水森羊子/梶坂貴司
カクテルバーを出た水森は、右手の中指をじっと見た。倉岡は僅かにペンだこがあるといったが、言われなければ本人も気がつかない程度だ。
そして手帳とペンを取り出し、「酔って妄想」「元カノ」「略奪愛」「ベートーヴェン」と書いていった。略奪愛の恋敵が、第九や運命を作曲したベートーヴェン……普通に考えれば有り得ない。ベートーヴェンとは何らかの隠喩で、現代に生きる男性に違いないと水森は思った。
スラムダンクという漫画では、主人公が、バスケ部の男子に恋する少女にフラれ、バスケットボールを恨むところから物語が始まる。動機としてはいささか幼稚ではあるが、倉岡が同じ理由でピアノに恨みを抱いている可能性は否めない。つまり、倉岡のいう〝ベートーヴェン〟とはピアノ関係者かもしれない……と思ったところで、羽越喜一もピアノ関係者であることを思い出した。ちょうど彼とはスカイプをする約束をしていたので、その時に訊いてみた。
「……というわけで、ベートーヴェンという異名を持つ、ピアノ関係者に心当たりない?」
「大勢いすぎて絞り込めないよ。キダ・タローにちなんで〝浪花のベートーヴェン〟を名乗る人なんか、ゴマンといるしね」
「そうか……喜一さんの同業者ではいないの?」
「有名どころではいないなあ。個人レベルとなると、広範囲すぎてもはや検索不能……」
「だよね……」
「なんだか役に立てなくてごめんね。僕に出来ることがあったら何でも言ってね!」
「ありがとう……またね」
羽越は力になろうと懸命だ。しかし海外にいる彼にはあまり出来ることがない。スカイプを終えた水森は、手帳のメモ書きをただ眺め続けた。
†
梶坂貴司は焦っていた。署名集めの状況が芳しくないのだ。
「中川、サークルのメンバーだけど、もう少しプッシュできないか」
「無茶いうなよ。彼らも精一杯やってるんだ。これ以上プレッシャー与えたら逆効果だぞ」
梶坂としても、ボランティアの彼らにあまり無理は言えない。とはいえ、児玉啓介が度々進捗状況を尋ねてくるし、百瀬結奈があれこれ言ってくるのもストレスとなっていた。
「まだ目標の半分も達成していないじゃない! これじゃ、あのピアノ撤去されちゃうよ?」
「わかってるさ。だけど社会連携サークルのメンバーも精一杯やってるんだ」
「社会連携サークル以外にも間口を広げればいいじゃない。なんかまだやり残していることがある気がするけど」
「もう手は尽くしてるさ。君こそ、もっとやれることがあるんじゃないの?」
「はあ? 受験生にこれ以上何をしろというの? 落ちたら貴司さん、責任取れるの?」
このように二人の会話もギスギスしたものとなり、梶坂のストレスが増し加わる。それが結奈への態度にも表れるという、悪循環に陥っていた。
(ああ、めんどくせえ!)
いっそのこと、さっさと駅からピアノを撤去してしまえばいいのに、という考えが頭をよぎるが、それを打ち消すように首を振る。そう考えてしまったら負けだと梶坂は思ったのだ。
梶坂は原点に立ち帰ろうと思って、川渡中央駅に立ち寄った。件のピアノのところでは若い男が弾き語りをしていた。それは梶坂の知っている顔──田村カイ。APISの元ボーカルで、突然姿を消した恋人に向けて、ラブソングをネット上に流して話題となった男だ。最近動画の再生数が急上昇し、地元では知る人ぞ知る存在となっている。
梶坂はふとあることを思いついて、カイに近づいていった。
「君、……田村カイ君だよね」
「そうだけど、オレに何か用?」
「ちょっと頼みたいことがあるんだ」
「頼み?」
カイはペットボトルの水をごくごく飲み始め、一定量飲んだところでプハッと息を吐いた。