年の間に染み付いた、貧乏性を払拭ふっしょくしたかった両親は、綾子にお嬢様教育を施すため、名門女子校に入学させた。だが、お嬢様の品格というものは、頑張って身につくものでもなく、綾子は窮屈な思いを抱いていた。

 そんな中、綾子の唯一の楽しみはピアノだった。練習すればするほど上達し、美しく弾ければ嬉しいし、周りからもめられる。綾子はますますピアノにのめり込み、気がつけば音大のピアノ科に在籍していた。

 音大生となってしばらく経った頃、綾子は両親からとあるパーティーに参加するよう言われた。それは、裕福な家庭の子女が集まる出会いの場だった。参加してみると、周りは折り紙付きのお坊ちゃまお嬢様ばかり。綾子が場の空気に馴染なじめずにポツンとしていると、一人のイケメンが、近づいて来た。綾子から見れば、いかにも育ちの良さそうな〝あちら側〟の人間だった。

 こんなモッサイ私に何の用かしら?と思っていると、彼は胸ポケットのハンカチを取り、「失礼」といって綾子の髪を拭いた。

「……え?」

「これが付いていましたよ」

 彼はハンカチを広げて見せた。それは一粒の寿司米だった。

「まぁ……すみません」

 恥ずかしいという気持ちはあったが、それをきっかけに綾子は彼と打ち解けて話すことが出来た。それが倉岡勇との出会いだった。

 それから二人の交際が始まった。綾子は生まれて初めてピアノ以外のことに夢中になった。綾子から見れば、倉岡には長所がたくさんあった。にも関わらず、倉岡は卑屈になる傾向があったので、綾子はその都度励ました。すると倉岡は素直に自信を取り戻すので、綾子はそんな彼を愛おしく思った。

 そうして年月が流れ、卒業を目の前にした時、綾子はスランプに陥った。思うようにピアノが弾けなかったのである。卒業試験ではベートーヴェンの熱情ソナタ第一、第三楽章を弾くことになっていたが、師事していた先生からも酷評を受け、すっかり心が折れてしまった。

 ヨーロッパに行ってみよう、と思ったのはそんな頃だった。その前年、友人がハンガリー・ブダペストの音楽セミナーに参加して、見違えるほど演奏が良くなったのを思い出したのだ。

 倉岡は反対したが、綾子はそれを押し切ってブダペストのセミナーに参加した。そこで指導教員から不思議な助言を与えられた。

「あなたは、ベートーヴェンの求愛を拒んでいますね……」

「ベートーヴェンの求愛?」

「マルトン・ヴァーシャールに行ってみなさい。そこであなたは答えを見つけるでしょう」

 マルトン・ヴァーシャールはブダペストの郊外にあり、ベートーヴェンが一時期滞在したブルンスヴィック邸がある。そこでひとつ屋根の下、共に過ごしたヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという女性は、ベートーヴェンの〝不滅の恋人〟と呼ばれ、綾子が取り組んでいる熱情ソナタは彼女のために作曲されたとも言われている(※)。

 綾子はブルンスヴィック邸で幾つか展示を見学した後、ベートーヴェンが〝不滅の恋人〟に宛てた手紙を読んだ。すると次の一文が目に飛び込んで来た。

「...bleibe mein Treuer einziger schaz(ママ), mein alles, wie ich dir(どうか私の貞淑なる唯一の宝物、私の全てであり続けて下さい。私があなたにそうであるように)」

 綾子は雷に打たれた気持ちになった。これはベートーヴェンから自分へのメッセージだと思った。


 現実の恋人か、ベートーヴェンか? 綾子は悩んだ。悩み切った結果、綾子は一つの決断を下した。


 帰国後、綾子は倉岡に別れを告げた。

「ずっとあなたのことが好きでした。でも……私はベートーヴェンの〝不滅の恋人〟でありたいのです」

 

(注:ベートーヴェンの不滅の恋人が誰であったかは諸説あり、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック以外に、その従姉妹ジュリエッタ・ヴィッチャルディ、アントニー・ブレンターノなどの候補がいる。また、ベートーヴェンが、熱情ソナタを本当にヨゼフィーネに捧げようとしたのか定かではないが、表向きは兄のフランツ・ブルンスヴィックへの献呈となっている)

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