倉岡勇(くらおか・いさむ)
「はっきり言いますが、あなたがたは給料泥棒です!」
決して広くはない会議室の中で、倉岡勇の怒鳴り声がガンガン響き渡る。
「いったいあなたがたは、これまでどんな仕事をして来たんですか!?」
怒声にうなだれていたのは、ほとんどが倉岡の親くらいの年齢の部下たちだ。彼らは心の中でこう呟く。
──何も知らないくせに偉そうに──
そうは思っても口に出せない。立場の違いという、残酷な現実がそれを阻むのだ。一方、倉岡もそんな部下たちの憎悪に気づかぬほど馬鹿ではない。そして平気でいられるほど強いメンタルもなかった。だからこそ、ひたすら怒鳴り続けて自分を守ろうとした。そんな悪循環が、事業部の空気をますます険悪なものにしていた。
開発事業部のメンバーは、一日の仕事が終わると酒場で倉岡部長の悪口をぶちまけていた。さいわい、倉岡は〝ビールは労働者階級が嗜む酒〟などと実家で教育されていたので、大衆酒場に立ち寄ることはなく、部下たちの罵詈雑言を耳にすることもなかった。
橋本と下坂はもともと川渡市役所の職員で、定年間近になって〝開発〟に出向となり、開発事業部に配属された。長年お役所気質が身についたおかげで、空虚な気合根性論を叫ぶ倉岡を受けつけなくなっていた。
「俺もこの年までいろいろな人間を見てきたけど、倉岡みたいなのは厄介だ。上から認められたくて、派遣先でいろいろなものをひっくり返したり、振り回したりする。だが結局は何も生み出さないどころか、前よりずっと悪い状況となっている」
「そうそう。失敗して結局退いていくわけだけど、まるで躾のなっていないガキが散らかした部屋のように、カオスな状況が後に残る。結局、残された人間が後片付けをするんだ。奴らのやっている事は、創造的じゃなく破壊的だよ」
などと盛り上がっているところに、一人の女性がやってきた。
「すみません、ここ相席してもいいですか? 混んでいて、他に席が空いていなくて……」
あたりを見渡せば、他にも空いている席はいくらでもある。しかしオジサンたちにとって、若い女性が同席することは決して嫌なことではない。
「ああ、どうぞ。こんなむさ苦しいところでよろしければ……」
橋本がいうと、その女性……水森羊子は蠱惑的な笑みを浮かべてその隣に座った。とりあえずビールを注文した水森は、「何だか楽しそうなお話ししていましたね。もしよかったら私にも話して下さいよ」と持ちかけた。すでに酔っ払って出来上がっていた彼らは、何も警戒することなく、ペラペラ話し始めた。
「楽しくなんかないですよ、お嬢さん。僕ぁね、息子みたいな年頃の上司に、毎日ドヤされとるんです、わかります? これが人生なんですよ、世の中ってなあ世知辛いもんでしょう」
「まぁ……大変なんですね。でも、その倉岡っていう人、どうしてそんなにムキになっているんでしょうね?」
「あいつは皿池建設にいたんだけどね、そっちもコネ入社で入ってたんですよ」
「コネ入社っていうと、親御さんが会社の重役とか?」
「あいつの親父が国会議員なんですよ。裏口入学した大学を、ギリギリ卒業した能無しのボンクラだったけれど、親への口利きが期待されて、皿池建設に採用されたって噂です。でも、七光りの給料泥棒とか陰口を囁かれて、さすがにそれはまずいということで〝開発〟に飛ばされたらしいんですよ。ここで実績を残せば実力が認められて、本社としても堂々と出世させられるってね」
「その、実績……残せそうですか?」
「さっきも言ったけど、能無しのボンクラで仕事なんか出来やしない。だけどエラそうな口をきく才能だけはあってね。俺たち部下が、嫌々ながらでもキチンと動いて成果が出れば、それがヤツの実績として評価されるだろうね」
「なんだか理不尽な話ですね……ところで、その倉岡さんが川渡中央駅のピアノを廃止するよう主張していると小耳に挟んだんですけど……」
「ああ、あれね。……あいつが派遣されてきて市内を視察した時、あのピアノを見て急に叫んだんですよ。『どうしてここにこんなものがあるんですか!? 即刻廃止すべきです!』とね。理由を訊いたら景観を損ねるとか、無駄な維持費もかかるとかで……でも、別に景観を損ねるとも思えないし、維持費も年間せいぜい数万円でケチるほどの金額でもない。それなのに、あいつは一度言い出したらきかなくて、誰もその件に関して口出しできんのですよ」
水森はふと疑問に思った。なぜ倉岡はそこまでピアノ廃止に固執するのだろう。何か深いわけでもあるのだろうか。いずれにせよ、ピアノ廃止案の鍵は倉岡にあるという確信が水森の中でますます強まった。