倉岡勇(二)
終業時刻になると、倉岡の部下たちは解放感にあふれて一人二人と去っていった。〝開発〟は原則的に残業が許されない。それで定時には、クモの巣を散らしたように、事務所の中が空になる。
この時間は倉岡自身、プレッシャーから解放される時でもあり、同時に孤独を自覚する時でもあった。
部下たちは表向きはペコペコしていても、本当は自分を馬鹿にしている。わかり切ったことだ。幼少の頃から倉岡は、周りから馬鹿にされ続けていた。家では優秀な兄弟と比較され無能呼ばわり、外では親の七光りでヨイショされるも、陰で馬鹿にされていた。
でも今まで一人だけ、倉岡の《人となり》を尊重して接してくれた人物がいた。
少路綾子……大学時代に交際していた女性だ。彼女は人の良い所を見つける天才だった。ただお世辞を並べ立てるのでなく、真心から相手の長所を褒める。逆に短所については、相手を怒らせることなく上手に助言した。彼女のおかげで倉岡をとりまく、あらゆることが好転した。しかし、そんな大切な恋人も、あの男のせいで離れてしまった……。
倉岡はアフターファイブには、1人でカクテルバーへ行くことが多かった。もともとビールを飲まない上、ワイワイと大勢で騒ぎ立てる様な大衆酒場は、どうも居心地が悪かったのである。
いつものようにカウンターに座り、マスター自慢のオリジナルカクテルを嗜んでいると「お隣、よろしいでしょうか?」と一人の女性から声をかけられた。
振り向いた倉岡は我が目を疑った。
(綾子!?)
まさか、少路綾子が会いに来たのか、と思っていると……
「もしかして、どなたかお座りでしたか?」
と問うので、倉岡は慌てて「いえ、どうぞ」と隣席を勧めた。それにしても少路綾子によく似ている……と思ったが彼女の手を見て綾子ではないと分かった。手はその人を表す……それが倉岡の持論だ。この女性は綾子とは違う職種で、たぶん文筆業ではないかと倉岡は推測する。
「失礼ですが……記者さんですか?」
「ええ!? どうしてわかったんですか?」
彼女はそういって名刺を差し出す。
「週間鏡星の水森羊子さん……ですか。いやね、あなたの右手中指に僅かながらペンだこがありましたので、……このデジタル時代に本物のペンを使うのは記者さんくらいかな、と思っただけです」
「おみそれしました。……ところでそのお酒、美味しそうですね」
「ええ、僕はこれが好きで、この店に来るんです」
水森は倉岡の勧めに従って、同じカクテルを頼んだ。
「美味しい!……でも、結構強いお酒ですね」
「たしかにアルコール高めですが、悪酔いしないんですよ。むしろ夢見心地になって色んな情景が浮かんでくるんです」
「ふうん……あ、ドイツの情景が浮かんできました!」
「ドイツ?」
「そこにボーイフレンド、いえ、まだ正式に付き合ってはいないんですけど、仲のいい男の人がいるんです」
「いいですねえ、〝まだこれから〟みたいな関係。僕は反対に〝もうおしまい〟……そうそう、水森さんによく似ているんですよ、昔の彼女」
「またまた、ご冗談でしょう?」
「冗談ではないですよ。さっき水森さんと会って、あまりにも彼女にそっくりでびっくりしたんです。一度彼女に会ったらあなたもびっくりするでしょうよ」
「その方は、今どうされているんです?」
「わかりませんよ。別れたきり連絡ないですから……」
「でも、お酒飲んで思い出すほど大切な恋だったんですよね。どうしてお別れに?」
「略奪愛ですよ。あの男……ベートーヴェンに彼女をとられたんです……」
「ベートーヴェンに……彼女をとられたですって!?」
水森はわけがわからず顔にクエスチョンマークを浮かべたが、倉岡は「余計なことを話してしまいましたね」と、それ以上その話題には触れなかった。