梶坂貴司(かじさか・たかし)
梶坂貴司が大学内のカフェであまり好みではない味のコーヒーを啜っていると、腹の出た中年男のような学生が手を上げて近づいてきた。
「よお、梶坂!」
「おお中川、悪いな、呼び出して」
「いやいや、あれほど嫌がっていたのに、急に引き受けてくれたんでビックリだよ」
彼の名は中川尚人。文明大学社会連携サークルの部長である。サークルでは地域連携でYOSAKOIグループを作ることになったのだが、そのオリジナル曲の作曲を梶坂に頼んでいたのだ。
「曲なら出来てるよ、ほら」
「うそだろ、もう出来たのか?」
梶坂はスマホで自作の音源を再生した。中川は聞きながらそのクォリティの高さに驚嘆した。
YOSAKOIに使う曲は、高知県民謡のよさこい節や北海道のソーラン節などをベースに、オリジナルのメロディーを織り込みながら、日本の伝統音楽とビートの効いたダンスミュージックを融合させて作る。梶坂が今まで断ってきたのは、そういった音楽的方向性が自分には不向きだと思っていたからだ。
「うわ、これすげえよ!」
「歌はとりあえずボカロにやらせてるけど、サークルで使うまでには生で歌う子探しておくよ」
「ありがとう、早速みんなに聴かせてみるよ」
といって去ろうとする中川を、梶坂は「ちょっと待て」と引き止めた。
「ん? まだ何かあるのか?」
「……曲を渡すには条件がある」
すると、中川は少し落胆した顔を見せた。
「やっぱりな。タダでお前が動くとは思ってなかったぜ」
「条件といっても、大したことじゃない。社会連携サークルで署名を集めて欲しいんだ」
「おいおい、思いっきり大したことじゃないかよ! ……で、なんの署名集めんの?」
「川渡中央駅にピアノが置いてあるだろ。市があれを廃止する動きになっているらしい。その反対署名を集めてくれ。それが曲を渡す条件だ」
「……おまえさ、それ最近できた女子高生の彼女に頼まれただろ?」
とたんに梶坂の顔が赤くなった。
「図星かよ。おまえさ、いつも付き合う前は俺様風吹かせるくせに、付き合い出すと途端に尻に敷かれるよな。今回もそのパターンか」
「うるせーよ」
中川はしばらく梶坂の反応を楽しんでいたが、やがて真面目な顔になっていった。
「……にしてもだ、市の条例改廃を提言するには市内に住む有権者の50分の1の署名を集める必要がある。たしか川渡市の有権者数は101126人。だから計算すると2023人分の署名を集めなければならないわけか。結構大変だな」
「そこを何とか頼む。もちろん俺は俺で集めるから」
「わかった。それがYOSAKOIの新曲をもらえる条件だっていえば、みんな本気で集めるだろう」
「サンキュー、よろしくな」
†
大学を出た梶坂は川渡中央駅に出向いた。〝彼女〟の演奏を聴くためである。駅につくと、すでに結奈は演奏の真っ最中だった。舞子と留美はウットリと耳を傾けている。曲はプロコフィエフのトッカータ。怒涛のように押し寄せる、調性と無調性の入り混じった音の群れ。わが恋人ながらよくこんなの弾きこなすなあと梶坂は感心する。弾き終わると、結奈は梶坂を横目で睨んだ。
「遅いっ! 待ちきれずに弾いてたわよ!」
「ごめんごめん、話が長引いてな……あ、演奏良かったよ」
結奈は疑いの目を向けていう。
「本当ぉ? 前みたいにちゃんと厳しく批判してよお」
「……そんなことしたらまたぶっ飛ばされるだろ」
梶坂がそういうと、留美が冷やかしはじめた。
「本当にタカシさん、やさしくなっちゃったね。やっぱり愛情かしら?」
「ちょっと留美〜、からかわないでよ!」
結奈も梶坂も顔が真っ赤になる。梶坂は照れ隠しするように結奈に報告した。
「そうだ、大学の社会連携サークルの方で署名運動やってもらえることになったよ。目標は2000件以上。向こうだけじゃ大変だから、俺たちでも集める必要がある」
「わかったわ。お父さんやお母さんの生徒さんたちも入れれば多少は増えるかも」
こうして梶坂たちの署名運動は始まった。